4 篭絡にらめくら

 絶世。

「………………………………」

 おそらく、この場にいてステージを見ていた人間全員が、同じことを思ったはずだ。

 今、目の前にいる少女は、間違いなく、自分が人生で見てきたどの女よりも美しいと。

 母親よりも、姉よりも、妹よりも、娘よりも。

 ランウェイを歩くモデルよりも、スクリーンを占領する女優よりも、ステージで踊るアイドルよりも。

 あるいは。

 自分がその愛を一心に注ぐ恋人よりも。

 今、眼前に現れた彼女こそが美しい。

「………………………………」

 その場が、静まり返る。

 少女は、薄墨色の質素で飾り気のない浴衣に身を包んでいた。そこに豪勢さはまるでない。賭博日和ギャンブルデイズのために用意された体育館の豪奢な煌めきには、まるで及ばない。

 しかし、負けない。カジノホールの輝きなど曇らせるように、少女は悠然と立っていた。いやむしろ、その輝きを反射して、おのれこそをより強く光らせているようにも思えた。

 日差しを受ける月のような。

 光を受ける宝石のような。

 少女は、一歩、前に出る。するとまるでそれが自然な現象であるかのように、ステージ前方に集まっていた者たちは一歩、下がるのだ。

 美しいものが傍にあるとき、傷つけないように下がるのは当然のことだ。そう、当然だ。

 すっ、と。

 彼女は袂から扇子を抜き去る。その指の細く、たおやかなこと。その肌の白く、なめらかなこと。その動きの鮮やかで、背筋を震わせること。

「………………なんや」

 言葉が、紡がれる。鈴を転がしたような、可憐で清冽な声。紅を引いているのだろうか、赤い唇はゆっくり動き、常にほほえみをたたえていた。

「えろう座が白けはったなあ。どないしたん?」

 などと尋ねているふうを装っているが、どうやら少女は周囲がこのような反応を返すのを承知していたらしい節があった。本気で疑問には思っていない。むしろ、いつも通りだと言わんばかりだ。

 大仰で、今どきそんな訛り方誰もしないだろう、エセっぽい京都弁がむしろ味になっていた。

 そして彼女は、扇子を広げると口元を隠した。顔の下半分が隠れ、目元が強調される。その輝く、黒真珠のような大きな瞳が。

 瑞々しい黒髪は、まるで童女のようなおかっぱ頭。だがその稚気がむしろ、彼女をなまめかしくすらさせていた。

「あれが…………」

 件のゲスト。天京の真剣師。

 年齢は、僕と同じくらいか、少し下か? いや、今この場においてそんなことはさして重要ではない。

 問題は、やはり。

 その美しさ。

 毒のように振りまかれる、その媚態。

「あ、あれは…………」

 カウンターの向こうで、㐂島きじまさんがうめく。見ると、彼女は真剣師の少女を直視しないように目を細めていた。

 そうでもしないと、駄目なのだ。

「なんなの……? この世の生き物なの?」

 かつては自分がギャンブルで勝つことで相手に損を与えるのを怖がるほどに温厚だった㐂島さんですら、そう口にしてしまう存在。

「さて…………面倒になってきましたね」

 あれは、やばい。

 己の美しさを知っている女。その美しさが相手にどのような影響を与えるか知っている女。そして、その美しさをどう振りまけば効果的か知っている女。

 僕はそういう女たちを知っている。

 夜島帳であり、木野哀歌だ。

 そして夢の中で会った、夜島麻布まふさん。

「まさかこの世に、麻布さんレベルで美観を利用するやつが他に存在していたとは」

 ステージ付近にいる者たちは、完全に気を抜かれている。まるで亡者のように、もはやぼうっと真剣師の少女を眺めることしかできていない。

 㐂島さんがギリギリ無事なのは、ここがステージからやや遠く、少女がはっきりとは見えていないからだ。

 くわえて僕が無事なのは、夢の中で麻布さんと出会い、予習していたからだ。

 見ないという瞳術。

 観察力と推理力の極致である、見る技術の粋である瞳術を裏返し、見ないことに特化した瞳術。あえて名づけるなら瞳術『不見識』。今、それによって僕はあの真剣師を見ながらにして観察していない。

 見ることは観ることではない。そんな、探偵っぽいことを逆に利用して、かろうじて命を取り留めている状態だ。

「しかし…………」

 麻布さんとの邂逅のときは余裕がなく考えていなかったが、こうして同類たる少女を見て気づくこともある。彼女の美的レベルは帳と哀歌と同等だ。決して彼女が抜きんでているというわけではない。だが、帳や哀歌が『目に毒』なほどその美観を発揮したことはない。

 なるほど、あれは技術的な側面が強いのか。裏返せば、帳や哀歌はその点、まだ成長の余地が残っているという恐ろしい話だが。帳はともかく哀歌は、この手の技術を手に入れると兄の僕でも手に負えなくなりそうだ。

 意地でもこの媚態を振りまく技術の存在を、哀歌に知らせるわけにはいかないな。

などと、兄っぽいことを考えていたが、それでは話が終わらない。

 僕は意を決して、近づくことにした。

「あ、待ってよ!」

 後ろから臆することなく、㐂島さんもついていった。

「この学校の理事長さんに頼まれてなぁ」

 ステージの上では、少女の独演が続く。

「真剣師の腕、見せたってって話やったんやけど、どないしよか? うち、何すればいいんかな?」

「うーん、そうですね」

 笹原が首をかしげる。あいつはなんで無事なんだ?

「まず、誰かこの人と戦いたいって人います?」

 笹原の疑問は的確だった。今、ステージを見ていた人たちは魂を抜かれたようになっている。真剣師の少女の美しさに文字通りわけだ。これではそもそも、勝負にならない。

 何をする、どころか誰とするのかという状態だ。人が集まらなければギャンブルはできないが、その肝心のプレイヤーが誰もいないのは明白だ。

「笹原」

「あ、先輩!」

 ステージに近づき、笹原に声をかける。

「その話、僕が乗ってもいい」

「さっすが先輩! 話が分かる! ……でもなんで先輩は無事なんですか?」

「美人は三日で飽きるって言うからな。それに僕の周りには美人が多い。というか笹原が無事なのが僕は疑問なんだが」

「わたしは仕事スイッチオンですから!」

 どんなスイッチなのかは定かではないが、ようするに司会業をまっとうしようというプロ意識が笹原を繋ぎとめているらしかった。なんだかんだ言ってちゃんと仕事するやつだからなこいつは。

「それ以前に宿題は大丈夫なのか?」

「宿題は嘘ですよ。先輩と違って最終日まで残したりしませんって。今回の司会を受けてるって先輩にバレないようにするための方便でした」

「その方便の必要性が薄い気もするが……まあいい」

 そして、真剣師の少女に向きなおる。

「賭博は趣味でも領分でもないが、一介の高校生探偵でよければ相手になろうか」

「こらまた……………………………………えろう、純朴そうな探偵さんやね」

「今僕に評価を下そうとして言葉に詰まっただろ!」

「すんませんな、猫目石瓦礫くん」

「…………知っていたか」

 僕の身元はバレている、か。まあ、呼んだのが理事長だしな。

「あの宇津木はんにとって代わる名探偵いうから、どない男や思うて期待しとったんや。それが思いのほかあっさりした、なんや書き割りに描かれて背景に溶け込んでそうな男やったんで、ついな」

「悪かったな」

「ええよ。むしろそういうあっさりしとんのがうちは好みやし」

 ま、お世辞と受け取っておこう。

「待て」

 そのとき、人ごみの中から声が上がった。振り返ると、タキシード姿の少年が姿を現す。タキシードってことは……ホールでバイトしていた鳥羽高校の生徒か?

「ハッチー!」

 僕の後ろにいた㐂島さんが声を上げ、その彼に近づく。ハッチー……まさかあれが八葉永人はちばえいとか。

 なんか、思ったよりも普通の見た目をしているな。ギャンブルで鳥羽理事長に勝ったというから、もっとこう、見た目もイケイケな感じなのかと……。いかん、これでは僕も真剣師の彼女のことを責められない。

「ハッチー、大丈夫?」

「ええ、なんとか。理事長と勝負したときのプレッシャーに比べれば」

 なるほど。より強いプレッシャーに圧された経験を思い出して乗り切ったか。あの毒を回避できるあたり、実力も多少はうかがえるな。

「永人もいたのか」

 そしてもうひとり、後ろから出てきたやつがいる。

「お前は魂抜かれてればよかったのにな」

「うるさいぞ」

 もちろん、紫崎雪垣である。後ろにマスターと扇さんもついて来た。

「その勝負、俺たちも受ける」

 どうやら、そういう流れになりそうだった。

「ふうん」

 少女は扇子をぴしゃりと閉じる。そして赤い唇をにっと吊り上げて笑う。

 まるで獲物を見つけてた肉食獣のように。

「天下の高校生探偵はん。上等高校の相談役はん。そしてあの鳥羽理事長に勝った生徒はん。ええよ、面白くなってきたわ」

 僕だけでなく、二人の身元もバレている……? 理事長が流したのか……。あるいはこの中で勝負が成立しそうなのは、僕たちくらいだと見当をつけられていた?

 うーむ。いずれにせよ、相手の手のひらで踊っているような感じは拭えない。とはいえ、だ。天京の真剣師、その実力には少し興味がある。

「よーし、それじゃあゲームは…………どうします?」

 笹原が元気に拳を振り上げてから、尋ねる。決めてなかったのか。

「普通のギャンブルやと、慣れてるうちが有利すぎるなあ」

 閉じた扇子を手元で弄りながら、少女が言う。

「ふむ……。ところで、紫崎はんに八葉はんは、そこのかわいこちゃんたちとどないな関係なん?」

 そして、扇子で㐂島さんと扇さんを指し示す。

「恋人……いうところやろ」

「その質問に答える必要はないですね」

 永人は食い気味に答えた。あ、これ答えたくない質問だったんだな。

「ただの後輩だ」

 一方の雪垣も答える。さすがの真剣師もまさか本当の恋人は扇さんではなく年上のマスターの方だとは気づかなかったらしい。

「瓦礫くんは……なんや、女はべらす甲斐性もないんか?」

「悪かったな」

 よく考えたら僕だけパートナーいないんだな。だから何だって話だが。

「せやったら、面白いゲームあるよ?」

 にたあ、と。

 少女は悪戯っぽく笑う。

 …………嫌な予感しかしない。

「『篭絡にらめくら』、いうんはどう?」

「にらめくら……にらめっこですか?」

「そや。惚れたら負けよ、あっぷっぷってな」

 惚れたら負け…………?

「ルールは簡単。二人で向かい合ってな、睦言囁き合うん。そーしてな、先に惚れた方の負けや」

「惚れた、の基準や定義があいまいですね」

 さすがに鳥羽高校の生徒、ギャンブル慣れしている。細かいルールを永人が詰めていく。

「惚れたに基準も定義もあらへんよ」

 しかしその厳密さは、少女にはあまり受けない要素だったらしい。呆れたように彼女が言う。

「あんさんは女が自分に惚れたいうとき、いちいちその定義を尋ねるん? 本当に惚れたかどうか、その理由や基準を尋ねるん? それは無粋やろ」

「それは……」

 あ、これは経験あるな。惚れられて、なんで惚れたのか無粋にも聞き返した経験が。

 相手は㐂島さんか? いや……なんかさっきから㐂島さん、永人の隣でぼーっとルールを聞いているだけだし、違う気もするな。だとするとあれでけっこうモテるのかこの男。

「惚れたは惚れたや。いちいち他人が口挟むことやない。誰の目にも惚れた分かるようなったら負けや。恋愛は、惚れた方が負け言うしな?」

 つまり、自分で惚れたと認めるか、明らかに周囲から見て惚れたと思われる状態になったら負け、ということか。普通なら、こんなものゲームにもならない。負けたくないなら惚れたと認めなければいいだけの話だし、口ではどうとでも言える。それに周囲に対しても、ある程度演技力があれば誤魔化しなんて効いてしまう。

 ゲームとしてはあまりにも大雑把だ。

 相手が彼女でなければ。

「先輩」

「……ん?」

 いつの間にか横に来ていた笹原が聞いてくる。

「このゲーム、成立するんですか?」

「するだろうな。まあ、普通は成立しないんだけど、相手があの彼女だからな。たぶん、彼女の手にかかればたいていの男は『惚れた』と誰の目にも明白な状態になる。だから勝ち負けは曖昧なようでいて、かなり明確なんだよ」

 誰の目にも『惚れた』と分かり、己すらそれを認めざるをえない状態。そんな状態に、おそらく彼女は相手を追い込むことができる。だからこそのゲームだ。

「じゃあ、ゲームとしては成立するんですね」

「一応は」

 問題があるとすれば、こっちが負けることじゃない。その逆で、彼女が負ける場合の話が厄介だ。あの美の結晶のような女を惚れさせることなどできるのか? あるいは、惚れたと認めさせ、それが周囲に分かるような状態に追い込めるのか?

「…………ゲームというよりは、遊びだな」

 このゲーム、こっちが勝つには彼女をその気にさせるしかない。つまり、本気で惚れさせなくとも、彼女に冗談でも「惚れた」と言わせたくなるような状態に持っていくこと。それがこちらの勝利条件になる。

「いいだろう、それでやろう」

 その勝利条件を理解しているのか、それともただの馬鹿なのか、なぜかやる気の雪垣が前に出る。

「いや……ここは僕が先に」

 しかし、まず人身御供になる役割を引き受けたのは永人だった。

「大丈夫なのか?」

「さあ、それはやってみないと」

 知り合いだという話は本当だったらしく、気安く雪垣と永人は話す。あれ……これ三人の中で僕だけ蚊帳の外のやつじゃ……。

「それではっ! 提案にのっとって、ゲーム『篭絡にらめくら』を始めます!」

 笹原がステージに戻り、司会を続行する。

「まずは鳥羽高校代表、八葉永人先輩!」

 永人が、真剣師と向き合う。

「頑張れハッチー!」

 自分の大切な後輩が割と真剣に貞操の危機なのに気づいていないのか、㐂島さんが無邪気に応援した。

「いきますよー! 惚れたら負けよ、あっぷっぷ!」

 かくして、地獄のゲーム『篭絡にらめくら』、その第一試合、開始。

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