4 夜島麻布

 刹那。

 そこに帳がいるのかと思った。

 白磁のようになめらかな肌。瑞々しい黒髪。色づく唇。

 ノースリーブの白いワンピースからのぞく腕や足は細くしなやかで、それでいて病的な印象は薄く、植物の蔓のようなしなやかさと強情さを感じさせる。

 だが、帳じゃないとすぐに気づいた。

 まず、机の上に座るという行為がはしたない。帳はそんなことをしない。

 声が違う。彼女の声には、重苦しいけだるさと、相反するような高飛車な感じが混ざり合っていた。

 なにより、目だ。

 瞳。

 帳や錦のような、夜島一族に特徴的な、満点の星空を押し込めたような輝かしい瞳ではない。

 まるで、曇天の夜。

 暗い、どこまでも暗い瞳。

 ああ。

 この人は、夜島帳ではなく。

 夜島麻布まふなのだと、気づいた。

「…………………………」

 しかし、似ている。

 帳とそっくりだ。

 いや、そうじゃなくて。

 夜島麻布だと?

 なぜ、僕が彼女の夢を見る?

「混乱しきりという様子だなあ、猫目石瓦礫」

「……………………」

「猫目石瓦礫……猫目石瓦礫ねえ。はっ、名前をつけた親の顔が見てみたい。瓦礫って、実の息子につける名前じゃないだろう。お前実は嫌われてたんじゃないか?」

 否定された。

 まだ出会って一分も経っていないのに、いろいろ。

「僕の名前はどうでもいいでしょう」

 僕は出入り口の扉を背にして、彼女に向き合う。後ろ手に、ドアノブは触って弄り続けたまま。

 扉が開かない。

「自己紹介が必要か? 娘から――帳から聞いてるだろう? そしてお前はいかにも愚鈍そうな見た目で、実際それなりに愚鈍だが、しかし聡明でもあるよなあ? わたしが何者であるのかという点については、既に承知しているはずだ」

 机から下りて、彼女は……麻布さんはこちらに歩み寄った。

「しかし一応、自己紹介は大人の礼儀だ。お前相手に失する礼などないと言いたいところだが、それはさすがに大人げない態度ってやつだろう。だから自己紹介してやる。わたしが、夜島麻布だ」

「……でしょうね」

 さらに一歩、近づいてくる。

 くそっ、さっきから扉が開かん!

 というか、なんで僕は扉を開こうとしているんだ?

 逃げようとしているんだ!?

 やばいやばいやばい!

「…………………………」

 直観的に、この人から距離を取るべきだと、逃げるべきだと本能が告げている。

「正しい」

 まるで僕の脳内を読み取ったかのように、麻布さんが答える。

「お前、正しいよ。わたしという人間から逃げるのは実に正しい判断だ。わたしがその気になれば、お前の生殺与奪など小指で弄ぶことができる。の、だが………………」

 目を細めて、じっと彼女は僕を見る。

「どうもお前、変な目をしているな。さっきから、お前の視線が定まらない。こちらをくまなく観察しているように思えて、その実、お前、わたしを認識しないようにしているな?」

 その通り、なのである。

 あらかじめ悲哀から話を聞いてなかったらやばかった。

 瞳術封じ。

 僕が奈落村で心眼会の、瞳術使いの巫女たちと戦ったときに得た技術。相手の瞳術を封殺する技術を、今、フル投入している。

 瞳術封じは、目線の動きから相手の観察対象を割り出し、その個所を隠すことで瞳術の発動に必要な情報を相手に集めさせない技だ。

 悲哀が言っていた通り、麻布さんの洗脳能力は、瞳術に通じる技術体系だった。おそらく、僕をくまなく観察することで精神的にポイントを探り、そこへ身体接触を図るつもりだったのだろう。

 あるいは見るだけで、相手に「見ている」と気取らせるだけで何か影響を与えることすらできるのかもしれないが。

 さらに僕は、自分の視線を細かく動かすことで、彼女を認識しないようにしている。

 観察しないように。

 夜島麻布という女を、知悉しないように。

 まさか観察力の技術である瞳術を、見ないことに利用する日が来るとは…………!

 分かる。分かってしまう。

 すぐに分かった。

 夜島帳と似ている彼女は、似ているが、完全に上位互換だ。

 おそらく、彼女の容姿を見るだけで毒だ。

 帳以上の美しさを持ち、さらにそれを自覚して所作を行う女を見れば。

 それだけで、心を奪われる。

 文字通り、骨抜きだ。

 だから僕は距離を取りたがった。逃げ出そうとした。

 純粋に生命の危機である。心臓を素手で握られそうになっているのと大差ない。

 こんな感覚は初めてだ。タロット館事件はもとより、奈落村ですら感じたことのない、直接的な生命の危機。

 夢の中なのに!

 死がこんなにも近い。

「いや、もういい」

 ふと、麻布さんはそんなことを言った。

 途端に。

 圧力が、弱まる。

「娘の彼氏を誘惑しても面白くないしな。まだ童貞おこさまなら娘より先に頂いちまうのも一興だったんだが。ちょっとちょっかいかけて遊んだだけだ。別に取って食ったりしねーよ」

 全然信用できないが……しかし、威圧感が弱くなったのは事実だ。

 瞳術で麻布さんの洗脳をガードする必要がなくなったくらいには。

「ふふん。しかし面白い技を使う。わたしが呑気にくたばっている間に、凡人もちったあ成長したのかね? あるいは、お前は凡人じゃあないのかもしれないが」

「僕は凡人ですよ。あなたに比べれば」

「そりゃあそうだ。わたしは特別製だ。夜島の中でもとびきりな」

 まあ座れよと、来客用のソファを勧められる。立ち話もあれなので、大人しく僕は座った。

 正面に、麻布さんが腰掛ける。

 ようやく、落ち着いて話ができる状態になった。

「はあ…………」

「なんだよ、疲れたのか?」

「そりゃ疲れますよ」

 なんだろうこの感じ。奈落村で真名子を相手にしたときは呆れ果てて疲れたというふうだったが……。この人は単純に、神経を使うから疲れる。今だって、完全にガードを下げたわけじゃないんだからな。

「それで? どういう理由でお前はわたしに会いに来たんだ? お前、娘の母親に挨拶しようって殊勝な心掛けをするタイプでもないだろ」

「まあ、そうなんですが……。夢に出ると聞いてましたけど、本当に出てくるとは思いませんでしたからね」

「思えよ。わたしの住んでいた離れの、わたしの寝ていたベッドでお前寝てんだぞ? その辺の凡人ならともかく、わたしの気配が染みついた場所で寝てわたしの夢を見ないわけねーじゃん」

「もうそれでいいです」

「よくねーよ、ちったあ粘って考えろ高校生探偵」

 僕にどうしてほしいんだよ。

「お前の考えた推理は大筋で正しい」

 ごろりと、麻布さんはソファに寝転がった。

「他ならぬ夜島一族の特性を、お前は部外者にしてはよく知っているな。常人を超えた知性を持つ夜島一族の人間は、レム睡眠中の脳の活動も通常より活発だ。そんな連中が、わたしという人間を知っていて、その上でわたしの部屋で寝れば、自然とわたしを意識する。だから夢にも出てくるって寸法だ」

 その推理は、彼女と実際に出会って確かなものになった。そりゃあ、こんなキャラだからなあ。麻布さんを知っている人からすれば、彼女の部屋で寝れば強烈にこのキャラクターを思い出させられるわけで、夢に見ようというものだ。

「しかし」

 問題がある。

「じゃあなんでお前は、わたしの夢を見たんだろうなあ、瓦礫くん?」

「…………………………」

「答えは、なかったりしてなあ?」

 にやにやと、こっちを見る。

「答えがないと困るんですけどね。一応、僕の物語はジャンル的にはミステリなんですから」

「探偵の日常が探偵的とは限らねーじゃんか。探偵だって怪奇現象に遭遇したり、UFOを見たりする自由くらいはあるんじゃねーの?」

「……………………」

「あるいは、不幸体質の女と遊んでみたり、幸運体質の男に振り回されたりしてみるってのも、たまにはありだろ?」

 それは、そうだろうが。

「自分の目の前に提示された謎のすべてを、自分が解決できるってのは傲慢じゃねえの? わたしならともかく、わたし以外の凡人がそれを思うのは傲慢以外のなにものでもないだろ」

「すごい自信ですね」

「自信じゃない。確信だ。わたしは探偵じゃないが、どんな事件も解決できるぜ?」

「そうなんですか?」

「ああ。だってわたしが『お前犯人な』って言えばそいつが犯人になるからな」

「ひっでえ」

 洗脳能力の悪用、その極地だった。

「でも世の中の探偵なんてそんなもんだろ? 物語の中の探偵、かもしれないけどな」

「そうですか?」

「そうだろ。連中はその物語における解決役だ。そいつらの推理は物語の中での最終解決って扱いなんだよ。だから原理的に間違えない。そいつの答えが正しいって決まり切ってんだからな」

「でも普通に失敗する探偵もいますけどね」

「はっ。そんなの失敗のうちに入らねえよ。じゃあ聞くけど、お前の中にも語れる失敗談と語れない失敗談があるだろ? それと同じだよ。連中のミスは語れる失敗談だったってだけだ。要するに自己ブランディングの中で、『やっちゃった、てへぺろ』ってかわい子ぶれるから失敗談として採用されてんだ。ガチでやべえ失敗談は語れねえよ」

「……………………」

「お前だってそうだろ? 帳にほだされて錦ちゃんを探偵の立場から追い出してみたり、冗談で言ったつもりの村全焼作戦を頭パッパラパーに採用されちまったり、失敗談はそれなりにあるけど語れるもんは語ってるだろ。ガチのマジで語れない失敗談はポロリともこぼせねえ」

「それは………………」

「お前が帳の前にひとり、女を抱いていたこととかな?」

「…………」

「別に責めてはねえよ? ま、わたしは万年寝たきりだったからその辺りさっぱりだし、それは帳にしても同じだろうけどな。それに相手が例えば錦ちゃんとかだったらちょっと待てよとなるかもだが、そういうわけでもねえし。あれだろ? 構図としちゃ性に目覚めたばかりのお前を大人のお姉さんがたぶらかしたって話だろ? そりゃお前に非はねえよ」

 なるほど、これは夢だ。

 僕の封じている記憶の部分まで、がっつり麻布さんに知られてしまっている。

「いいんじゃねえの、お盛んなことで。そもそもお前、悲哀の息子だろ? そんなやつにまともな性倫理なんざ最初から期待してねえんだよ。今をもって帳一筋でいてくれるってんなら、お母さん的にはそれで満足よ。わたしだって人のことを言える生き方してないしな」

「……………………」

 勝手に僕の性事情を暴露した挙句、勝手に許してきた。

 なんだこの人!

 何様のつもりだ!

「麻布様だ。あがめろよ、凡人」

 やりづらい…………。

「しっかしここ、狭いよな」

 ふと、麻布さんはそんなことを言いながら体を起こした。

「どこなんだ?」

「え?」

 僕の記憶にない場所だから、てっきり麻布さんに関わる場所なのだと思っていたが……。この探偵事務所、彼女にも無関係なのか?

「扉にはNG探偵事務所って書いてありましたけど、麻布さんは知らないんですか?」

「NG探偵事務所? なにそれ、瓦礫くんの就職先?」

「なんでですか」

「いや、だってイニシャル」

 ああ。

 僕のイニシャルか。

「あー、うん? しかしどっかで聞いたなあ。探偵事務所……ああ」

 と、そこで思い出したらしい。

「がーくんの実家か」

「がーくん!?」

 誰だそれ!?

 牙城さんか? だとしたらこの人、そんな普通の恋人みたいに夫のことあだ名で呼んでんの?

 どういうキャラしてんだよ。つかみどころがないわ。

「思い出した思い出した。がーくん、昔は尾道にいたって聞いてたわ。知ってる? 広島にあるんだけど」

「広島……」

 また愛知県から遠いな。

「そこで昔、あいつの父親が探偵をしてたんだってさ。驚くなかれ、その親父の名前も牙城だったんだと。だからがーくんは牙城ジュニアってわけ。アメリカ人かよって散々笑ったなあ。そのときだけ、あいつすっげえ不機嫌な顔してさ」

 あの牙城さんを不機嫌にさせるって相当だぞ。

「あいつ、旧姓が鍋島なんだよ。だから鍋島牙城でNGってわけだ。ところがその親父は母親ががーくんを産んですぐ蒸発して事務所だけ残ったんだと。母親は母親で未練たらたらで、がーくんに父親と同じ名前を付けた。だからがーくんの名前で遊ぶのは文字通りNGってわけよ。面白がってからかったら三度目くらいで頭ぶっ叩かれた」

 ぶっ叩かれるまでからかうあんたもおかしいし、ぶっ叩く牙城さんもすげえよ。

 洗脳能力持ちの相手をぶっ叩くって、それ相当キレてるぞ。

「お前は気をつけろよー? 帳に子ども産ませて失踪とかしたらさすがにわたしも擁護できん」

「それはないですよ」

「さてねえ。人生ってのは分からん。別にがーくんパパも、捨てたくてあいつを捨てたわけじゃないとわたしは踏んでんだがね」

「………………」

「探偵なんて因果な商売してると、蒸発でもしないと家族を守れないときってのがあるんじゃねえの?」

 それは、あるかもしれない。

 刑事や検事、弁護士でも逆恨みされるケースは多いと聞くからな。探偵なんて法律の後ろ盾もない仕事をしていれば、余計にそうだろう。

「蒸発して、姿を消してでも守りたいって思ってもらえてるんだから、がーくんは幸福な部類だとわたしは思うんだよねえ。ほらわたし、失敗作だし」

「……………………」

「お前はどうよ、瓦礫くん。お前は、家族にそれだけ愛されたのか? いや、少なくともお前は家族を愛してなかっただろうな。墓参りにも行かないくらいだし」

「かも、しれませんね」

 単純に、物心つく前に死んでいました、では済まない。

 僕が両親の墓参りすら行かないのは、やはり、彼らを僕が愛していないからなのだろう。

「家族を愛すだけじゃ駄目なんだよなあ。家族に愛されないと。その点わたしは完璧だ。わたしはがーくんも帳も愛しているし、愛されている。だから帳も恋人をこうして紹介してきた」

「夢の中で会えるがここまでそのままの意味の人もおかしいんですけどね」

 完全に、夜島麻布という一個の人格を持った人間だもの。

 これ、僕の記憶から復元されたとかじゃないからな。

 マジでどうなってんの。

「ところでどうすんの、瓦礫くん。お前、帳と結婚とか考えてんの? まさか学生時代のお遊びだとか言わないよねえ? もし言うなら殺すよ?」

 この人だとマジで殺してきそうだな。夢の中で死んだら一生目覚めなさそう。

「大丈夫ですよ。その点に関しては。僕は帳と添い遂げるつもりでいますから」

「ならよし。ま、お前がその気でも、帳が持つかどうかってのはやや疑問だけどねえ」

「え?」

「だってほら、わたしの娘じゃん。わたしと違って回復してるっぽい雰囲気出してるけど、あいつ病弱だからな。またぞろ、いつコロリといくか分からん」

「それは……」

「まーだから、あんまり気負うなって。人間死ぬときは死ぬんだ。もし帳が死んでも、生涯の伴侶として再婚しないとかそういうのやめなよ?」

「いや、別にそれはいいのでは?」

「あれ重いんだよ。まさに今わたしががーくんにやられてんだけど、こっちはさっさといい人見つけて再婚してくれた方が気が楽だっての。ま、帳がわたしと同じ考えなのかは知らんけど。だからわたしが許してやる。お前、もし帳が途中で死んだら別の女と再婚しろ」

 無茶しか言わねえ。

「ほら、お前って別にハーレムものの主人公でもないくせにやたら周りに女いるじゃん。あの子どうなのよ、後輩の笹原ちゃん」

 どんどん話が下世話な方向に進むぞこの母親。なるほど、悲哀となんだかんだ知り合って、それなりに関係を持てるわけだ。

「笹原はただの後輩ですよ」

「だろうな、言ってみただけで、正直脈なしなのは分かってた。お前とあの子、どっちかというと悪友同士って感じだもんな。同じ雰囲気がするのは千草ちゃんもか」

 千里なんてもっとないだろ。あいつが結婚して家庭に入る姿とか想像できない。

「お前女とつるむとき、男とつるむより悪ガキって感じになるんだよな。錦ちゃんの影響だろうけど、そのせいで女が周りにいてもフラグが立たねえ。つまんないの」

「人の人間関係で遊ばないでくれますか?」

「もう愛珠ちゃんか哀歌ちゃんと付き合っちゃえよ。兄弟って言っても血はつながってないんだからさあ」

「どんな昼ドラだ」

 最終的に僕が刺されて死ぬタイプの昼ドラじゃん。

「ふーん。だとするとお前の後妻はこれから会う誰かなのかもねえ」

「そもそも勝手に後妻の存在を匂わせないでほしいところですが」

「いやいや、割と真剣な話」

 麻布さんは手を振る。

「お前さあ、探偵だろ? 人の死なんて見慣れるほどに見ているはずだ。人が無事に生きてられることなんて、奇跡的なことだって知っているはずだ。人間、いつどこでぽっくり死ぬか分からないなんて、お前が一番よく理解してんだろ。だったら帳も同じだって思わなかったのか?」

「………………」

「思わねえか。思わねえというより、思いたくねえんだ。夜島帳という、常人よりは病弱で、死の淵を歩いているような女を恋人にしながらも、探偵という役割を演じるお前がそのことを思いたくもない。帳が死ぬかもしれないなんてことは、寸毫たりとも想像したくねえのさ。はっ、意外とケツの穴が小さいな」

 それは、そうかもしれない。

 夜島帳という少女を知っていれば、考えていてしかるべきなのだ。

 彼女が死んだとき、僕がどうその身を振るのかということは。

 本来、考えすぎるほどに考えていなければおかしいはずなのだ。

「ま、母親たるわたしとしちゃ、瓦礫くんのその思考は、むしろ好ましく受け取っておいてやるがね。要するにそれだけ、帳を愛してくれているんだろう? それは素直に嬉しいんだ」

 この人でも、普通の母親みたいなことを言うのか。

 だが、それは意外ではあっても、そこに不釣り合いな感じはしない。この、人間の常軌を逸した新生物としか思えないような夜島麻布が、どこにでもいる母親みたいに娘を愛し、娘の身を案じる姿は、当たり前のように思えた。

 不思議なものだ。彼女が母親然と振舞うよりは、悲哀がそう振舞った方がギャップは少ないはずなのに。

「だが覚悟はしておけよ。身体の頑強さにおいては常人をはるかにしのぐ夜島の女が、臥せるほどの病を患っていたんだぜ、帳は。今は回復しているように見えるが、それこそ、だけってのは現実的な話だ。何かをきっかけに坂道を転がり落ちるみたいに体調が悪化することは十分あり得る」

「経験談ですか」

「体験談だ。わたしも無茶したよ。夫と娘に、子どもを産んだから死んだなんて十字架スティグマを背負わせるはめになっちまった。幸い、そこまであいつらは深刻に思いつめちゃいないがな」

 確かに。子どもを産ませたから、自分を産んだから死んだかもしれないという可能性は、夫や娘に重い罪を背負わせかねない。

 この人の性格だ。てっきり傷になると分かっていてやったのかと思っていたのだが、違うのか。

「少なくとも帳は、母親が自分を産んだから死んだなんて考えてはいないみたいですよ」

「そりゃきっと、お前のお陰だな」

「僕の?」

「自分が産まれたから、お前に会えた。愛すべき男にな。それは、母親を殺してでも得る価値のあることだろうぜ」

 どういうポジティブシンキングだ。さすがに帳は、そこまで思っていないだろう。

「…………………………ん?」

 ぐにゃりと。

 唐突に、視界が歪んだ。

「あー、リミットか」

 麻布さんがため息を吐く。

「夢だからな。いつかは醒める」

「……………………」

「お前にはまだいろいろ教授しないといけないことがあるんだけどな。とはいえ、教えすぎも無粋か。子どもの物語に親が出しゃばるのもよくないしな」

「……………………あの」

 最後になるだろう。

 また会えるとは、思えなかった。

 再び夜島本宅の離れ、麻布さんのかつて暮らした部屋で寝たとしても。

 僕はもう二度と、この人の夢を見ないんじゃないかと思った。

「最後に、ひとつ」

「なんだよ。特別大サービスだ。お母さんが何でも答えてやる」

 いろいろ、聞きたいことはたくさんあった。

 だが、僕が聞いたのはその中でも、さして重要なことではなかった。

 だいたい、ここまでの彼女の語り口で推測はつく話。

 それでも、しっかりと。

 言葉にして、聞きたかった。

「あなたは、帳を産んで幸せでしたか? 自分が死ぬかもしれないと思っていても、それでも娘を産んで…………結局、やっぱり死んで帳と牙城さんを置き去りにしてしまっても」

「ああ」

 麻布さんの目に、光が宿った。

 満点の星空を押し込めたような。

 帳と同じ瞳。

「幸せだったぜ」

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