3 母子
さて、その日の夜。
僕は問題の部屋にいた。
かつて、帳の母、夜島
部屋というか、離れなのだが。
「……………………下手したら、僕の家より大きいよな」
夜島本宅の離れは、そりゃあもう大きく広いものだった。さすがに自前で霊園すら抱える大金持ちの家だから、離れひとつとってもとてつもなく大きい。一般的な住宅と同等か、それよりも広いくらいだ。余裕で一世帯住める。
玄関から廊下を通って、ゆったりとしたリビングダイニング。清潔感のある洗面所とバスルーム。二階に上がれば寝室、地下に降りれば書庫という有様だ。
時間は深夜。後はもう寝るだけという時間になって、僕は寝室にいた。
天蓋つきの、豪奢なベッドが置かれた部屋だ。
寝室もそうだが、この離れは麻布さんが亡くなってから使われることはなくなったと言うが、その割に掃除が行き届いていて、埃っぽいところがひとつもない。まさか今回の、帳の発言を見越して準備していたわけではないだろうから、普段から掃除をしているのだろう。
これだけの広さの空間を、「使わない」という判断ができるのもおかしいし、こまめに掃除ができるのもおかしい。単純にブランド物を持っているとか、高くて上質なものを食べているとか、そういうのよりも、こういう極端に
まあ、帳との付き合いは昔からだから、今更ではあるんだが。帳を含めた夜島家の人間が、金銭感覚を一般庶民と大きく異にしているのなんて、前々から知っている話だ。
さて、そんな金銭感覚の話はどうでもいいとして。
問題は、あれだ。
夢を見るという話だ。
「夢、ねえ……」
帳の話では、まさにここだ。
かつて夜島麻布が使っていた夜島本宅の離れ、その寝室。
そこで一夜を過ごすと、彼女の夢を見るという話だった。
夢。
ずいぶんぼんやりした話だ。
オカルトじみているとも言える。
少なくとも、探偵の領分ではない。
だがそれでも、ある程度推理は働く。
「……………………」
そもそも、夢はなぜ見るのか。
人間の睡眠にはレム睡眠とノンレム睡眠がある。ざっくりいえば眠りが浅いか深いか、という話だ。そのうち、浅い方……すなわちレム睡眠のときに、人間は記憶の定着や整理が行われていると言われている。裏返せば、このとき、睡眠をとっているとは言い
ゆえに、その記憶の整理や定着の最中に、人は夢を見る。
だいたいの夢が、その人の覚えている記憶や知識、あるいは想像力の範疇を出ないのも、あくまで夢は脳が見せるものだからだ。
あるいは、レム睡眠時は外界からの刺激に対してもある程度反応するという。例えば、目覚ましの音に刺激を受けて崩壊するイメージの夢を見るとか、そういう話。
それで、なぜ夜島麻布の夢を見るのか。
これは単純明快。なにせ問題の現場は、かつて彼女が生きていて、生活していた空間だ。いやがおうにも、夜島麻布という人間についてその人が知っている知識や記憶を呼び起こす場所だ。そんなところで眠ろうとすれば、無意識に彼女のことを思い出す。
思い出した記憶は、整理される。レム睡眠の最中に。
そうすれば、それが刺激となって彼女の夢を見る。
それだけのこと。
特に夜島一族は品種改良の一族であり、帳や錦の例を出すまでもなくその知性の高さも特徴的な人間たちだ。レム睡眠時の脳の活動は常人よりも活発だろう。ならば、常人よりもそういう理路で、夜島麻布の夢を見る可能性は上がる。
それに、あとは占いが当たるのと同じ理屈。この部屋で眠れば夜島麻布の夢を見るという定説が一度決定づけられれば、夢を見た場合だけが取り沙汰される。実はその裏に、夢を見なかったパターンが相応の数存在しているにも関わらず、である。
夜島一族ゆえに夢を見る可能性こそ常人より高いものの、そういう、いかにもオカルトじみた言説には、それなりの説明がつくのだ。
だから正直なところ、ここで僕が寝ても、夢など見るはずもないのだ。
僕は夜島一族ではないからレム睡眠時の脳の活動は常人なみだろうし。
そもそも夜島麻布のことをほとんど知らない。
とはいえ、だ。
「…………………………」
少し気がかりなことはある。
それを、確認してもいいだろう。
僕はスマホを取り出すと、電話をかけた。
相手は、悲哀だ。
「もしもし」
『もしもし? あんた、どうしたの? もう帰った?』
電話の向こう側にいる悲哀は、ややろれつが回っていないような感じだった。夕方から今までしこたま酒を飲めば、そらそうなる。
この調子だと牙城さんの方は潰れているかもしれないな。
「いや、今日はいろいろあって本宅の方に泊まることになった」
『ふうん』
と、こいつは興味なさげである。子どもの外泊なんだからもう少し注意を払えよ。
「それで本宅の方で、少し気になった話を聞いてな。昔、帳の母親が住んでいた離れのことなんだが」
『ほんほん』
「その離れで寝ると、帳の母親の夢を見るって話だ。悲哀は聞いたことないか?」
『いんや? 初耳だなあそれは』
牙城さんから何も聞いていないのか。
『そんなことがねえ。あんたはそれ、どう思ってるの?』
「どうもな……。いろいろ推測はできるが、大事なのは僕がその夢を見るかどうかってことで、それで僕はたぶん見ないだろうからな」
『そうねえ。あんた、まっちゃんのこと知らないもんねえ』
「まっちゃん!?」
誰だそれ。
麻布さんのことか?
「その口ぶりだと、お前は帳の母親のついて知っているみたいだな」
『一応ね。牙城くんとも昔からの仲だから、あの子についても知っているわけよ』
つまり、こいつは二人を結婚前から知っているということだよな。逆に、牙城さんも悲哀のことをそれくらい昔から知っているわけだ。
『いやあしかし、最初に牙城くんがあの子と結婚するって聞いたときは驚いたなあ』
「そんなにか?」
『驚くっていうか、ええ? って感じ。そもそも牙城くん、結婚願望とかなかったし』
「そっちか」
『そっちでしょ。じゃなきゃわたしとつるんでられないって』
悲哀は若い時分、他人の家庭を崩壊させるためだけに男と関係を持ってはその関係を暴露し消えるということを散々やっていた女だ。文字通りの悪女、大淫婦というわけだが、そんな彼女と付き合えるのは、女性関係に興味のないタイプくらいだろう。牙城さんはそういう人だったようだ。
『要するに、結婚願望もないし女性にも興味ないような男をコロッと堕とせるくらいの女だったってこと』
「なるほどな」
『そう考えると、あんたと帳ちゃんの関係に近いのかもね』
「僕は別に、女性にまったく興味がないってほどでもないと思うけど」
『ふうん? 錦ちゃんには大して何も思わなかったのに、帳ちゃんにはぞっこんだったんだから、その言い分は通用しないんじゃない?』
そういう考え方も、できなくはないが。
僕は周囲の人間が言い募るほど、帳だけにしか興味がないタイプではないと思うのだ。
『わたしも男を堕とす手練手管にはそれなりの自信があったけど、あの子は格が違う。次元が違う。ほとんど洗脳に近いからね』
「洗脳……」
『どんな男にも自分の言うことを聞かせられる能力を持っていた。あれは魅了とか色仕掛けなんて生易しいものじゃない。洗脳よ洗脳。本人も分かっていてやってたから
「そこまでか」
『ええ。あんたが使う瞳術に近いのよ。それの全身版。目で射殺して、声で堕として、
「……………………」
帳も十分やっている気がするが……。それを超えるレベルということか。
『だから、牙城くんが結婚するって聞いたときは、普通に騙されてるって思ったね。牙城くん、独身時代から輸入雑貨商やってて金持ちだったし』
「いや、金なら金満家の夜島家はうなるほど持ってるだろ」
『言っても、あの子が自由に使えるお金はそう多くなかったからね』
「………………?」
『知らない? あの子、夜島家では失敗作扱いだったし。だから離れなんかで暮らしてたのよ』
「失敗作?」
いや、今までの話を聞くとその逆の印象を受けるのだが。
『病弱だったからね、あの子。夜島一族的には、いくら能力が高くても、それに応じたデメリットを持っていると評価が低いみたい』
ああ、そういう考え方もできるのか。夜島一族の評価軸としては、能力の高さとそれに反するデメリットのふたつの観点があって、特に後者の方がマイナス要素が大きいと。能力の最大値よりも、それを安定して発揮できる体質の方が一族としては優秀、という評価の仕方をしているようだ。
まあ、いくら能力が高くてもそれが原因で臥せっているようじゃ、使い物にはならないからな。一族としての発展を考えるなら、デメリットが多いのは歓迎できないか。
『それに一族、なのよ。品種改良の一族。それはつまり、遺伝子を後の世代に引き継ぐことが前提になっているってわけ。そうなると、いくら個人として優秀でも、病弱で子どもを残せないんじゃ意味ないでしょ』
「ああ」
なるほど、いかにも名家的な考え方だな。個人としての能力の高さも、それを次代に引き継げないのでは意味がないという考え方なのか。だから病弱だった麻布さんは、その能力の高さの割には失敗作扱いを受けていたと。
『ま、最終的には帳ちゃんを産んでるんだけどね。とはいえ、当時は子どもを残せないと思われていたのは確からしい』
「でも、だったら同じく病弱だった帳もそれ相応の扱いを受けそうなものだけどな」
『それは時代が違うんでしょ。いい加減、夜島家も品種改良だのなんだの、する意味も薄くなってきてるし』
「意味、ね……」
『名家だから、結果的にそれなりの相手を引き寄せて、品種改良まがいのことが続いちゃっている側面はあるんだけど。でも、品種改良したところで、正直な話、家を存続させるのには役に立たないし。品種改良のせいで夜島家の血は滅茶苦茶なんだから』
夜島家は、その品種改良の代償なのか、女性ばかりが生まれる。僕が帳の従姉妹たちを従兄弟ではなく従姉妹と表現していたのもそのためだ。十人子どもが生まれれば男は精々一人か二人くらいという偏りで、夜島家は女ばかりが生まれる。名家としては、婿養子を取らなければ家を存続できないという意味でかなり不利な要素である。
まあ、もうそんなご時世でもないんだが。悲哀の言う通り、いろいろ、時代錯誤なのだ。これから先は、どんどん夜島の血も薄くなっていくんだろう。麻布さん――帳の親世代がピークだったと言えそうだ。
『しかし……。結局杞憂だったのかなとも思うわけよ。あの子が何考えているのか分からないけど、牙城くんは幸せそうだったし、あの子もあの子でまんざらでもないって感じではあったから』
「人並みの幸せが欲しかったってやつか?」
『結婚が女の幸せってのもいい加減古臭いけどね』
それでも、あの人は帳を産んだのだ。
ここまでの話を聞く感じ、自分が子どもを産めば命にかかわることくらい、理解できていそうな人だが。
それでも。
「ああ、それで話を戻すんだが、問題の部屋で寝るとその人の夢を見るって話、知らないんだったよな」
『うん。でも、あの子のことだから何か仕掛けていてもおかしくないんじゃない?』
「仕掛ける……」
自分の夢を、見やすくするような何かを、か?
『ま、見たら見たってことで。よろしく言っといて』
「無理だろ」
僕は絶対見ないぞ。
電話を切って、スマホを置く。
「…………寝るか」
帳は本宅の方で泊まると言っていた。別に一緒に寝てもよかったが、どうやら聞くところによると、麻布さんの夢を見るのはたいてい、ひとりで寝たときのようだったし……。一応、その辺は条件を揃えておくことにした。
明かりを消し、天蓋つきの馬鹿みたいに大きなベッドに寝転がる。枕が変わると眠れなくなるというほど繊細なタイプではないから、今日一日いろいろあった疲れもあって、僕はすぐに眠りについた。
「………………え?」
そして、見たのだ。
夢を。
「ここは……?」
まず、目に入ってきたのはどこかの事務所のような場所だった。そこの、来客用と思しきソファに、僕は腰掛けていた。
そして、自覚があった。
これは夢だという。
明晰夢か。
立ち上がり、あたりを見回す。事務所は小奇麗だがそう広くない。おそらく所長のような人間が座るのだろう、それなりに立派な事務机と椅子のセットが置かれているほかは……。部屋の側面に置かれた棚に茶器のセットが並んでいたり、ラジオを聞くためと思しきコンポが置いてあったりするくらいのものだ。
「……外か」
外に出てみることにした。外の看板か何かに、この事務所の正体が書いてあるだろうと思ったのだ。
しかし、その思惑は外れ。
出入り口には鍵がかかっていた。
これが明晰夢ならば、すなわち自分の夢であるという自覚があるのなら、好き勝手なことができるとはよく言うが……。鍵は一向に開かない。
だが、目的は達成できた。
出入り口の扉にはまったすりガラスに、白い文字が書かれていたのだ。
『NG探偵事務所』。
「えぬ、じー……」
探偵事務所?
文字は外から読まれるのを前提にしているため、部屋の中から見ると左右が反転していたが、しかし、読み間違えるということはない。
ここは探偵事務所だ。
「おい」
そして、声がする。
「わたしを無視するとは、お前もずいぶん大物だな」
振り返る。
さっきは確かに誰もいなかったはずの、事務机の上に。
女性がひとり、はしたなく腰掛けている。
咄嗟に、直感的に、理解した。
彼女が、夜島麻布だと。
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