2 悼む日
その日の朝は、少し憂鬱だった。
基本的に朝型人間というか、あまり夜更かしはしないがその代わり朝起きるのは早い方の僕にしては珍しく、予定よりやや遅れて寝坊気味の起床であった。
「……………………」
まあ、そりゃあ、ねえ。
今日は嫌な日だからな。
僕は今を持って十八歳の高校生で、社会的にはもう大人の部類だ。しかもタロット館事件以降、名探偵だ高校生探偵だと持ち上げられている始末。それなりの、ひとかどの人物として扱われてはいるわけだが、とはいえ、ねえ。
起きるのが嫌な日もある。
それが、今日ともなればなおさらで……。
とはいえ、まさか子どもみたいにぐずるわけにもいかず。
起きるしかない。
今日に限って、誰も起こしてはくれないのだから。
目覚まし時計が鳴る。
「はいはい。起きますよ」
愚痴って、目覚ましを止める。ベッドから体を起こし、ぐっと伸びをした。
風に吹かれてカーテンが揺れ、涼しい空気が入ってくる。昨夜から今朝にかけては、真夏の時期にしては珍しく過ごしやすい気温だった。
部屋を出て、階段を下りる。下ではテレビの音がかすかに流れていて、人の気配を感じた。
「よう弟。起きた?」
「ああ」
一階のリビングでは、愛珠がテレビでニュースを見ながらパンにジャムを塗って食べていた。いつもの――になっているのもおかしい話だが、上等高校のポロシャツとスラックス姿で、瑞々しい長髪は高いところでポニーテールにしている。
「お前も早いな」
「これでもアスリートだからね。一通りメニューこなして、シャワー浴びた後ってところ」
さすがに現役プロボクサー。毎日のトレーニングは欠かさないか。引退しようか悩んでいるという話はしていたが、それでも練習はやめないあたりこいつもストイックだ。
「早く準備しなよ」
「へいへい」
まるで母親みたいなことを言う愛珠に適当な返事をして、僕は顔を洗いに洗面所へ向かう。
今、この家には僕と愛珠しかいない。
彼女の母親であり、僕の保護者である木野悲哀は自身が代表を務めるNPO法人の仕事とやらで出張中だ。一方、僕と愛珠の妹である哀歌は自身の所属する朱雀女学院の何やらイベントごとで数日、家を空けている。
顔を洗い、服を着替える。愛珠のものと同じ、上等高校の夏服だ。同じというか……愛珠が僕のものを着ているだけなのだが。
テレビではこの時期恒例の、広島と長崎での慰霊祭のニュースが取り上げられていた。お盆、八月の中旬。この時期はいつもこの話題だ。沖縄もそうかもしれないな。
人の死は、どれだけ悼んでもすぎるということはないからな。
「ニュースはどんな感じだ?」
「例年通りじゃない? 広島、長崎、沖縄……。戦没慰霊ってやつ?」
愛珠の言葉はどこか他人事らしかった。まあ、僕にしても愛珠にしても、年齢的に第二次大戦がピンとくる世代でもないからな。誰かしら、戦争経験者の話でも聞いていればもう少し抱く印象も違うのかもしれないけど、生憎僕たちにそんな機会はなかった。
僕には両親もいないから、その流れの必然として祖父母もいない。そうだな……。帳の祖母なら年齢的にも何かしら、戦争体験のひとつでもあるのかもしれないが……。僕はあの人とあまり関わったことがない。正月にはよく夜島一族の集いに顔を出させてもらっているが、そこで絡むのも同年代の帳や彼女の従姉妹たちだけで、親世代、さらにその上となるとな……。
「あー…………」
「どったの?」
「いや、そういえば今年は帳に、墓参りに誘われているんだったなと」
「墓参り? 誰の?」
「帳の母親だよ」
帳の父親は現在持って健在だが、母親は彼女を産んですぐに亡くなっている。帳の(元)病弱はその母親からの遺伝だと聞いていて、母親の死もいわば予定調和であり、特に驚くに値しないものだと聞いている。
「ふーん」
と、あまり興味の無さそうな愛珠である。こいつの場合、自分で母親を殺しているからな。殺して当然の母親だったとも聞いているが、ともかく、自分の親の墓参りという殊勝な行為がイマイチしっくり来ていないのだろう。
「でも帳ちゃんの母親かあ。なんかすごそう」
などと、こいつは適当をぶっこいた。
「すごそう?」
「だって帳ちゃんの母親でしょ?」
まあ、そりゃあな。あの人を人とも思わない性格。すべての人間は自分のために動いて当然という感性と、事実動かしてしまうカリスマ性。複数の言語を容易に操り、高校の試験くらいなら余裕で満点を取れる知性。何より、神が美という概念の具体例として作り上げたとしか思えない容姿。満点の星々を固めて形にしたかのような瞳。
「牙城さん……帳ちゃんの父親には会ったけど、なんというか普通に優しそうって感じだったし、帳ちゃんの大半は母親の血筋だと思うんだよねえ」
それはつまるところ、夜島家の血筋とイコールでもある、のだろうか。帳の従姉妹衆から聞く感じ、あいつの母親は夜島家でも異端だったような素振りすらある。
なにせ、あの一族は……。
「品種改良の血族、か……」
「え、なに?」
「…………」
僕はダイニングチェアに腰かけ、食パンを取り出した。トーストにするのも面倒で、そのまま齧った。
「例えば競馬の世界だと、優秀なオスとメスを掛け合わせてさらに優秀な子どもを産ませようってのが普通に行われているよな」
「そうなの? わたし、競馬は詳しくないよ?」
「………………そういうことが行われてるんだ。動物の世界じゃな。犬や猫なんかも、ペットとして扱いやすい品種を改良し産み出すことは往々にして行われている。そこで疑問なんだけど、実際そうした品種改良には意味があるのか?」
「…………? 意味があるから行ってるんじゃないの?」
「いや、まあ、そうなんだが。例えば犬の場合、抜け毛が少ない方が飼うのが楽だろう。だから可愛らしいが抜け毛が多い品種に抜け毛の少ない品種を交配して、見目が良く抜け毛の少ない品種を産む、みたいなことが行われる。でもそれは、抜け毛が少ないっていう分かりやすく目に見える特性がある場合の話だ」
「ふむふむ」
「ことが競技の世界になると話が違ってくる。競馬の場合、何をもってその馬が競走馬として優秀かと判断するのに、その材料は多岐にわたる。瞬発力の高さ、持久力の高さ、足腰の強さ……まあこの辺りは分かりやすいけど、場合によっては長所だと思われた特性が短所になる場合もある」
「と、いうと?」
「例えば血の気の多さ、とかな。目に見えて分かりづらく測定もできない感覚的な特徴。さらに、血の気が多いとなれば競争の世界では一見有利だけど、その特性を持つのは馬だ。賢いと言っても所詮畜生の類。血の気の多さが災いして、フライングしたり他の馬に突っかかったり、ペース配分が乱れたり。そうなると長所だと思われていた個所が短所になる」
遺伝はゲームじゃない。人間には分かりやすい特徴なんてものはない。長所と短所がずらっと羅列してあって、こいつとあいつを掛け合わせるとどの特徴が遺伝しますよ、なんて分かりやすい表示もない。何が長所で何が短所か、何が良い性質で何が悪い性質か。それらの性質を引き継ぐのか引き継がないのか。そんなのは全部、とどのつまり運だ。
「お前はプロボクサーとして、というか格闘家として全般的に優秀だよな。なにせ十八でタイトルを制覇できるくらいなんだから。そんなお前が例えば他の優秀なプロボクサーと交配して子どもを作ったら、そいつはさらに優秀なプロボクサーになると思うか?」
「子どもぉ?」
愛珠が肩をすくめる。
「わたしが母親になるって全然イメージできないなあ。だってわたしのお母さん、あの人だよ?」
「それはそうなんだが」
なにせこいつの母親は木野悲哀だ。若かりし頃は他人の家庭を破滅させるためだけにその家の夫を誘惑し、浮名を流させた悪女にして毒婦。まあ、僕からすればその程度で誘惑に乗る方に非があると思うのだが、ともかくそういうことをしてきた女だ。さらに自分の娘二人を一度は捨てている。少なくとも家庭人としては問題しかない女だ。現在ではそれなりにまともな状態になっているが、だとしても、だ。
「あくまで仮定の話だよ」
「家庭の、仮定ねえ」
グラスに入ったオレンジジュースを啜りながら、愛珠は呟く。
「帳ちゃんと深い仲になったから、そういうことを考えるようになったのかなあ? わたしの弟は」
「……………………」
「でもその仮定に応えるなら、当然それは
「そうなのか?」
比較的単細胞で単純な考え方をするこいつなら、逆の答えになると思っていたが。
「わたしが超々凄い格闘家なのは間違いない。そして仮にわたしの相手をわたしと同レベル以上だとしても、じゃあその子どもがプロボクサー、あるいは格闘家として大成できるとは限らないよね。だって、遺伝は必ず発現するわけじゃないんでしょ? わたしはその辺、詳しくないけど」
「…………そうだな」
それは事実だ。あまりにも愚直で、安直で、そして率直な。
考えればすぐに分かること。例えば悲哀は大淫婦ではあるが、その娘である愛珠にその片鱗は欠片もない。まあ、しいて言うならどんな人間の輪の中にも入り込める社交能力の高さはあるが、それは人をたぶらかす能力とは違う。
遺伝は発現するとは限らない。そして発現するとして、それが親の持つ能力の形そのままとも限らない。こんなのは、遺伝に詳しくなくてもちょっと想像力を働かせれば分かることだ。
だが、世の中には。
いくらでも例外がある。
あるいは……。
そうした遺伝に関するすべてを飲み込んでなお進んでしまう、大きな力が。
それが、夜島一族。
「……………………まあ、どうでもいいか」
僕には、関係のない話だろう。帳との関係がこの先どうなろうとも。
ただ、少し気にはなるな。
今日という日だから、か。
「続いては午後の特集のお知らせです」
テレビでは、画面が切り替わって全国区のニュースから、地方のニュースの放送になっていた。
「三重県何楽地区、通称奈落村で起きた新興宗教心眼会の集団自殺事件から今年で五年。被害者遺族たちの現在を取材しました。特集は午後三時のニュースで…………」
「五年、か……」
コーヒーカップを置く。
「五年って、長いと思うか?」
「前の五輪が開かれて、次の五輪が開けるくらいのタイミングだから長いんじゃない?」
愛珠はそんなふうに、アスリートらしい例えで答えた。
「でも事件に時間の長さは関係ないよ。忘れるやつはするっと忘れるし、忘れないやつは何十年経っても忘れない」
「だろうな」
僕だって、そうだ。
確かに、不可思議な事件だった。僕の人生の中で奇妙な事件をランク付けしろと言われれば、間違いなく一位を飾るのは奈落村事件だ。
しかし、だからといって、それは。
奈落村事件が僕の中に、強烈なくさびを残していることを意味しない。
僕にとってあの事件は既に終わった事件で、珍しく奇妙ではあったが、もうそれだけの事件だ。
だから、今更。
毎年のように行われている慰霊行事に、今年に限って参加する義理も、ないのだが。
憂鬱な気分になって、今朝の目覚めを悪くしてまでも、参加する意味などないはずなのだが。
どういうわけか、今年は参加することになったのだ。
「……………………」
玄関のチャイムが鳴る。腰を浮かせた愛珠を制して、僕が玄関に向かう。
「おはようございます」
玄関を開けると、そこには一人の少年が立っていた。
青龍学園の制服である紺色のスラックスと白いカッターシャツ姿の、年のころ中学生といった感じの少年。
あのとき。
あのとき出会ったころは、クシャクシャでごわごわだった髪は綺麗に梳かされ、太陽の光に輝く亜麻色の清潔感のある様子になっていた。肌が白いのはそのままだが、以前のやや不健康そうな感じから、あくまで色白という程度に収まっている。痩せぎすだった身体にも肉がつきつつ、しなやかさが出ている。
「おはよう、久しぶり、数多くん」
「ええ、お久しぶりです。瓦礫お兄さん」
一応、事件以来まったく会っていない、というわけでもなかったが、それでも久しぶりの再会だった。
奈落村事件の生還者にして、協力者で共闘者だった少年。朝山数多くんとの再会である。
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