3 五人目との再会
大切な家族がいたとして、その家族を守るためにお前は命をかけるか?
ここで普通の人間なら、命をかけると選択するのだろうか。僕には血のつながった家族はいないし、哀歌を妹と捉えていてもその母親である悲哀を母とは捉えていないように家族観が滅茶苦茶なので、よく分からない。
「かけます、もちろん」
ちなみに哀歌の答えはそのようなものだった。命をかけたからこそ、彼女は二年前、幼いながらも一人で母を探しに旅だったのだし、そこで黒鵜白刃に出会ったのだ。
ゆえに彼女の解答は、ある種の必然だろう。
「大正解!」
「わーい!」
「おいこら」
弟子が師匠に甘ければ、師匠も弟子に甘かった。
わーいじゃない。
というわけで僕はこの問題を解決しなければならなくなった。哀歌からまさかのバトンタッチである。哀歌が師匠に甘々な以上どうしようもない。
「しっかし、別に放置でええんちゃう?」
シンキングタイム、もとい師弟水入らずの時間を邪魔するのもあれなので病室を辞した僕と紫さんは、廊下を歩いていた。
「さしもの旦那も哀歌ちゃんを困らせるのは本意やないし、本人も言ってたようにじき引っ込めるやろ。猫目石くんが頭悩ます問題やないで。雑な連絡してもうたウチが言うのもあれやけど」
本当にあれだ。
「そうは言っても、面倒な大人に振り回されるのも僕の本意ではないんですよ。じき引っ込めるのを待つ義理もないですから。さっさと答えを言い当てて言いふらして、それで終わりにするのが一番確実なのには変わりありませんから」
「せやなあ」
「ところで僕たち、どこに向かっているんですか?」
行く当てがなくて適当に紫さんについてきてしまったが。
「ああ。ちょいと心当たりがあって」
病棟の雰囲気がいつの間にか変わっていた。元々、患者らしい人間を見ていないなと思っていたのに、今僕たちのいる場所はさらに森閑としていた。人の気配が薄い。
「さすがに問題解決するのに主治医のウチが傍観するわけにもいかんし。旦那の無理無体をどうにかできそうな人間に頼ってみよう思うてな。猫目石くんかて是が非にも自分で解決したいいうわけやないやろ?」
「それはそうですけど…………。そう都合よく病院にそんな人材がいますか?」
どこかの相談役様じゃないんだから。
「ふふん、ひょっとしたら君は知らないんやないかと思うてたけど、やっぱりやんな」
紫さんは僕の方を見てにたりと笑う。後ろ見ながら歩いていると危ないぞ。
「ジブンはこの病院がどういうとこか知っとる?」
「名前すら知らないですね」
それほど来るので手一杯だったのだ。あのジジイ、一発殴ってやろうか。
「ここは虹橋学院付属天才学研究所中部支部いうんや。ま、長ったらしいんでみんなセントラルアーチいう通称で呼んどるけど」
「虹橋…………天才学?」
「せや。やっぱそこ引っかかるよな」
「少なくとも、病院ではないということですか?」
「病院も併設しとるけどな。いかがわしい建物建てるんなら、近隣住民にサービス提供しておいた方が何かと円滑やし。どのみち病院まがいのこともしてるからことのついでやし」
「ふうむ………………」
病院は病院でも、本質は研究所ということか。性質上保有している質の高い医療設備を近隣住民に提供することで、周囲からの反発を緩和しているだけで。
「天才学いうんは、簡単に言ったら『天才作ったろ』って学問や。ウチは研究者やのうて雇われの医者やから詳しくは知らんけども、虹橋学院は教育ですべての人間を天才にする言うてたな。せやから正確には『天才に育てたろ』って感じか」
「それは…………」
優生学まっしぐらじゃないか。かなり際どいぞ。
「せやからいかがわしいんやな。で、ここは天才を観察するための研究所やな」
「天才を、観察?」
「天才いうんはどうにも社会生活に困難があってな。そういう連中に居場所を提供する代わりに、その天才性を間近で見させてもらおういうのがコンセプトや」
「つまり、一種のスポンサー契約ですか。社会生活が困難な天才に場所を提供し生活のバックアップを行う代わり、その業績をすぐ近くで観察する。まあ、両者が合意の上ならば問題もないでしょうが……」
それでもギリギリだろうな、それは。下手したら隔離病棟一直線の場所だぞ、ここ。
「中には病気抱えた連中もおるから、その面倒見るのがウチらの仕事。黒鵜の旦那もここを老人ホーム代わりの終の棲家として使い倒すくらいの気持ちやろな。実態はともかく、体裁は旦那たち天才に『いてもらう』『研究に協力してもらう』立場やし。セントラルアーチは場所を提供するだけやのうて、協力の対価として金銭も支払っとる側やから」
ああ、病院じゃないから入院費用掛からないどころかお金貰えるまであるのか。どうして黒鵜さんがわざわざ関東からここに来たのか疑問に思っていたが、それなら来るよな。基本一人暮らしみたいだしあの人。黒鵜さんのような隠居生活者や世捨て人ならメリットの方が大きいか。
「じゃあ黒鵜さんの口車にここの人間が乗っかったのも、あの人の天才性の観察が理由のひとつですか」
だったらますます僕が出張る意味はない気もするが……。黒鵜さんにここの人間が振り回されるのはそういうものだからいいとして、やはり無関係の哀歌を振り回すのはダメだ。結局、何とかことを収めるしかないのか。
「で、今僕たちが向かっているのもそうした天才の一人のところ、ということですね」
「せや。その子は病人やないから、旦那がいた病棟から離れたところにおってな。この手の問題を解決して調停するのが得意でな。割に個人主義なここの連中の中では珍しいくらい社交的やから、いろいろ重宝されとるみたいで」
それなら旦那も社交的な方なんやけどなと紫さんは呟いた。
「『天才らしい』いう言葉も、天才とは何かを観察するここで軽々に口にするべきやないんやけど……。でもやっぱり天才らしいいうんかな。周囲を振り回して問題起こす輩が少なくなくて、そいつらを宥めんのはいっつもその子か旦那なんや。だから旦那が周りを振り回し始めるとほんま抑え効かんで」
それが哀歌を呼びだす過剰な反応につながったという側面もあるのだろう。
「ま、名高い名探偵様の猫目石くんとその子がおれば解決せんことはないやろ。ウチも哀歌ちゃんたちを振り回すのは本意やないし、ちゃっちゃと終わらせるのが一番ってこと、でっ!!」
あっ。
紫さんはずっとこっちを見ながらの後ろ歩きだったので、いつかやるだろうなとは思っていたが、曲がり角から飛び出してきた人間にぶつかってしまった。子どもか。
「あかんあかん。悪いな」
「いえ、こちらこそ……」
と、ぶつかられた方は大人な対応をして…………あれ?
「町井先生?」
紫さんにぶつかられたのは、町井涼香先生だった。上等高校に出向しているカウンセラーである。そういえば今日は保健室にいなかったが、ここに来ていたのか。
「猫目石くん? どうしてここに?」
町井先生もこちらを見て疑問を呈する。
「えっと、ちょっとした用で。先生は」
「私は仕事です」
「仕事?」
確か、彼女の職場はここではないはずだ。わざわざここまで来てカウンセリング?
「なんや自分ら、知り合いか?」
「ええ、はい」
紫さんの質問に町井先生が答える。
「そうだ、あなたはここの人間ですか。少し道に迷ってしまっていて。三〇五号室を探しているのですが」
「三〇五号室。ちょうどウチらもそこに用があってん。ああ、じゃあ外部からヒトミのカウンセリングに来るいうてた先生はジブンか」
ヒトミ…………。あまりいい名前ではないなと勝手に思った。僕の個人的な経験に依拠する、本当に身勝手な感想だ。
「案内しちゃる。この辺り複雑やし」
「助かります。……そうだ、猫目石くんがいたのは好都合かもしれませんね」
「好都合?」
町井先生は心療内科(臨床心理?)の専門家である。そして専門家として当然のことだが、外部からの素人の介入を嫌う。特に心理学、精神の範疇はど素人が知ったかぶりの経験則で踏み込んできやすい領域である。
かくいう上等高校においても、そういう事例はある。彼女が上等高校に出向しているのはタロット館事件と並行して高校で起きたある事件のアフターケアのためだが、大人とはやはり適当なもので、教師の無茶無体に彼女は彼女で困らされている。
まあ、一番の無茶は哀歌の姉である愛珠を学校に招いたことで、その事態の当事者たる僕はあまり他人の振りもできないのだが。友達を殺害された人たちの輪に愛珠という、過去に人を殺した人間を投入するという無茶無体。心理の専門家でなくともストップをかけそうなことを平然とするのは、上等高校が体面を気にする私立学校だからという逆説だろう。
必要以上に体面を気にし、過剰に対応を迫られた結果最悪の手段に訴える。奈落村でも似たようなことはあった。
ともかく、そういう他人に専門領域を侵害されやすいのが町井先生の受け持ちである。その彼女がど素人の僕をもって好都合というのに引っかかった。
「ええ、実はそもそも、今回の私の仕事はカウンセリングとは多少異なります」
病室へ向かう道すがら、町井先生は事情を話してくれる。
「ヒトミさん、でしたか。私が聞いた話では、彼女は記憶喪失なのだとか。医者の話では頭部に強い衝撃を受けたためのものであり、不可逆の記憶喪失ではないそうですが……。しかし五年以上戻らないということで」
「五年以上……」
それ、ほとんど不可逆と同意義では。
「この施設にある医療機器はどれも最新式ですし、医者も腕の立つ者が多いでしょう。しかし原因が分からない。そこでアプローチを変えて、彼女に刺激を与えることで記憶の回復を促せないかと考えているようです。しかし彼女を他人と交流させる前に、彼女の精神状態の簡単なチェックが必要でしょう? 病院内では特に問題があるようには見えていませんが、逆にそれが不安の種だと」
「不安? そんなものですか?」
「いうてジブン」
懲りずに後ろ歩きの紫さんが口を挟む。
「五年近く記憶喪失の人間が、まるでそれを気にする様子もないいうんは妙やな。妙というか不気味いうか。ひょんなことで精神のバランスを崩しても困るし。たぶん大丈夫やろうけど、より強い外界の刺激に晒す前に確認くらいはした方がいいやろ」
どうだろう。僕はさすがに記憶喪失の経験はないからな。しかし人間多様だから、記憶喪失でもまるで気にしないということはあるだろう。
「ヒトミは記憶喪失で本名から何までさっぱり分からん。警察には一応届けたけども音沙汰なしやし。いつどこで地雷踏むか分からんもんで、石橋は叩いて渡らにゃ。セントラルアーチとしてもヒトミの天才性は稀有やから失うのも惜しいんや」
「天才性…………」
そういえば、そのヒトミという人はどういう能力が優れているのだろうか。ただの記憶喪失なら普通の病院で事足りる。セントラルアーチが居住スペースと金銭とを供与してまで彼女(女性らしいな、口ぶりからして)を確保するだけの理由とは?
「未来が見える」
「…………………………え?」
町井先生が、呟く。
「相手の嘘が見抜ける。他人が何をしていたか見える」
「それは…………」
「そう、瞳術です。ですから、瞳術を知るあなたがいた方が好都合かもしれないと思ったのです」
瞳術…………。
「瞳術?」
オウム返しに紫さんが聞き返す。
「瞳術いうんは初耳やな。そらヒトミは未来が見えるとかいう天才性が認められてここにおるし、暫定的にヒトミなんて名前つけたのもその能力由来やけど。それを瞳術なんて表現されたのは初めてやで」
紫さんは瞳術を知らないのか。まあ、あくまで研究者ではない雇われ医者の彼女はヒトミという人の天才性について、正確無比に表現する必要も理解する必要もないからな。
さすがにセントラルアーチが把握していないとは思えないが。
「瞳術というのは、奈落村を本拠地としていた心眼会の連中が求めていた神通力です。心眼会の巫女である三人の女性は瞳術が使えました」
「心眼会いうたら、さっき旦那がぽろっと喋っとったあれか」
「はい。三人の巫女はそれぞれ『未来視』使いのミライ様、『真偽眼』使いのイマ様、『千里眼』使いのカコ様と呼ばれていました。奈落村事件によりミライ様とカコ様は死亡。イマ様は生きているはずですが、今どこでどうしているかは知りません」
イマ様は最年少だったし、奈落村事件の際は別の場所にいた。警察に保護されたはずなので、現在はひょっとしたら過去と決別してどこかで普通に暮らしているのかもしれない。
心眼会の三眼、三人の巫女。教団のカリスマと言えば聞こえはいいが、最年長のカコ様でさえ当時二十代前半である。彼女たちの裏に拝金主義的な詐欺師たちが蠢いており、まあ要するにありがちなスケープゴートとして利用されていたのが彼女たちだ。
「イマ様がいうんが今も生きとるのは気がかりやな。セントラルアーチが目を付けてもおかしないんやけど。あ、ひょっとしてヒトミがイマ様いうんは……無いか。年齢合わんし」
ふむ…………。ヒトミという名前は彼女の瞳術由来の天才性から、記憶喪失で本名を忘れている彼女への暫定的な名付けなのだろうとして……。そのヒトミがイコールイマ様という可能性はないのか。
そもそも、イマ様が使えたのは相手の嘘偽りを見抜く真偽眼だけだから、町井先生の言う未来が見通せるという話と噛み合わない。
「そのヒトミさんとやらは、三種の瞳術が使えるんですか?」
「正確なところは分からないけど、そのはず」
思案気に町井先生は頷く。
「ところで猫目石くんは、どれだけ瞳術が使えるのかしら? 確か以前、未来視は使えると言っていたけど」
まさに愛珠が高校へ来ててんやわんやだった日のことだな。愛珠と僕を事件関係者の生徒たちがリンチ…………じゃなくてゲームで親睦を深めようとした時に使ったんだった。
いや未来を見ないといけない親睦会のゲームって何だよ。よく考えたら何がどうなっていたんだあれ。
「一応三種類使えますよ。最近は『表裏判眼』なんて応用も効くようになりましたけど。しかし…………」
「何か気がかりが……」
「ええ、まあ」
僕は足を止めた。
「僕が知っている瞳術使いは僕自身を除けば心眼会の巫女三人だけです。そしてその三人の使う瞳術の最大の特徴は、それが無意識下の技術というところにあったんですよね」
「無意識下?」
「はい。いや、専門家に素人判断で無意識って言葉を使うのも変ですね。要するに彼女たちは生まれつき瞳術を使えたそうです。裏返せば自分がどうして、どうやってその技術を使っているか分からない。彼女たちにとって瞳術は、人間が二足歩行できるのと同じくらい当たり前の技術なんですよ。だからこそ心眼会から神通力と称されたわけですし」
僕が瞳術を使用できるのは、それが観察力と推理力の高度な応用技であると知っているからだ。知っているというか、認識しているというか。僕は生まれつき瞳術など使えない。ただ、彼女たちの瞳術を自分の技術の範囲内で再現しただけだ。そういう意味では、僕は彼女たちの瞳術についてなんら知らないのと同じだ。
「心眼会は瞳術の開眼を目指していた。それは一見、瞳術を技術の一形態としてみなしているように思えますけど、実際は違う。心眼会の人間にとって、瞳術とは生まれつき使えるもの、あるいは霊感によって感得するものです」
「つまり?」
「ヒトミさんの記憶喪失の申告に嘘があるか、その人が超レアケースである可能性を僕は考慮しています」
瞳術を技術と捉えている場合、ことは前者である。僕がそうであるように、彼女もまた瞳術を体得した。しかし、それこそ奈落村のような場所でもない限りそもそも瞳術という発想にも至らないだろう。観察力と推理力がずば抜けているなら普通に分析能力として高めればいいわけで、リアルタイムで情報を処理し結論を下す瞳術は努力の方向性が間違っている。現に探偵と呼ばれるようになった僕でさえ、奈落村以来瞳術は数えるほどしか使っていない。基本的に無用の長物だ。ヒトミという女性が天才ならなおのこと、努力の方向音痴なのにはすぐ気づくはずだ。
そして彼女は五年近く、記憶が戻っていないと言っていたな。五年前と言えばちょうど奈落村事件のあった頃だ。奈落村事件を境に心眼会は縮小・消滅している。つまり彼女がモデルケースとして瞳術を観察する機会がない。記憶喪失の申告に嘘があると僕が危惧するのはそれだ。
ひょっとしたら彼女は心眼会に関わった過去を有していて、それを秘匿しているのではないか。
仮に瞳術を生まれつき使えるとするなら、話はもっと単純になる。生まれつきなら記憶喪失の影響は受けにくい。なにせ体が覚えている技術だ。まさか彼女が日常生活が困難になるほどの記憶喪失になっているとは考えづらいから(なってたら今僕たちは彼女の助力を頼ろうとはしていない)、彼女が失った記憶はエピソード記憶の類が大半なのだろう。ならば記憶を失う以前と同様に瞳術が使えても不思議はない。
ただ、すると相当レアケースだな。ただでさえ生まれついての瞳術使いは珍しいのに、複数の瞳術を使えるのは…………。
そんな人間、僕はミライ様しか知らない。
あのすっとぼけて年上っぽく振舞いたがる、殺しても死なないような態度の癖に割とあっさり死んだあの人しか。
「死なない死なない」とか笑っていた十秒後に死んだあの人しか。
「なるほど」
町井先生が相槌を打つ。
「セントラルアーチは警察からの隠れ蓑としては有用でしょうね」
「いやジブンら悪く考えすぎちゃう? ヒトミそんなやつちゃうって。そも、警察から逃げるなら捜索願を出されかねない記憶喪失は偽んとちゃう?」
「行方不明者と新興宗教の犯罪を扱う部署は違うでしょうから、そのすれ違いを狙えば……」
「悪辣すぎやろ。なに、猫目石くん心眼会に恨みあるん?」
いやないけど。
なるほど心眼会は僕を中学の剣道部ごと拉致した連中ではあったが、僕は心眼会自体にさほど恨みがあるわけではない。まあ、剣道部は僕を含め三人を残して全滅したから恨んでも筋違いにはならないだろうけど、どっこい向こうも僕たちを拉致した結果村が焼却炉と化して一人の村人を除いて全滅しているのでおあいこである。
そう、奈落村事件の生存者は関係者百余名のうち、四名に過ぎない。
おあいこどころか、向こうはこちらに危害を(拉致の時点で危害という点は置くとして)加える気はなかったのに村を焼かれているので恨まれてもおかしくないくらいである。僕が焼いたわけじゃないけど。
村を焼いたのは相談役様だけど。
むしろ僕が恨みたいのは剣道部の方だ。なにせ僕が死んだら村から解放しようとそそのかされて「ぜひ死んでくれ」とみんなに説得されたからな。馬鹿じゃねえの。
「ともかく、会えばわかるやろ。いくで」
僕たちは止めた足を再び進めた。しかし……思わぬところで心眼会が頭を出すものだな。まあ、瞳術がすぐさま心眼会に繋がるわけでなし、僕の考え過ぎだと思うが。
ミライ様は一族揃って心眼会の信者だった(その割にミライ様自身はあまり信仰する様子がなかった)がカコ様とイマ様は身寄りないのを付け込まれていたはずだ。つまり瞳術は一子相伝の技術でもないし、血脈とともに受け継がれる技でもない。ふとした拍子に使える人間が生まれ落ちることもあり得るだろう。それに僕が心眼会の巫女たちをヒントに瞳術を体得したからといって、他人が瞳術を同じルートでしか体得できないわけじゃない。
考え過ぎなのだ、だから。
考え過ぎてしまう程度には、心眼会の彼女たちは僕に影を落としているということかもしれない。
「ほら、ここや」
かくして僕たちは、三〇五号室に到着する。
まあいいさ。
実際のところ、心眼会の巫女たち以外の瞳術使いに会うのは初めてだ。興味を抱かないと言えば嘘になる。ちょうど、鳥羽高校のOGであり不幸体質と呼ばれていた
「ヒトミ、入るで」
紫さんはノックもなしに扉を開いた。
病室は、ちょうど黒鵜さんの部屋と同じようなものだった。ベッド、テーブル、ソファ、テレビ、冷蔵庫。気になったのは、それらの調度品が見えなくなるほどに部屋を本と資料、紙束の類が埋め尽くしていたことだ。
紙の資料は冷蔵庫にマグネットで所狭しと貼られているだけではない。今は束ねられているベッドを区切るカーテンにも、どうやら貼られているらしいのがちらりと見ただけで分かった。本は机やソファだけでなく床にも無造作に散らばっており、ところどころ床面が見えるだけである。おそらくそれを足場にして部屋の主は移動しているのだろうということは、点と点を結んだ動線が部屋の出入り口、窓、ソファ、ベッド、冷蔵庫をそれぞれ最短距離でつないでいたから分かる。
「あー、つい三日前に片づけたのに、よう散らかせるわほんま」
呆れたように紫さんが呟く。その目はベッドの方に向けられており………………。
ベッドに一人、寝転がっている。
「猫目石くん?」
町井先生が僕に声をかける。それは静止の意味だったのだろう。つまり僕は紫さんよりも町井先生よりも先に、部屋に踏み込んでいたのだ。
靴を脱いで、置かれている本や資料の山から足場になりそうなところを目掛けて歩を踏み出す。床面が僅かに見えている地点は、実は足場にならない。あそこを伝っていこうとすると、いずれ前にも後ろにも足を出せずに窮することになる。
それを僕は知っている。
なんなら、この部屋のどの本が足場になりそうかということも、僕には手に取るようにはっきりとわかった。だからするりと、ベッドの横に移動できる。
ベッドには、一人の女性が寝転がっている。スゥスゥと寝息を立てている彼女が問題のヒトミだろう。二十代前半くらいに見える。白いマキシワンピースを着て、裾から伸びる細い脚は酷使の跡がまるでなく、彼女が外をほとんど出歩いていないらしいのが分かった。
手を伸ばす。肩に触れようとした。
今ここにいる彼女が、現実のものだと確かめたかった。
「ん、ふわあぁ…………」
僕の左手が彼女へ届くより早く、彼女は目を覚ます。呑気にひとつ欠伸をしてから、彼女は上半身を起こす。肩を撫でるくらいの長さの髪を揺らす。
鈴の音が聞こえた。いや、聞こえるはずはない。
彼女が気に入っていたあの鈴がついたチョーカーは、失われているはずだ。現に今の彼女は、何のアクセサリーも身に着けてはいない。
ならばこの音は、過去からか。
「まるで幽霊でも見たような顔をしているね、君は」
「……………………
名前を呼ぶ。彼女が忘れてしまったというその名前を。
ミライ様と呼ばれた巫女の、本当の名前を。
「目童……ああ」
真名子はいつもどおり、すべてを知っていると言わんばかりの顔で僕を見た。
いつもどおり?
ああ、いつもどおりだ。
たった数日の出来事でも、ぼくにとって奈落村での日々は日常の一部だったのだと、改めて思い知らされる。
予感は、だから外れたのだ。
失われた日常の一部が、戻って来た。
「わたしはいろいろ忘れてしまったが、しかし君のことは知っているぞ。瓦礫くん」
ふふんと。
彼女はいたずらっぽく微笑んだ。
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