出題編 変説ウミガメのスープ
ある船が遭難し、食料も尽きたままの状態で幾日も大海原をさまよっていた。まあ、帆船が主流で船の動力が海流と海風頼りの時代ではありえる話だ。僅かな貯蔵の飲み水と、雨水を貯めたものだけで飢えをしのぐが、ひとり、またひとりと衰弱していき、ついに餓死者が出た。
「ああ、なんだそんな話ですか」
と、話を遮って実行委員会の詰め所に現れたのは笹原色である。僕が部長を務める弁論部の唯一の部員であり、コアなファン層を獲得する深夜ラジオ『DJササハラの血みどろニュースチャンネル』のメインパーソナリティを務める現役女子高生DJササハラその人である。
…………なんか的確な紹介をしたはずなのに、最後の一行辺りで胡散臭さの株価が大暴騰しているなこいつは。
「ウミガメのスープ! それはですね…………」
「おい笹原、ここに美味そうな紙の切れ端があるぞ」
「え、いやお昼まだですしわたし雑食系ですけどヤギ系の自覚はむごうぅ!」
さるぐつわ代わりにその辺の紙の切れ端をねじって口に突っ込んでおいた。最近考案中の自己紹介パターン「あなたのお耳の――」とか言いながら部屋に入ってきたら問答無用だったが、静かに入って来たから許してやったというのに。
「デリカシーのない人間は嫌われるぞ」
「それが後輩の口に紙を突っ込んだ先輩の言い分ですか!?」
「あと早とちりする人間も嫌われるぞ。彼女たちが話しているのはウミガメのスープとはいえ、新説らしいからな」
「新説、ああ」
そこで合点がいったのか、笹原は黙って僕の傍に控えた。僕はまだ合点がいってないというのに。
「説明を続けても」
「ああ。うちの後輩が遮って悪いね、六角さん」
「瑪瑙ちゃん」
「いやそのくだりはもういいから」
「ちっ」
「舌打ち!?」
六角瑪瑙。何を考えているかよく分からない系女子であり、その実何も考えていないようであり、何もかもを考えているようであり…………。要するにどこか、帳とは違った意味で超然的なところのある実行委員の一人である。そして僕に「瑪瑙ちゃん」を強要する謎の強固な意志がある。彼女が今回のことの発端というのも、まあ納得のいく話だ。
「では続きを」
「先輩に堂々と舌打ちした揚げ句に何事もなく説明続行するのか…………」
さて、続きは?
遭難してしばらくして、衰弱した一人の男が仲間から一杯のスープを差し出される。これはどうしたのかと男が尋ねると、仲間は運よくウミガメを捕まえることに成功したと説明した。貴重な食糧だが、一番衰弱している男に与えるべきだと仲間たちは決めたのだ。そのスープの美味しかったこと! 空腹時は何でも美味いとは言うが、空腹を超えた飢餓状態に、それでも自分に貴重な食糧を分けてくれた仲間たちの思いも重なれば、肉の旨味もひとしおだっただろう。
その後、遭難していた船は風を捉えることに成功し、何とか港に帰着する。こうして命を救われた男だったが、どうしても忘れられないのがその時に食べたウミガメのスープ。健康状態を回復した彼は一軒の店に入り、ウミガメのスープを注文し、それを食した。
そして男はショックを受け、自殺した。
それは何故?
「という類の問題を大量に収めたアプリが今流行っていまして、暇つぶしに皆さんに出題しようと思ったんです。ところがその一番大事な例題ともいえるこの問題でみなさん詰まってしまいまして」
「それは酷い」
タブレットを借りて、そのアプリを検分する。なるほど、問題のタイトルがずらりと並んでいて、試しにひとつをタッチすると問題が提示される。さらにタッチしてページをめくれば、解答が示されるわけだ。
「『新説ウミガメのスープ』というのは」
今度は節度を守って、笹原が口を挟む。
「そのアプリに収められた問題の、タイトルのひとつですね。同時にアプリ名でもあります。もう、この手のクイズの名称にすらなった感がありますね。本来はグループの一人が出題者を務めあらかじめ解答を把握しておき、回答者の質問にイエスかノーか、あるいは無関係かを答えてヒントとするというルールです」
「それがさっきからまったくお手上げで!」
愛珠が言葉の通り両手を上げた。
「瓦礫は分かる?」
「分かるというか知ってる」
「知ってる?」
「有名な話だからな」
ちらりと笹原の方を見る。まあ、彼女も口ぶりから察するに分かったというより知っている方だろう。
「先輩にデリカシーのない人間は嫌われると言われたばかりですからね、ここは後輩笹原、答えは知っていますが例題として六角先輩に質問をして、先輩よりデリカシーのあるところを見せつけましょう」
「精々がんばれ」
「今のところデリカシー最底辺が自分って自覚はないのあんたは…………」
渡利さんの目線が冷たいのはいつものことだから気にならない。夏場は(主に背筋が)涼しくなっていいなあ。
「では六角先輩に質問です。スープの味は関係ありますか?」
「イエス。関係ある」
「それは美味しいか不味いか、という話ですか?」
「ノー。味は関係あるけれど、美味しいか不味いかは関係ない」
あ、これ単にイエスかノーかだけじゃなく、場合によっては補足的に説明を入れてもいいのか。その辺は出題者の、回答者の行き詰まり具合に対する匙加減だろう。愛珠たちは全滅したらしいが。
ううん? こういうこと、前にどこかでやったような気がするな。
「ふうむ。答えを知っていると質問も大変ですね。では…………味の違いは、食べた環境のせいですか?」
「ノー」
「では作った人の違いですか?」
「ノー」
「では食材の違いですか」
「イエス。そしてもう答えに半分近づいた」
「そりゃまあ、知ってますからね。では、えーっと」
「仲間は彼に嘘を吐いていましたか、という質問はどうかしら?」
と、ここで。
どういうわけか実行委員会にとっては三人目の闖入者である。
入って来たのは夜島帳。説明不要な僕の恋人である。
僕、愛珠、笹原、渡利さん、そして六角さんを除く実行委員の面々はわずかにどよめいて、少し距離を取った。美しいものがいる時は、傷つけないよう少し距離を取るのがマナーだ。
「その口ぶりだと、夜島先輩も知っていますね」
「ええ。この業界では基本事項だから」
どの業界なんだ。
「イエス。仲間は嘘を吐いていました」
「それは――」
質問者は笹原から帳にバトンタッチする。
「スープの食材について?」
「イエス。そして答えの八割です」
「ええっ? ちょっと、全然分からないんだけど」
渡利さんは腕を組んでううんと考えた。まあ、この業界がどの業界かは知らないが、少なくとも渡利さんは遠ざかるべきと医者に言われているはずの業界だ。発想も、そっちの方へいかないよう治療されているはずだし。彼女にこの問題は分が悪い。
ヒントはもう出し終わったとばかりに質問を終えて、帳は僕の隣に並んだ。必然、僕は笹原と挟まれる格好になる。オセロなら僕も女子になっていないとな。
そういう世界線とか、あるのかな。
「それにしてもこの部屋、暑いわね。クーラーの設定ミス?」
帳は着ていたブラウスの首元を緩める。この真夏に日焼けの様子がまるでない、白磁のような喉元が露わになる。そこを一筋の汗が駆けていくのを、彼女は手の甲で拭った。
「…………なんで帳がここに?」
「ええ、ちょっと用件があって。あなたの妹さんに。お姉さんと呼んだ方がいいのかしら?」
「愛珠に?」
「お、じゃあ頼んでたもの、できたの?」
僕の目の前に愛珠が並ぶ。背後が壁だからいいものの、囲碁なら盤面から追い出され――いや囲碁でも追い出されてるわこれ。
「はい、これ」
帳はブラウスの胸ポケットから一本のUSBメモリを取り出して愛珠に渡す。
「短文とはいえポルトガル語は久しぶりに読んだから手間取った。でもその分正確だから」
「ありがとう! あの我儘兄貴のお願い聞いてもらって。埋め合わせは今度させるから」
「別に気にしなくてもいいわ。いい暇つぶしだったし」
愛珠の実の兄は探偵をしている。といっても、僕がタロット館事件以降そう呼称される空想上の探偵ではなく、身元調査などを請け負う探偵――興信所の職員である。そんな彼の仕事がらみだろう。
「何してたんだ?」
「ポルトガル語の短文の翻訳依頼。彼女のお兄さんが困ってたみたいで、ちょっと人助けを」
「人助け、ねえ」
僕も変われば帳も変わるものだな。以前なら断るか、引き受けた上で滅茶苦茶な訳を押し付けたりしそうなものだが。
「疑ってる?」
「まあ、人助けってタイプじゃないからな。僕も帳も」
「将来の義兄と義妹に恩を売っておくのも悪くないんじゃない?」
「ああ、そういう発想なら分かる」
「いや先輩方、後輩たちの前で何を話してるんですか」
僕たちの睦言にいちゃもんをつけてきたのは笹原である。
「まるで結婚式の日取りまで決めたカップルみたいな会話して! 先輩たちまだ十八歳ですからね!」
「法的に結婚できる年齢だな」
「そうでしたねっ! じゃあいいです!」
いいのか。
「わたし的にも構わないけどさ」
正面の愛珠が言う。
「瓦礫がわたしの弟なんだから、帳ちゃんも義妹ってことにならない?」
「そこ拘るのか」
僕と愛珠は同学年である。しかし誕生日は彼女が3月31日と、年度的にはどうあがいてもドンケツな上、常に一歳年下である。ゆえに僕は彼女のことを妹と呼ぶが、彼女は「兄なんてひとりで十分」と言って僕を弟と呼ぶ。
「だってわたし、姉にいい思い出ないし。そりゃ帳ちゃんとわたしとじゃ、どっちが姉っぽいかってのははっきりしてるけど」
まあ、殺したからな、実の姉。
さすがに僕が帳と結婚したら、弟呼びを受け容れてやるか。
「そういえば今日はお母さんが食事当番だけど大丈夫?」
お母さんとは悲哀のことである。帳の実母は既に故人だ。だから彼女が「お母さん」と呼ぶのは悲哀で、「お父さん」と呼ぶのが実父の夜島牙城さんにあたる。牙城さんは輸入雑貨業を営んでいるが、最近は少し忙しいのかあちこちに飛んでいる。
しかしお母さん、ねえ。僕はいいとして、哀歌はたぶん、帳が悲哀のことをそう呼ぶのが一番嫌なんだろうな。自分が「お母さん」と呼べないのに、他人は簡単にそう呼ぶんだから。
僕からすれば、二度も捨てられれば母と呼べなくても当然だと思うのだが。
「お父さんは出張でいないから、こっちでは面倒が見れないけど」
「大丈夫。さっき連絡を取り合ったところだ」
「そう。なら安心ね」
「…………新しい家族の団欒は結構ですが」
六角さんが割って入る。
「そこでゾンビのように頭を抱えている人たちをひとつ、助けてみてはどうでしょうか?」
「忘れてた」
見ると、せっかく答えに八割近づいたというのに、実行委員の面々は頭を抱えてうんうん唸っている。その様子は彼女が揶揄するようにゾンビみたいだし、洗脳に抗っている(そして結局洗脳される)一般人みたいでもあった。
「しかしみなさん、本当に知らないんですかね」
その様子を眺めながら、笹原が呟く。
「うちの業界じゃ常識的なお話なのに」
「だからその業界が不明瞭なんだよ」
「もう答え言ってしまいますか?」
「待って!」
と、思いのほか大きな声で笹原の企みは制された。遮ったのは意外にも渡利さんである。
「もう少しで分かりそうなんだけど」
それはむしろ彼女のメンタル的によろしくない。
「時間切れ、だな。六角さん?」
「はい。さすがにこれ以上は待てません」
悪役を演じるのはこの中じゃ、僕の仕事だろう。笹原じゃ調子に乗っているようにしか見えないし、愛珠は既に半分演じているようなものだし、帳にそんな役はさせない。
僕の意図を察したらしい六角さんのゴーサインも出たので、一気に答えを言ってしまおう。
「ヒントから順に追っていこう。スープは二種類ある。自殺した問題の男が漂流中に仲間たちから渡されたウミガメのスープ。そして彼が健康状態を取り戻した後に店で飲んだウミガメのスープ。重要なのは味の違い。しかしそれは美味いか不味いかではなく、また食べた環境、および料理人の腕から来る差ではない。食材の差からくる違いだった。そして、仲間たちはその男に嘘を吐いていた。スープの食材について」
「…………食材が違った。遭難中に男が食べたのはウミガメのスープじゃない?」
渡利さんが呟く。おっとまずい。先を急ごう。
「ならば何を食べたのか。ウミガメじゃない。では他の魚介類、あるいは鳥類か? 遭難中に運よく取れるものといったらそれくらいだが、それでは違う。男に自殺させるほどのショックを与える食材。それは運よく取らなくたって、遭難中の船内ならそこら中に転がってる」
「人肉、だね」
愛珠が答える。
「人肉………………」
さあっと、渡利さんの顔が青ざめる。まあ、青ざめた程度で済んでよかった。
良かったと言えば調理法も良かった。これがウミガメの丸焼きとかだったら、彼女は明瞭に思い出していただろう。
文字通り焼却炉と化した、かつての奈落村の惨劇を。逃げ惑う最中に確かに嗅いだ、人の焼ける美味そうな匂いを。
「それは、分かるわけないわ」
「では次の問題に行きましょうか」
六角さんが看破入れず、タブレットを操作しながら元の長机に戻る。それにつられ、愛珠や他の実行委員も戻っていく。ひとり、渡利さんがふらりとそれにつられて行ったのがさっきとの違いである。
「…………六角先輩、空気読んだんですかね」
笹原が言う。
「渡利さんが奈落村のこと思い出さないように」
「そうだな。お前よりは気の利く後輩なんだろうさ」
「それはないです」
「なんで自信満々なんだよ」
「少なくとも」
帳が口を挟む。その手には、いつの間にかタロットカードが握られていた。
「気が利くと思っている、気を利かせようと動いていると思い込んでいるどこかの相談役様よりは気が利いているんじゃない?」
手に持ったタロットは大アルカナ四番目のカード『
疑問が表情に出たのだろう。帳は僕を見てほほ笑んだ。
「これは彼女のアルカナかしら? それとも彼女たちのアルカナかしら?」
「変な謎かけだな」
『月』は知らないが、『女帝』なら大雑把に意味を捉えている。なにせ僕が巻き込まれた事件の舞台はタロット館。それぞれの大アルカナを部屋名にあてていて、帳にあてられた部屋は『
一般的に『女教皇』は知性と理性、学問を意味する。ウェイト版では白と黒、二本の柱が描かれた女教皇の左右に配され、その背後にザクロの布が女性性を意味するとされている。二本の柱は調律やバランスを意味する、だったかな。いかんせん、諸説ある解釈だからな。
一方の『女帝』は母性の象徴である。それは同時に繁栄と豊穣の象徴であり、家庭の形成を意味する場合もある。『女性性』という意味では同類だが、そこには理性と包容力という違いがある。
帳に『女帝』のアルカナが示すような母性や包容力がないのは、まあ当然だろう。ないから求める。他人の母親を臆面もなく「お母さん」と呼ぶ。逆にその「お母さん」である悲哀にはもう少しあっていい要素だ。じゃあ渡利さんに『女帝』が合うのかは知らないけど。
あるいは『月』と組み合わせることに意味があるのか。
彼女から、彼女たちになることに。
その『彼女たち』の内実も、あまり判然としないのだけど。
「あなたのアルカナは確か『
いつの間にか、帳の手にするカードが変わる。大アルカナ七番目のカード『戦車』。白と黒、二匹のスフィンクスに引っ張られる男の顔には、どことなく覇気がない。
闘争と勝利、そして成功を意味するアルカナ。僕には不釣り合いだと言ったら、タロット館で出会ったあの死んだ名探偵は、案外ぴったりだと言った。結局彼の言う通りで、僕は探偵との闘争の末に勝利を経て、成功に至っているわけだ。
また、二匹のスフィンクスに引っ張られている様から、自己葛藤を暗示するとも言われている。あの時の僕は、覇気のない乗り手の顔と、その暗示を聞いて「じゃあぴったりか」と納得したのだった。
二匹のスフィンクス。一匹は帳として、もうひとりは…………。
「へえ、ラッキーセブンじゃないですか」
全然違うところに食いついたのは笹原である。いや、数字もタロットでは重要だという話だったか。
「ええ。七という数字は大きな意味を持つとされているわ。そういえば、七と言えばこれもあったわね」
次にぱっと取り出されたのは『
水辺で女性が甕を持つ。その天空に大きな星が輝き、さらに周囲を七つの小さな星が囲む。
「吉兆を意味するアルカナ。DJササハラ的にはぴったりじゃない?」
「おお! いい感じじゃないですか!」
「瓦礫くんの後輩としても、ね」
「そりゃあもう!」
本当、その自信はどこから来るんだか。
うん、あれ?
「笹原、なんでお前ここにいるんだ?」
「今更ですか!?」
そういえば聞いていなかった。愛珠はいつも出入りしているとして、帳はその愛珠を探してここに来た。僕も同じ。じゃあ笹原は?
「今日はお前、部活のある日だろ」
「そうですよ! でも部室に行ったら先輩がいないじゃないですか! これは夜島先輩のところでキャッキャウフフしてるなと睨んで調理実習室に行っても見つからないしでもう探すの大変だったんですから。まさか先輩が一番訪れなさそうなところにいるとは」
「ああそうか。僕がいないと部活が成立しないのか」
「そこから教え込まないと駄目なんですかこの部長は!」
なにせ万年一人部活動の身だったからな。弁論部も笹原が来る前は一人だったし、中学時代の剣道部は奈落村事件で全滅して以降、部員だった渡利さんと相談役の馬鹿は来なくなったし。
思えば、随分長く実行委員会の詰め所にいるな、僕は。あの馬鹿がいないと過ごしやすくていい。
「もういいです! わたしも六角先輩のところに混ざってきますから!」
愛想をつかされて、笹原は六角さんや愛珠の輪の中に合流する。用件を済ませた帳も部活があるとかで去っていく。
どういう因果か、僕は普段訪れることのない実行委員会の詰め所の隅でひとり、ぼうっとする時間を得た。まあ、半分は愛珠の様子を見がてらというところだったが。口ではなんのかんの言いながら、本当に実行委員の連中と上手くやっているのか疑問だったからだ。
しかしそれも、別に観察するまでもなくこの部屋に入った時点で分かり切ったことだ。現に今も、愛珠は渡利さんとすらも肩を並べてクイズに熱中している。今でこそ強情な態度を取っている渡利さんだが、彼女は元来あまり感情的な
だから僕はいつもの部室に戻って一人で本を読んでもよかったし、帰宅するという選択肢もあった。
それをしなかったのは、ぼうっとしたかったからだ。
あるいは、普段とは違うことを考えたかったから。そのために、普段とは違う場所が必要だった。
最近よく考える、別の選択肢というやつについて。
タロット館で九年ぶりに再会したあいつから愛の告白を受けて、僕はそれを拒絶した。その結果が今の帳との関係で、たぶん、どこをどう進んでもそうなっていたような気がして仕方がない。
それでも僕は考える。愛珠が未来を思考するのと同じように、僕は過去を検分する。
別の可能性。
別の物語性。
別の将来性。
別の、僕の存在。
実際のところ今日この日まで『猫目石瓦礫』という存在は綱渡りなのだ。単に奈落村事件をはじめとする多くの事件に接し、死の危機を回避しつづけてきたというだけではない。
四歳の時、両親を殺された僕に悲哀が冗談めいて差し出した手を掴まなかったらどうなっていたか。
九歳の時、名探偵の助手に甘んじていた僕が、あいつを名探偵の座から引きずり降ろさなかったらどうなっていたか。
十三歳の時、奈落村で「死ね」と言われてその通り死んでいたら? 存在価値を失いかけていた僕に伸ばされたあの人の手を取っていたらどうなっていたか。
もっと直截に、僕が生まれた落ちた時、男ではなく女だったらどうなっていたか。
それぞれに違う選択をしても、僕はやっぱり今この瞬間にいたのだろうか。
「猫目石先輩」
つらつらとしていた考え事は、六角さんの声に破られる。顔を上げると、さっきまでクイズゲームで遊んでいた面子が揃って僕の前にいる。
「…………なんだ?」
「名探偵と名高い先輩ですから、この手のクイズを何かひとつ知っていないかと。いい機会ですので、何か披露してもらえないかと考えたのです」
「ひょっとして僕、馬鹿にされてる?」
誰が名探偵やねんという話だ。一度や二度、本物を上回っただけだ。
「いいじゃないですか先輩」
提案するのが六角さんの仕事なら、せがむのは笹原の仕事か。
「そりゃわたしだってこの業界の宣伝塔を自負してますが、それでも現場を知る先輩にはかなわないんですから」
「だから本当にどの業界なんだよ」
と、言ってみたところで、仕方ないなとため息を吐くところまでが僕の予定調和か。何をどう話しても、結局僕は彼女たちの頼みを聞くのだ。
何より渡利さんと愛珠が仲良くなるきっかけになりそうなこのクイズ大会に、水を差すのも野暮な話だ。いや実際、昔の僕なら無視してたかもしれないと思うと、変わったのかな。
………………僕が人生を歩む中で変わっているとすると、その変化は今ここに至る瞬間に影響を与えているのか? それとも、その変化を計算に入れての今ここなのか?
少なくとも、今ここで考えることじゃない。
「出すなら早くしてよね」
今度は愛珠にせがまれる。
「ほら、わたし、バイクで一度帰らないといけないから。時間がない」
「分かった。ちょっと待ってろ考えるから」
しかしクイズと言われてもな。しかも例の『ウミガメのスープ』のようなタイプの問題………………ああ。
ひとつだけ、思い出した。
「それじゃあ、出題だ」
これは十九世紀のロンドンでの話。夜中、あるバーで幾人かの男が君たちのように問題を出し合って遊んでいた。賭けの内容は、例えばグラスの上に薄紙を敷き、さらにその上にコインを載せて「紙とコイン、そしてグラスに手を触れずにコインをグラスの中に落とせるか?」とか、「卵を割らずに立てる事ができるか」みたいなものだ。
その中の一人の出題を、君たちに答えてもらいたい。
出題者の男が言った。
「俺はある冬の朝、とんでもないものを見てしまったんだ。その日は雪が薄く積もっていて、歩けば道に足跡が残るような日だった。そんな中、俺は自分のアパルトマンを出ると、目の前を一人の男が走っていた。その男を目で追ったあと、雪で滑らないよう足元を見ながら歩こうとして気づいたんだ。さっき走って行った男が、雪の上に一切の足跡をつけていないのを。この話をお前たちは、嘘だと思うか? それとも本当に、そんなことが可能だと思うか?」
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