7 雨は上がって

「はい、あーん」

 帳が、ちぎったカレーパンを僕の口に放り込む。

「あーん」

「どう?」

「いいんじゃないか?」

「まあ、あなたの味覚なんてあてにならないけどね」

「じゃあ聞くなよ」

 勝負の終わった僕たちは、実行委員会の詰め所である放送室にいた。この放送室に今いるのは、体育館にいたほとんど全員だった。ただ、神園刑事と町井先生の姿はない。どうも、彼女たちは愛珠をおびき寄せた責任者として森山先生を糾弾しに行ったらしい。

「ほら、指でこっちの弦を押さえてだな……」

「ほうほう、へえ」

 放送室の一角では、愛珠と石原がベースを弄っていた。どうやら石原が彼女に教えているらしい。周りには実行委員会の面々も集まって、笑い合いながら2人の様子を見ている。笹原もその輪の中に交じって、誰かの私物らしいギターを適当にかき鳴らした。

「しかし…………」

 僕たちの隣で、僕たちと同様にそんな愛珠と実行委員の様子を見ていた雪垣が、おもむろに口を開いた。

「意外と仲良くなってるな」

「…………なんでお前、顔赤いんだ?」

「お前の妹にボールをぶつけられたからだよ!」

 ほとんどやけくそのように、雪垣はカレーパンを飲み込んで、紙コップの中身も流し込んだ。

 帳が籠目くんに手配したものが、このカレーパンと飲み物だった。つまり、帳は最初から勝負をして、仲良くなったところで親睦会というのを企画していたわけだ。まあ、文化祭に出すカレーパンの味見を実行委員の連中にやらせたいという思惑も大きいだろうが。

「しかし、最初からこの勝負、俺たちの負けは決まってたみたいなものじゃないか? なんだよ天井を歩けるって。それを最初に聞いてたら、そもそも勝負してなかったぞ。加速装置使ったみたいに動きやがって」

「ボクサーだからそれくらいできるさ」

「お前はボクシングをなんだと思ってるんだ」

 雪垣の隣では、渡利さんが紙コップに口をつけながらじっと愛珠を見ていた。帳の企んだ親睦目的のゲームは、愛珠の経歴に何となく硬直していた実行委員の面々の態度を軟化させることはできた。しかし、彼女のように確固たる価値観と意志で愛珠の存在を否定している人間には何の意味もない。それは帳も分かっていたはずだが……。

「猫目石」

 飲み終わった紙コップをくしゃくしゃにしてから、渡利さんは僕に呼び掛ける。

「結局、あんたは何がしたかったの?」

「さあね」

「あんたには、タロット館の裏で起きた上等高校の事件の後始末をする義理なんてない。そもそも、あんたはそういうのことを考えるタイプじゃないでしょう」

「どうだろうね」

「でも…………」

 と、渡利さんは付け足す。

「あんたはやっぱり、。その解決のために、彼女を連れてきた」

「…………………………」

 まあ、雪垣はともかく、事件のことをしっかり覚えている彼女に、あんまり隠し事はできないよなあ。

「別に、奈落村事件のためにあいつを呼んだんじゃない。誰が奈落村事件をどう思おうと、あの事件のすべては燃え落ちてしまった。それを僕がどうこうできるわけじゃない」

「じゃあ……」

「言っただろう? 僕はけっこう人殺しを見ていて、でも、その全員は人間という点で共通しているって。だからこそ逆に、その枠にはまらない人間が現れれば対応に苦慮するって話だよ。雪垣には愛珠をアドバイザーと説明したけれど、あの妹からアドバイスを一番もらおうとしているのは僕なんだ」

 たとえば人殺しがいたとして。

 今まで見た人殺しと違って、そいつを人間だとは思えなかったら? そいつのことを悪魔と思ったなら?

 誰かの意見を聞きたくなるのは、当然のことだ。

 放送室の窓から、光が漏れた。見ると、外では雨が上がっている。相変わらず鈍色の厚い雲が空を覆っているけれど、この分なら晴れそうだった。

 あるいは、ただの雲の切れ間で、すぐに雨は降るかもしれないが。

「瓦礫」

 愛珠が、僕の前に立っていた。

「ああ」

「悪いね帳ちゃん。ちょっと彼氏借りてくよ」

 彼女はおどけてそう言うと、僕の手を引っ張って放送室を後にした。

「そういえば、いつからお前、帳のことそんな呼び方するようになったんだ? 帳も確か『愛珠ちゃん』って呼んでたし」

 灯りもついておらず薄暗い廊下に出る。ここからの会話は他人に聞かれたくないので、僕たちは放送室を離れて適当に歩いた。

「ふふん。ま、将来の妹ちゃんに遠慮しててもねえ」

「…………はあ?」

「それで瓦礫、あいつだけど」

 冗談めいていてた愛珠の口調は、途端に冷たくなる。懐に隠された包丁みたいに。

「ああ。どうだった?」

「まずさ、これはあくまでわたしの直感だってことは理解しておいてほしいんだよね」

 と、愛珠は柄にもなく長い前置きを置いた。

「えびでん――えっと、何か具体的な根拠があるわけじゃない。そもそも、あなたから既に話を聞いている以上、先入観があるかもしれない。そして人殺しが、人殺しに詳しい保証もないしね」

「その辺は全部、理解しているつもりだよ」

 分かっていて、僕はそんな参考にならないような愛珠の意見を聞きたいと思っているのだ。

 僕ひとりの感覚では、とても耐えられないから。

「で、その辺諸々加味した上で、あいつはどうだった?」

「雪垣、だっけ。あれはやばいね」

 紫崎雪垣について、愛珠の評価は端的だった。

「それだけ。わたしが思ったのはそれだけ。でもさ、瓦礫から聞いた話が本当なら誰だってそう思うよ」

 愛珠は僕に背中を向けて、せかせかと歩く。僕はそれにほとんど小走りでついていく。

「わたしが、というか生まれてからなんだけど、ずっとあいつらに殴られたり蹴られたり、要するに虐待されてたんだよ。だからどうしても、その頃の記憶は不鮮明なことが多くって、今でも不意に新しいことを思い出すときがあるんだよね。でも、そんなわたしでもはっきりと覚えてる。人を殺したときのことは。3人を、この手で突き刺したときの感触は、たぶん一生忘れないし、忘れちゃいけないものだと思う」

「……………………」

 人を殺したという事実にどう向き合うか。それは、常に探偵としてしか人殺しに向き合ってこなかった僕には結論を出しえない問題で、愛珠は一定の結論を出したから、今こうしてここにいる。

「だからこそやばいと思うし、恐ろしいと思うんだよ。瓦礫があいつを警戒しているのも、たぶん、そういうところからだと思う」

「そうだな……。僕が見てきた人殺しっていうのは、その事実を突きつければ膝を折った。真相を当てられた犯人が自暴自棄になって暴れだすなんていうのは、物語だけのことだ」

 だから僕は、未来視なんてものを持て余しているのだ。

「あいつだけだよ。雪垣だけだ」

 人を殺したという事実を突きつけても、ただきょとんとするばかりで、それ以上の反応を返さなかったのは。

「あいつは、人を殺したという事実を忘れているんだ」

「うん、だからそれは、やばいと思う」

 でも今はただやばいだけで。

 僕がいよいよ紫崎雪垣をどうにかしなければならないと思い始める夏休み最終週までは、まだ刹那のようで永遠にも感じられる日常が待っていた。

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