3 アドバイザー
笹原が黒板に書かれた文字を消していく。
「えーっと。すいませんちょっと複雑ですね。もう一回確認しますよ?」
手についた粉を払った彼女は、もう一度チョークを握りなおす。
「ねえ瓦礫、チョークって漢字だとハクボクって書くんだって知ってた? わたしどういう風に書くか知らないんだけど」
愛珠が僕の腕をつっついて聞いてくる。
「こうだな」
僕は黄色いチョークを握って、黒板に『白墨』と書いた。
「白なのに墨ってのが面白いよねー」
「黒板だって黒くないだろ」
「そこっ! 積極的に妨害しないでください!」
教卓をバンバン叩いて、笹原が僕たちの注意を引いた。
「いいですか? まず、わたしが司会を務める『血みどろニュース』で木野悲哀さんと知り合いました。で、木野さんから猫目石先輩のことを『息子』とだと紹介されました。しかしこれはいわゆる言葉の綾で、実際に先輩と木野さんに血縁関係はない、と」
笹原は黒板に白い字で『木野悲哀』と書き、さらにその下へ『猫目石ガレキ』と書き加えた。
「そして瓦礫くんのお母さん――悲哀さんとある男性の間に、一人の娘が産まれた」
帳がくちばしを挟む。
「それが哀歌ちゃん。わたしが知っているのはそこまでね」
帳は赤いチョークで、『木野悲哀』の右へ横線を伸ばしていく。そして線の終着点に『父X』と書き、さらに『木野悲哀』と『父X』を結ぶ線の真ん中あたりから垂直に線を下へ伸ばし、その終点に『木野哀歌』と書き足す。
「先輩…………帳さんにさえ自分の家族のこと話してなかったんですか?」
「言い忘れてただけだ」
「忘れてただけって…………」
笹原がじろりと僕を睨んだ。
「恋人に自分の家族のことを伝え忘れる馬鹿がいますかっ!」
「なんとここにいたな」
「うがーっ!」
首根っこをひっつかまれる。
「ていうか、わたしも瓦礫に恋人がいたって初耳なんだけど」
「別に、お前に言う必要はないだろう」
「それもそっか」
愛珠の反応は軽い。笹原にも見習ってほしいものだ。
「あの………………」
おずおずと誰かが口をはさむ。声のした方を振り向くと、そこには籠目くんがいた。調理実習室からわざわざ、様子を見に来たらしい。
「結局、この切槍愛珠って人はなんなんっすか?」
「妹、ということは哀歌ちゃんと同じ家系ということ? 彼女、哀歌ちゃんにそっくりだし」
帳は持っているチョークで、哀歌を悲哀とつないでいる縦線から枝分かれしたもう一本の線を継ごうとする。
「うんにゃ、わたし、哀歌と父親違うんだよね」
「じゃあ、母親が同じなのね」
書き足そうとしていた線を消して、帳は『木野悲哀』の左側に横線を付け足す。『父X』の時と同じ要領で『父Y』、悲哀と『父Y』をつなぐ横線の真ん中から垂直に線を下ろし、さらに『きりやりあいす』と書く。
「要するに哀歌ちゃんはあなたの異父妹ということね」
「いふまい?」
「父親が違う妹ということ」
「そういうこと」
帳は大きくため息をついた。彼女にしては珍しく、げんなりという様子を隠しもしない。
「……ちょっと待ってくださいよ夜島先輩。この図はおかしいでしょう」
黒板を睨んでいた籠目くんが、僕と愛珠を交互に見る。
「猫目石先輩はなんなんです? 切槍さんと哀歌って子と悲哀って人が家族なのは分かりましたけど、先輩は誰と血が繋がっているんですか?」
「僕は三人とはまったく血が繋がっていないぞ」
「え?」
「え?」
僕と籠目くんはしばし無言で見合った。
「…………猫目石先輩、じゃあこの三人は先輩のなんなんっすか?」
「さあ?」
「さあってあんた…………」
実際、よく分からないんだよな。
「ちょっと夜島先輩、いいんですか? 猫目石先輩すっごい適当なんですけど!」
笹原は攻撃の矛先を帳に向けた。当の帳は丸まった毛先を指でもてあそびながら、僕と愛珠を交互に見た。
「いいんじゃないかしら。瓦礫くんのこういう適当さは、今に始まったことではないし。瓦礫くん、彼女は普段は一緒に暮らしていないんでしょう?」
「ああ。愛珠は、普段は東京の高校に通っているんだ。たまにうちに、しばらく居座りに来る。ほら籠目くん、さっき横浜のお土産渡しただろう? あれ、ちょっとした用で愛珠と横浜にいたときに買ったやつだったんだよ」
「ああ、そう繋がるんすね…………」
げんなりというよりこちらはげっそりした感じの籠目くんは、一言二言帳と言葉を交わすと帰っていった。
「なんか夜島先輩、もう納得というか諦めてませんか? わたしは全然理解できないんですけどっ!」
笹原はぶつくさ言いながらも、黒板の文字を消しにかかった。その隙に、そっと帳が僕に近づく。
「でもどうして言わなかったの? あなたのことだから、忘れていたというのはその通りなのだろうけど」
「実際忘れていたんだよ。まあ、仮に覚えていたとしても、愛珠のことは僕というより哀歌の専決事項だから、哀歌がお前に言う素振りも見せない以上、言い出しづらくってさ」
哀歌――僕の妹でもあり、愛珠の妹でもある彼女は、帳をどうも嫌っている。それだから彼女の口から帳に対して愛珠の説明はなかっただろう。僕としても、実の妹である哀歌の裁可なしにペラペラ喋るというのはさすがにデリカシーがなさすぎろうだろうと判断はつく。
「なるほど」
帳は哀歌を持ち出したことで、納得してくれたらしい。
「なになに、内緒話?」
一方デリカシーという言葉を自分の辞書から欠落させているらしき愛珠は、僕と帳の間に割って入った。僕はそれを止めようとしたが、余裕を取り戻した帳はいつもの社交的な態度で打って出た。
「じゃあ、初めましてかしら。愛珠さん。わたしは夜島帳」
「はじめまして。切槍愛珠です。2年前から瓦礫のお姉さんやってまーす」
「…………妹じゃなかったの?」
また面倒なことを。まあ、これには僕も加担しているんだけどさ。
「僕と愛珠は同い年で、誕生日は僕の方が先なんだ。それで冗談めいて妹って言ってみたら、なんか変な風に張り合ってこいつは僕のことを弟と呼び始めたんだ」
その経緯こそ謎だ。愛珠は「兄なんてひとりいれば十分だからね」と言うのだが……。
「ううん…………」
「紫崎先輩、大丈夫ですか?」
僕たちがわちゃわちゃやっていると、ようやく雪垣のやつが目を覚ましたらしい。雪垣の周りには町井先生、扇さん、それから愛珠を組み伏せようとした巨人の女性が集っている。
「いつつ…………。まったく、なんだったんだ……。頭は痛いし、肩も痛い」
肩は愛珠が踏んだんだな。当の愛珠はそっぽを向いて鼻歌を歌っている。
「確か、突然赤いものが見えて…………」
紫崎雪垣はPTSDを抱えている。その源泉は、奈落村事件。
5年前、額縁中学剣道部の面々が遠征から帰宅するためレンタルバスに乗っていると、いつの間にやら辿り着いたのが奈落村。360度を断崖絶壁に囲まれ落ちくぼんだ所にあるまさに『奈落』の村で、俺たちは村民および剣道部員の連続殺人事件に巻き込まれた。村を外界とつなぐ唯一のトンネルは豪雨による土砂崩れで封鎖。逃げ場などない血の惨劇は、俺たちの心に深い傷を残した――――と雪垣なら言いそうだな。あいにくその事件の最中の僕の思考は8割がた「帳に会いたいなー」で占められていたので、僕の心に傷らしい傷はなかった。まあ、僕史上、議論の余地なくナンバーワンで奇怪な事件だったのは間違いないが。
一方、僕と違い、雪垣やその他生存者には大きな傷が残った。雪垣の場合、PTSDのトリガーはどうやら赤色と雨にあるらしい。血の色を想起させる赤はもちろん、事件当時はほとんど雨が降っていたから、雨音はその時の記憶をよみがえらせるのだろう。
もっとも、あいつは事件のことほとんど覚えていないはずなのだが。
「ちょっとあなた、いったい紫崎先輩に何したんですか!」
雪垣の無事を確認した扇さんが、愛珠に食って掛かる。愛珠はたまらず両手を挙げて降参の意志を示す。
「何もしてないよ。瓦礫を探そうと思って教室に入って、まず彼と目が合ったんだ。そしたら突然倒れちゃって、あとはもうてんやわんやの大騒ぎ」
「そんなわけないでしょ!」
ところがたぶん、そんなところだろう。愛珠は赤いライダースジャケットを身に着けていたから、ただでだえ雨音でじりじり思い出していたところに決定打を与えたわけだ。
「あー、いや、いい」
まあ、そんなことを言い出しづらいのだろう。雪垣は具体的なことは何も言わず、ぼんやりとした物言いで扇さんを制した。
「あの人からは、俺は何もされていない」
「そうそう、わたし何もしてない。むしろそっちの巨人さんに襲われたんだけど?」
おどけて愛珠はそう主張するが、その目の奥がわずかに敵意のようなもので光ったのを僕は見逃さなかった。こいつ、相当勘が鋭いんだよな。
「愛珠、あの人はえーっと、そうだ、神園薫さんと言って、刑事なんだ」
僕は横合いから、愛珠に説明を加える。長身巨躯の彼女は京都府警の刑事だ。町井先生と一緒に招集された犯罪学者の先生がいたが、その人に付き添って上等高校に来ているのだ。僕は町井先生との邂逅の際、彼女にも会っている。
「あー、刑事ね。はいはい。使ってる武道とか、そんな感じした」
愛珠は大儀そうに呟いた。タロット館の幼い主であるロッタちゃんも相当の警察嫌いだったが、愛珠も警察が大嫌いなのだ。
神園刑事はそんな愛珠から、おそらく嫌悪を抱かれたことには気づいただろう。しかし大人なだけあって、一瞬だけ眉をひそめただけであとは平然としていた。
「本当に大丈夫、紫崎くん」
町井先生は相変わらず雪垣を心配していたが、やつは自力で立ち上がって頭をふるった。
「ええ、大丈夫ですよ。で、そっちの彼女は誰なんですか?」
ああ、そっか、愛珠の自己紹介はあいつが倒れている間に終わったんだった。また説明か面倒だなと思ったが、愛珠はスキップするように自ら雪垣に近づいていく。
「肩踏んじゃってごめんね。わたしはね、こういう者なんだ」
彼女はジャケットのポケットから何かを取り出して渡した。僕も彼女たちに近づくと、雪垣が渡されたものがよく分かった。それは少しひしゃげていたが、名刺だった。表には彼女が所属するジムの名前と、それから『NPO法人犯罪関係者を守る会』と書かれて、その下に『切槍愛珠』と大きな字で打ち込まれていた。
「き、きりやり…………」
雪垣は明らかに読みづらそうだった。なんでフリガナふらなかったんだ。
「あいしゅ?」
「あいしゅじゃなくてあいす。き、り、や、り、あ、い、す。やっぱフリガナ書かなかったのは失敗だったなあ」
「ボクサー? いやちょっと待て、『犯罪関係者を守る会』って……」
雪垣は聡くも書かれていることの意味を汲み取って、僕の方を見た。
「やっぱりお前の関係者か」
「やっぱり?」
「面倒ごと起こすのは、お前の知り合いと相場が決まっている」
そんな雪垣市場の相場など知らんな。
「そのNPO法人が、どうかしたんですか?」
気づくと、愛珠は扇さんにも名刺を渡している。その名刺を見て、雪垣の言葉を聞いた彼女は頭にハテナを浮かべているらしかった。
「『犯罪関係者を守る会』ってのは、猫目石の母親が代表をやってるところだよ。それについこの前――――」
雪垣は言いかけて、辺りを見た。今、15組の教室にいるのは僕たちだけだ。別にこいつが口ごもる理由はないのだが、壁に耳ありの信条なのかやつは言葉を控えた。
「例の事件の影響を避けるために、県外に出た人がいただろう?」
しかし僕は喋る。愛珠が今ここにいる理由を話すためにも、ここを避けていては面倒だった。
「例の事件、ですか」
扇さんは俯いた。例の事件とは、言うまでもなく上等高校で死人が出たあの事件だ。
「そう。それで、その人のバックアップをうちのNPOが請け負っていてね。とはいえ、うちはこの県が基本的な活動範囲だから、その人が今住んでいる地域の近くに住んでいた愛珠の力を借りているんだ」
「じゃあなんで、その人が今ここにいるんですか?」
おっと、扇さんから鋭い指摘が飛んできた。
「里帰り。ま、バックアップって言ってもさ、瓦礫がくれた情報をわたしがその人に手渡しつつ、様子を見るってだけだから。夏休みの今はお休みってこと」
愛珠が茶化して言う。
「それにバックアップするわたしも、上等高校と実行委員会って組織の人たちを見ておきたかったし。バックアップするのに、その人との間に齟齬があっちゃ困る」
「里帰りって……?」
注意深く伺いつつ、雪垣が言葉を発する。
「ここが地元なのか?」
「うんにゃ、母さんと、妹と、弟に会いに来た。わたし、こいつのお姉さんでさ」
愛珠が僕の肩に腕を回した。
「やめろ暑苦しい」
「えー、つれないなあ弟」
「妹とべたつく趣味はないからな」
と、あえて愛珠の言葉に乗って混乱するような言い回しをしたのは、もう一度の説明を避けるためだった。目論見通り、雪垣と扇さんは何がどうなっているやらという調子でポカンと口を開けていた。
「猫目石君」
神園刑事が、ここでおもむろに口を開く。愛珠は一転むっとして、僕から離れた。
「もう少しみんなに説明したら? たぶん、切槍さんがここに来たのはもっと別の意味があるでしょう?」
「…………………………」
そうなるよなあ。見ると、町井先生も憮然とした表情で愛珠を見ていた。
「ええ、そうですね。これから実行委員の人たちと愛珠を合わせる前に、雪垣と扇さんくらいには事前に説明した方がいいでしょう」
「……瓦礫くん、どういうこと?」
近づいてきていた帳が、僕の顔を覗き込む。
「今回、愛珠がここに来たのは、里帰りという意味もある」
ちらりと、愛珠を見る。彼女は目を閉じて、すべての説明を僕に委ねているらしかった。
「僕たちの顔を見に来たというのもある。バックアップ役として、上等高校を見ておきたかったというのも本当だ」
「お前にしては、やけに持って回った言い回しをするな」
「黙れ雪垣」
それくらい、重要なことだ。
「愛珠がここに来た目的。その一番大きなところはアドバイザーとして、だ。上等高校で起きた事件――高校の同じ課外活動の仲間が仲間を殺したっていう、あの事件を乗り越えるための」
「アドバイザー…………」
扇さんは、じっと愛珠を見る。愛珠はまだ目を閉じている。
「もしかして、切槍さんも同じような経験をしているってことですか? 切槍さんも、わたしたちと同じように、友達が友達を殺すって事件を……」
ああ、そっか、そうなるか。
案外、同じ経験をした先輩っていうのは大きな糧になるらしい。扇さんの目には、ある種の希望のようなものが見えた。それを曇らせかねないのはちょっと心が痛むが……。
「違うね」
ようやく、愛珠は口を開いた。
「わたしは、誰かを殺された経験はない。だからそういう意味では、力になれない」
「じゃあ……」
「人を3人殺したことならあるんだけどね」
開かれた愛珠の目は、暗さを増していた。
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