3 小話:信号無視をした男
「はい、じゃあこれが入部届けです」
「………………ああ」
学校を抜け出した僕と笹原は、学校から少し離れたところにあるショッピングモールのフードコートにいた。上等高校最寄り駅から二駅移動して、さらにしばらく歩いてようやく到着するくらいには距離があるから、補習のある中藤先生はさすがに追ってこれない。
お目当てのロコモコバーガーを食べ終わった笹原は、カバンから紙切れを一枚渡してきた。
「確かに渡しましたからね。握りつぶさないでくださいよ!」
「分かってる。請け負った」
まあ、実のところ僕もここ最近の顧問の圧には参っていた。弁論部を引き継ぐ人間が加わってくれるのは悪い話じゃない。
「ところで笹原、例の小話ってのはなんだったんだ?」
「小話?」
「ほら、さっき部室でなんか言っていただろう」
「ああ、それですね」
笹原はカップに残ったコーラをすすった。
「聞いてくれるんですか?」
「まあ、どうせ暇だしな。お前を入部させると決めた以上、もう乗り掛かった舟みたいなものだろう」
「大した話じゃないんですよ。わたしが仕事で顔を合わせるスタジオの社長さんの、ちょっとした笑い話なんです」
「笑い話、ねえ」
「はい。そこの社長さん、あーんまりいい性格してないんで嫌われているんですけどね。それでスタジオのスタッフの人が、社長の失敗談だって笑って教えてくれたんです」
でも分からないことがあってと、笹原は続ける。
「何分、教えてもらっている途中に問題の社長さんが入ってきてしまったんです。それでお話はお流れで、肝心のオチが分からないと」
「それなら日を改めて聞けばいいじゃないか」
「聞こうとしましたよ。そしたら話してくれたスタッフ、にやっと笑って『血みどろニュースなんて番組持ってるんだから、ちょっとは考えてみな』って」
「…………つまり、笹原の聞いた話だけでオチは想像がつくってことか」
「ですです。だからせっかく猫目石先輩に会うんだったら、この話をしようかなって――」
ふと、僕と笹原は二人揃って隣を見た。視線を感じたのだ。
隣に、上等高校の制服を着た女子生徒がいた。笹原と同じ、半袖ブラウス。違うのは笹原がスラックスなのに対し、彼女はプリーツスカートということくらいか。冬服がブレザーの上等高校では、夏服に男女差はほとんどない。
女子生徒は、こちらを見ていた。僕が気になったのは、彼女がテーブルに置いている本だ。ここからタイトルの全容は見えないが、ただ「奈落村」の文字はかすかに見えた。
「奇遇ですね、猫目石先輩」
「えーっと…………」
女子生徒が話しかけてくる。見覚えはあるのだが……。扇さんと同じパターンの思い出せなさだ。雪垣の周りをうろついている一人か?
「六角先輩!」
僕が思い出すより、笹原が名前を呼ぶのが早かった。
「ああ、六角さんか」
「瑪瑙ちゃん」
と、彼女は自分の下の名前をわざわざちゃん付けして呼んだ。どうしてだろう。
「奇遇だね。六角さんは、確か実行委員会だったよね。じゃあやっぱり雪垣の関係者か……」
「瑪瑙ちゃん」
「笹原が六角さんを知っていたのもそれでか?」
「はい、わたし幽霊だったんで、六角先輩に会ったのは四月の時だけですけど」
「瑪瑙ちゃん」
「そういえば聞いたよ六角さん。例の上等高校の事件で、文化祭が中止になりかけたんだって? 実行委員の仕事は大丈夫なのかい?」
「……………………はぁ」
六角さんはため息をついて、それから一度立ち上がると椅子を引きずってこちらに近づいて座りなおした。
「紫崎先輩は折れるんですけど、どうしてか猫目石先輩は折れないんですよね」
「なにが?」
「相談役と探偵役に『瑪瑙ちゃん』と呼ばせる大作戦は失敗です」
六角さんはくすりとも笑わず、仏頂面のまま言ってのける。ああ、それでさっきから自分の名前を連呼してたのか。
「猫目石先輩、そちらの後輩は現役以下略DJササハラこと、笹原色ちゃんじゃないですか? うちの人材だと思うんですが、なに粉かけてやがりますか」
「やがりますかって……」
彼女、こんな喋り方だったか? 扇さんといい、あいつの周りには女子が多すぎてそれぞれのパーソナリティがぼんやりとしか認識できていない。
「別に粉はかけてないよ。彼女が弁論部に入りたいっていうから仕方なく」
「まあいいですよ。実行委員会は幽霊だらけなので、ついでにもう何人か先輩にとりつくと楽なのですが」
「僕を呪い殺そうとしてないか?」
「最近はとみにそう思います」
じゃあ以前から薄い殺意は抱いていたのか。
僕、何かしたっけ?
「それで、何やら楽しげな話をしていましたが……」
「あ、それはですね」
笹原は持っていたカップを置いた。
「あー、えへんえへん。DJササハラぷれぜんつー」
「いいから早く話せ」
そうして、笹原はひとつの小話を話し出した。
「先ほども言ったように、この話はわたしが出入りするスタジオの人から聞いたんです……。なんですか先輩? 前置きはいいから早くしろって? なんだかんだ言って興味津々じゃないですか。
「で、そのスタジオの社長さんのお話ですね。その社長さんが、なにやら大事な商談で車を飛ばしていたんですよ。六角先輩、飛ばすって急いでたって意味です。車は宙を飛びません! それでですね、その車が途中で故障しちゃったんですよ。
「幸い、完全に停止する前に路肩に止めたので事故にはならなかったそうです。でも車はうんともすんとも言わない。レッカーは呼んだけれどそんなのを待っていたら商談に間に合わない。社長さんは一緒に乗っていた秘書に車を預けて、自分はせっせと商談の場所まで走ることにしました。車の故障した場所から、商談の場所はそんなに遠くなかったんです。
「商談の内容ですか? それは聞いてないですね。でも社長さんが出るくらいですから、きっと大事だったんですよ。たぶん会社の命運を握るくらいには。
「それでスタコラ走っていた社長さんですが、交差点に差し掛かりました。ちょうどこのショッピングモールから少し歩いたところの交差点です。ええ、その交差点は東西南北に車道が通っていて、社長さんは南から北に抜ける車道に併設された歩道を走っていました。そして交差点に差し掛かると、交差点の横断歩道を横切ろうとしました。ですから社長としては、まっすぐ交差点を南から北へ抜ける算段だったんですね。
「社長が横断歩道を渡ろうとしたとき、交差点の上にあった信号はちゃんと青だったそうです。この話をしてくれたスタッフさんは、ここが話のポイントだって言ってましたけど、猫目石先輩は分かりましたか?
「で、話を戻して、社長が横断歩道を渡ろうとしたのと同じタイミングで、交差点に車が侵入しました。南の方からがーっと。つまり社長と同じ方向から来たんですね。黒塗りの、いかにもそっち系の人が乗ってそうな車だったそうですけど、その車は速度を緩めずに左折して、西側に進路を変えたんです。
「いい忘れてましたけど、社長さんが渡ろうとしていた横断歩道も西側なんです。ですからぶつかりますよねー。間一髪、ぶつからずにお互いが避けて事なきを得たそうですけど。
「さあ、ここからが盛り上がりますよ。部長はカンカンに怒って、自分を轢きかけた車へと向かいました。当然ですよ。さっきも言ったように、部長は青信号なのを確認して渡りました。これはどう見ても、歩行者の確認を怠って左折し、横断歩道に進入した車側の責任です。
「一方で、車からも運転手が出てきました。出てきたのは幸運なことにヤクザなどではなく、若いチャラチャラした男性でした。そこで驚くべきは、その運転手の態度です。運転手はなんと、怒っていたのです。
「これには部長も怒りを収めて、疑問を感じずにはいられません。そして予想外な運転手の態度に困惑する部長に、運転手は言い放ちました。
「『危ないじゃないか! 信号無視をするな!』」
「………………で?」
「はい?」
「だから、続きは?」
「これで終わりですよ」
「ああ、ここで終わったのか」
なるほど、こりゃ笑いどころの分からない話だ。
「確認するけど、社長と車は同方向から侵入したんだよな?」
「はい」
だとすると、信号が方や青で方や赤ということはあり得ない……あり得ないのか? ううん、僕は自動車免許を持っていないし、僕が見ている運転って悲哀にしろ森さんにしろ乱暴だからなあ。いまいち参考にならない。
あるいは、歩行者と自動車でどちらかが優先するというルールやマナーはあるだろう。しかしここではそれらは関係ない。運転手は間違いなく『信号無視をするな』と社長に言ったのだ。スタッフが笹原に言った通り、重要なのは信号だ。
「念のため聞くが、話に間違いはないか? どこか隠しているとか、抜け落ちているとかは」
「わたしは聞いた通り話しましたよ。で、スタッフはこれだけで分かるって」
ふむ……。
まず前提となるのは、この話が事実譚であるということ。そして嫌われ者の社長の失敗談であり、それを笑い飛ばそうという趣旨であること。この前提に従えば、失敗したのは運転手ではなく社長ということになる。その失敗は信号にまつわり、実際に起こりうること…………。
「話に続きがあって、横柄な態度をした社長が運転手にぶっ飛ばされた」
真顔で六角さんが言う。
「それはないですよ。スタッフの人は今の話だけで情報は全部出揃ったって言ってましたし、わたしの知る限り社長さんはぶっ飛ばされたようなケガはしていませんでした」
「そうか、笹原は社長も見てたんだったな」
もうひとつ前提があったな。笹原の話だけで答えが分かる。
だが、僕の推理が正しければ……こんな補足情報が飛び出すはずだ。
「笹原、ひとつ質問だ」
「なんですか?」
「その社長、ひょっとしてすごい田舎者か?」
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