5 二者択一ならば
結論から言えば、市松さんと僕の回答は同じものを指した。
「…………紫崎先輩、お願いします」
制限時間ギリギリ、籠目くんは雪垣たちを頼った。その末に導き出した答えは、市松さんのものと同じだった。あるいは、彼の後ろで控えていた部員たちなら気づいたかもしれないけれど、籠目くん自身が助力を断ってからは遠巻きに彼を見ているだけだった。制限時間ギリギリで、彼らへ咄嗟に問題を投げつけていたらパニックになってむしろ分からなくなっていただろう。
その点雪垣は、伊達に相談役と持ち上げられてはいないのだ。
「解答編はお前がやれってさ」
千里はそう言って、僕にスマホを返した。どうやら帳はゲーム開始の合図をした後、さっさと通話を切ったらしい。
「僕が?」
「そりゃそうだろ。オレは問題のレシピを見てないからな」
面倒だが、帳がそう言うのならやるしかないのだろう。
「分かった。とはいえ、問題のレシピを見た部員の大半は分かっていることだろうから、手短に………………」
僕がさっさと説明をしようとしたところで、調理実習室の扉が開かれる。特進クラスの部員でも遅れてやってきたかと思ったが、まだ時刻は昼前である。おかしいなと思って扉の方を見ると…………。
「げ…………」
僕の天敵、もとい古典担当の中藤先生が立っていた。
「あ、いたいた」
中藤先生――実年齢三十代だが精神年齢が永遠の十七歳というこの驚異の女教師は、調理実習室に入るなり僕と千里、それから雪垣を立て続けに指さした。
「サボり魔三人衆! たぶんここじゃないかと思ってみたらビンゴ。ほら、早く教室戻ってよ。補習するから」
しまった、今日はこの人の補習があったのか。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「待たない!」
言うなり、中藤先生は僕たち三人の首根っこを掴んでしまう。強引だなあ。というか首が絞まる。
「待ってくださいよ中藤先生! これからいいところなんですから!」
と、中藤先生を制したのは扇さんだった。
「あたし、まだ答え分かってないんですから。紫崎先輩に教えてもらわないと困りますよ」
「答え?」
先生は僕たちを離した。その動作が唐突だったものだから、僕たちはどちゃりと床に落とされた。
「また何か、不思議な事に首を突っ込んでるのかな君は?」
「いえ……先生の手帳の中身が消失したことに比べれば大したことではないんですが……」
中藤先生は以前、僕を頼って来たことがある。もっとも、それはタロット館事件の前のことで、つまり僕が探偵として悪目立ちする前だったから帳が勝手に引き受けて僕に投げつけた形の巻き込まれ方だったが……。先生が車中に置き忘れた手帳に書かれていた事項か消失したという不可思議現象を解決したことがあって、彼女はそのことを言っているのだ。
ともかく、中藤先生が興味を持って僕たちを教室に連行する手を止めたのは好都合だ。千里もレシピを知らないと言うし、部屋の片隅で傍観していた部員たちもレシピを見ていないはずなので、一緒に説明してしまおう。
「二つのレシピのうち……高校生にふさわしいものを当てろってクイズなんですけどね」
「ふむふむ」
本当は口頭で説明するより、見てもらった方が早いのだが、あくまで説明だから仕方がない。それにレシピを見た場合、不要な情報に囚われかねない。僕はレシピの内、料理名と材料の部分をそらんじて先生に説明した。
説明を聞いた先生は、しかめ面をして首をかしげる。
「ううん? どっちがふさわしいか? そんなの、分かるの?」
「千里はどうだ?」
「オレは、たぶんこうじゃねえかってのはある」
千里も眉間に皺を寄せていたが、対照的に答えは出ているらしい。
「ねえこれ、他のみんなもやったんでしょ? みんなはどうだった?」
中藤先生は僕の後ろにいたグルメサイエンス部の部員に質問を投げる。市松さんと籠目くんは顔を見合わせた後、それぞれ答えた。
「俺は分かんなかったっすけど……紫崎先輩が言うには、レシピBの方だそうです」
「わたしもA……じゃなかったBが答えと思いました」
扇さんは不思議そうに雪垣の顔を覗き込んだ。僕もBと思った。千里に顔を向けると無言でうなずく。彼女もBが答えだと思ったらしい。
「では、順番に考えていきましょう。そもそも、帳が言った『高校生にふさわしいレシピ』。これは本来もっと厄介なものです。中藤先生が言うように、本来はどちらがよりふさわしいかなんて決定できないんですよ」
高校生にふさわしいとは、何を指してそう判断するのか。調理の技術? 料理の種類? 材料の選択? 判断基準は多様で、それこそ議論をしても妥当な答えを得るのは難しい。
「しかし、二者択一となると話は別です」
そう、仮にレシピCやレシピDが存在していれば、このクイズは難問になってしまう。しかし今回、比較するべきレシピは二つだった。
「どちらがよりふさわしいか決めろ。それは裏を返せば、どちらがよりふさわしくないかを決めろということでもあります。つまり、帳の言う『高校生にふさわしいレシピ』というのはそれ自体がミスリード。問題の設定としては逆で、ふさわしくないレシピはどれか当てろということだったんです」
市松さんはさっき、答えを言おうとして逆のレシピAを言いそうになって訂正した。彼女はきちんとこのアプローチに沿って考えていたから、とっさに言い間違えてしまったのだ。
ここまで説明したところで、グルメサイエンス部部員の様子を見る。彼ら彼女らは、さすがに料理に長じているだけあっておおよそ理解してきたらしい。もっとも、既に答えはレシピBと知った上で、さらに僕が中藤先生への説明を恣意的に料理の材料に絞って行ったから、その段階で気づいて然るべきだが。
「でも……それは言葉遊びに過ぎないじゃないですか」
扇さんは口を尖らせる。
「言い換えても、どっちがふさわしくてふさわしくないかなんて、どのみち決め手にかけるじゃないですか」
「そうかな。案外、ひっくり返してみると決め手が見えてくるかもしれない」
「………………」
睨まれた。
「何をもってどのレシピが高校生にふさわしいか考えると分からなくなる。だけど、どういうレシピだったらふさわしくないか考えてみれば、すぐに答えは見えてくる」
「まどろっこしいな。しゃこ、レシピAとレシピBの材料を比較するんだ。猫目石が中藤先生に材料だけを説明したのはあいつが単に面倒くさがりだからじゃない。……それもあるだろうが、材料だけを比較すれば分かるからなんだ」
ここで雪垣がしゃしゃり出た。
「ヒントを出し過ぎだぞ。もう少し考えさせろよ」
「お前は面倒くさがりなのか教育熱心なのかはっきりしろ。で、しゃこ、どうだ?」
「えっと……」
二冊のレシピ本を開いて、扇さんは二つのレシピを比較した。
「切り干し大根とひじきは……料理がそもそも違うから……。じゃあ、共通するものの違いですか?」
そこで顔を上げる。
「調味料が微妙に違いますが……。もしかしてみりんですか?」
「ビンゴだ、しゃこ」
もう面倒だしこいつに説明投げようかな。
「で、でもっ。確かにレシピAはみりん、レシピBはみりん風調味料ってなってますけど、これがどう違うんですか? 代用品を使っているレシピBの方が高校生にふさわしいっていうんですか? ま、お高く留まってる夜島先輩らしいっちゃらしいですけど」
「このアウェーグラウンドでよく帳のこと馬鹿にできたな」
扇さんの度胸が怖いよ。
「帳が高級志向かどうかは別として……そこの生意気娘の考え方はおおよそ合ってる」
またぞろ鞭みたいな蹴りが空を切るかと思ったが、さすがに部外者の後輩にそんなことをしないのか千里は冷静に扇さんの疑問へ答えた。
「問題は、みりんが代用品になることで何が変化するかってことだな」
「安くなります」
扇さんはそこから離れろ。
「うーん、でも、私も安くなるくらいしか分かんないよ? 味の違いがあるっていうならお手上げだけど」
中藤先生もギブアップらしい。
「あんた本当に教師か?」
「ひどいよ千草さん! これでも教師だよ」
「いや、千里」
さすがに言い草があんまりだったのでフォローに入る。
「今回に関しては、中藤先生はむしろ分からないかもしれない」
「…………それもそうか」
「どゆこと?」
いい加減、引きのばす必要もないか。
「みりんが代用品のみりん風調味料になることで変わるもの。それは高校生に買えるかどうかです」
「やっぱり安さじゃないですか」
「扇さんはそこから離れるんだ。みりんなんてよっぽど高級品でもなければ、値段は高校生の手にも届くものだ」
「値段は? どういうことですか?」
「仮に値段が高校生にも買える程度だったとしても、みりんは高校生には買えないんだ。みりんは酒類だから」
「あっ!」
扇さんは顔をしかめた。そりゃそうだ。こんな当たり前のことに気づかないのは、ちょっと恥ずかしい。
「そっか」
一方中藤先生の反応は、扇さんのほどではなかった。いやあなたも少し恥じた方がいい。
「そういえば料理酒と同じで、お酒だったわ」
「…………まあ、中藤先生は成人ですから買うのにいちいち気にしないでしょう」
精神年齢は別として。
「なんかいった?」
「何も?」
内心を読むのはやめてほしい。
「みりんも製菓用のブランデーとかと同じで酒類ですから、当然未成年の高校生には買えません。飲酒目的で買うものではないので、ついうっかり忘れていることが多いですが」
実際、哀歌から頼まれたお使いにもみりんがあったな。僕と哀歌は当然未成年だから買えない。悲哀なら買える。まあ、わざわざみりんとみりん風調味料を厳密に区別して言うことはまずないから、僕が買う場合はみりん風調味料になると哀歌も承知しているはずだ。
「ただ、聞く話によると専業主婦がアルコール中毒になった場合、酒類を全部家から撤去したつもりが料理酒を飲んでいたのを家族に目撃される、というケースもあるそうですね」
料理酒、と銘打っているにも関わらず撤去を忘れるのだ。それくらい、一般人からすれば飲用目的外の酒類は酒類と認識されていないと言える。
だから今回も、扇さんや籠目くんはすっぱりその認識が落ちていて、答えにたどり着けなかったと。
「で、どうするんだ?」
雪垣が僕に小声で聞いた。
「どうするって?」
「決まってるだろ。勝負の行方だよ。ルールじゃ、引き分けなら籠目の勝ちだったな?」
「ああ」
「じゃあ…………」
「無粋なことを言うな、雪垣は」
こいつの場合、自分の関わった問題だから、きちんと決着を見たいという気持ちがあるのだろうが、僕からすれば答えは明白だった。
「じゃあ、籠目くんが副部長になっておしまいってわけね?」
「そうなったとさ。さっき、千里から聞いた」
数日後、不意に僕と帳の間にあの問題のことが話題に上った。その間、僕も帳もそのことを話題にしなかったのは、ただのなんとなくだ。僕たちの中であの問題は決着していたし、特に帳は引退した身だから、あえて積極的に情報を仕入れようともしなかったのだろう。
「勝負は一応、籠目くんの勝ちだったのに。彼も案外面子の分かる子ね」
「よく言うぜ」
どちらが部長にふさわしいかは明白だった。僕を巻き込みつつも自分で回答を得た市松さんと、ルール上は勝ったものの答えに自力ではたどり着けなかった籠目くん。この二人の比較なら答えは簡単だ。
「本当は、籠目くんを副部長に置くつもりだったんじゃないのか?」
考えてみれば、グルメサイエンス部の新部長については話の俎上に上っていたが、副部長はそうではなかった。なにせ万年一人弁論部だったからついうっかり忘れていたが、新副部長という役職も相応に重要なはずだ。市松さんが一人でひーこらしているのに、副部長がまるで出てこないのはおかしいと思っていたのだ。
「そうね。市松さんは優秀だけれど、押しが弱いところがあるから。一方の籠目くんは猪突猛進タイプで、思い込むと視野が狭くなる。二人をセットにすればちょうどいいと考えたの」
実際、彼にもまったく人望がないというわけではない。しかし彼自身が勝負中それを拒絶したように、彼には自分自身の力で何とかしようとしたがる節もあった。そういうあれこれを諫めつつ、サポートポジションに落とし込むための一連の勝負だったのだ。
そうだよな。帳が籠目くんの行動を予測できないとは思えないし、何かあるとは思っていたのだが。
「部長も大変だな。いろいろ、自分がいなくなった後のことも考えて」
「本当は瓦礫くんも、そうであるべきなんじゃない?」
帳はプールから上がって、僕の座っていたベンチの隣に腰かけた。
……………………そう、プールである。
夜島邸――説明するまでもなく夜島帳の自宅である――にプールがあるとは知らなかった。しかも屋内温室プールとは。が、考えてみればこれは当然のことだった。この屋敷は帳が入院治療から自宅療養メインに切り替えた時に引っ越して移り住んだもので、元は彼女の祖父母が住んでいたらしいが随所に帳のためのリフォームが見受けられる。牙城さん――帳の父は大きすぎて半分くらい吹っ飛ばないかと冗談めかして言っていたが、かつて自宅から出ることもままならなかった彼女からすれば、これだけ広い方が飽きがこなくていいというものだ。
で、プールでの水泳――水中での運動というのは体が弱っている人でも適度に行える運動の一種だ。帳が自宅療養するために引っ越したのなら、彼女が運動するのに適したプールを用意するというのは合理的だ。
まあ、元々あったものの使われず放置されていたプールをリフォームしたらしいのだが。やっぱりただの金持ちじゃないか。
「………………」
「どうしたの?」
「いや、帳、泳げたんだなって」
実は泳げると知ったのは今である。
「あら、知らなかった? わたしが湯船で泳ぐの、見てたでしょう?」
「あれはほとんど泳ぐフリだったから……。それに体育は水泳も見学だっただろ」
「だって面倒だもの」
ちらりと、帳の四肢を見る。細くて飴細工のように折れそうな体はしかし、しなやかな柔らかさを感じさせた。
帳はセパレートタイプの、薄い青色の水着を着ていた。腰にはハイビスカスの花があしらわれたパレオを巻いている。帳の体と髪、それから目が印象付けるモノトーンとは対比をなすその色合いが、どぎつく僕の視線を捕まえてしまって目を逸らすこともできなくなっていた。
「実はわたし、瓦礫くんより速く泳げるのよ?」
「本当かよ」
ちなみに僕は、高校を出てすぐここに来たので制服のままである。今日も今日とて補習があったのだ。千里からグルメサイエンス部の顛末を聞いたのは、だからその時だ。
帳はあれから補習には出ていない。もともと、補習はさぼりがちだったからな。
「勝負してみる?」
「今から…………ちょ、ちょっと待て!」
帳は突然、僕の右腕を掴んで引っ張った。そのまま僕たちは駆けていって、プールに飛び込んだ。
思わず目を閉じる。僕は水中で目を開けていられない。つまりその程度の遊泳能力しか持ち合わせていないわけだ。幸い、プールの底は浅い。飛び込んだ勢いで両足がプールの底をついたから、天地を間違えるということもない。両足で底を蹴って、伸びあがって顔を水面の上に出した。
両手で顔についた水気を払う。いい加減切った方がいいと思っていた前髪だが、こうして濡れてみるとその思いは強くなる。
目を開く。眼前に、一杯の夜空――じゃなくて、帳の目が……。
僕たちは唇同士を重ね合わせていた。
いや、いたのではなく、いくらかは僕自身の意志で、帳に口づけをしたのだ。
帳の唇が離れようとした時、それを追いかけて僕はもう一度キスをした。
いじきたなく?
いじきたなかったのは、むしろさっきまでだ。今は清々しい。
「ねえ」
お互いの顔が離れて、しばらくは茫然と顔を見合わせていた。それから帳が口を開く。
「ここしばらく、なんだか浮かない顔してたわね。何かあったの?」
「さあ」
帳の傍にいたいとは思っていた。僕が探偵になったのは、探偵の代理になったのは、それが目的だった。でも傍にいたいとは思っていても、ここまでは想像していなかった。
「想像してなかったんだ」
「何が?」
「こうなることを」
「うそ」
「嘘じゃない。自分でも不思議なんだ。そりゃ、帳の体に触れてみたいとか、いろいろ考えないわけじゃなかった。でも…………」
「ちょっと赤裸々すぎじゃない?」
「…………そうかな?」
「瓦礫くんは、親愛と友愛と性愛の区別をつけていなかったのね」
「それは違うのか?」
「ええ。大豆と小豆とレッドキドニーくらいは違う」
つまり僕には差異が分からないってことか。
するり、と、帳は僕の胸に抱き着いた。
「わたしは全部欲しい。全部が違うものと分かった上で、全部を瓦礫くんから欲しい」
あなたは?
僕は?
「今まで区別をつけてなかった人間に、聞くことじゃないな」
「じゃあ、一つずつ味わってみる?」
まずはレッドキドニーから。
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