4 簡単な問題

 千里が帳に言われて持って来たレシピ本。ひとつは赤い表紙の『基本の一品五十集』、もうひとつは青い表紙の『料理の専門書レシピ付き』というタイトルのものだった。

 市松さんと籠目くんは、並んだ六つの調理台の内、離れた二つにそれぞれ陣取って席に着く。そして二人に、問題の二冊がそれぞれ配られる。

 千里は調理実習室の中央で僕のスマホを構えた。

『では、簡単にルール説明をするわね』

 スマホからは帳の弾んだ声がする。雪垣のそれと違って、聞いていてむしろ心地の良い声だ。こちらの気分まで、こころなしか弾んでくるようで。

『ルールと言っても、もう既に趣旨は説明してしまったわ。制限時間は十分。二人には、それぞれ二つのレシピを見比べて、高校生にふさわしいと思われるものがどちらかを当ててもらう』

「部長、ちょっと待ってくださいよ」

 籠目くんはレシピを睨みながら、異議を申し立てる。

「さっき部長は、採点式の方法じゃ結局根回しの危険があるって言ってたじゃないっすか。結局このゲームも、それに近い気がしませんか? 要するにどっちのレシピがふさわしいかなんて、部長の胸先三寸でしょう?」

『そうでもないわ。二つのレシピを見比べてみれば、どちらがふさわしいかは歴然だもの。もしあなたが部長に適格ならば、だけど』

「………………そこまで言うってことは、部長、まさか最初からこうなることを見越して準備してたんですか?」

 そう言って、籠目くんは市松さんの方を見た。市松さんと帳たちが最初から結託している可能性を危惧したのだろう。

『わたしは準備していないわよ。ただ、わたしは調理準備室にあるすべてのレシピ本に目を通していて内容も覚えているから、千里がたとえどんなレシピ本を取り出しても、その中から違いが明確に出る二つを選び出すことはできる』

「まじかよ……」

 苦々しく呟いたのは雪垣だ。こいつ、帳のせいで定期試験で学年一位になれないって嘆いていたな。だが見ての通り、帳と筆記試験で勝とうとするのは、人間が短距離走でチーターに勝とうとするくらい無理のあることだ。

『でも、そうね……。籠目くんの危惧ももっともだから、こうしましょう。もし市松さんと籠目くん、二人ともが正解のレシピを当てて引き分けになった場合、籠目くんの勝ちでいい。これなら、市松さんが答えを知っていてもあなたに勝ち目はあるでしょう?』

「…………そうっすね」

 籠目くんはこの辺で折れた。まあ、もともと彼の言う暗に行われた根回しってのからして、可能性は否定できないだけのほぼ妄言だ。確かに市松さんと帳たちが結託している可能性は捨てきれないが、その疑惑が現実的でないことくらい彼も理解しているだろう。そもそもそんな結託があるなら、籠目くんの反乱はその初動さえ制されていたはずだ。

 自分で言い出した机上の空論でお互いにがんじがらめになっていたところへ、帳が明確な勝利条件を与えた。これに乗らないわけにもいかないだろう。

『最後に……。これは部長を決める戦いになる。そこで、グルメサイエンス部の総員は傍観を許されない。あなたたちは全員、ゲームに参加すること』

 ざわつきは、なかった。これも既に一度言っていることだからだ。

『挙手して立候補者に投票するのとは違う、能動的なゲームの参加。あなたたちは、部長にふさわしいと思う人の味方をすればいい。それと、瓦礫くん、紫崎くん、扇さん。あなたたちもプレイヤーとしてはカウントされている。ただし、あなたたちはあくまで外部の人間。市松さんと籠目さんに請われない限り、あなたたちは能動的に動いてはいけない』

「猫目石先輩が答えを知ってるって可能性はないんですかね」

 茶々を入れたのは扇さんだ。雪垣の制服の袖を引っ張ってやつにそう耳打ちすると、やつは鼻で笑う。

「そうか、しゃこは知らないんだったな。あいつ、一年時の家庭科の成績、一だったんだぜ?」

「い、いち…………?」

 周囲がざわつく。帳にゲーム参加を強制されたときの驚きより大きいらしい。

 そんなに驚くことか?

「五段階評価ですよね? 一が最低ですよね? まさか家庭科だけ、数字の上下が入れ替わってるとか?」

「違う。あいつは正真正銘最低クラスの成績を取ったんだよ。この名探偵様は料理が大の苦手なんだ」

 ずずずっと、僕の周囲にいたグルメサイエンス部の部員が後ろに下がった。なんで?

「お前、それマジなのか?」

 千里までもが、僕に疑いの目を向ける。その眼はわずかにいつもより鋭さが弱い気がする。

 同情されてる?

「成績については事実だ。どういうわけか、家庭科の先生は僕の料理が口に合わないらしくてね」

『瓦礫くんは…………』

 スマホから聞こえる帳の声は、ぬくもりがなかった。

『レシピの手順を何一つ間違えなくても、出来上がった料理がミミズの餌にもならないという悲劇的な人なの』

「僕は食べられるからいいんだよ! というかそれ、ミミズに失礼だろ」

『もう自分の料理がまずいのは認めるのね』

 雪垣は呆れたように肩をすくめて、少し離れたところにいた籠目くんに言葉を投げる。

「籠目。これでわかるだろう? 仮に夜島が何らかの策を仕掛けるとしても、料理の絡むこのゲームにだけは猫目石を使うはずがないんだ。なにせこいつ、醤油とソースが別の調味料だってことを知ったのが高校一年生の時だぞ」

「うっそだろお前!?」

 籠目くんが立ち上がる。いや「お前」って。驚きのあまり敬語が吹っ飛んでるじゃないか。

「いや、ほら、その勘違いはあり得るだろう? だって醤油はソイソースとも言うじゃないか。ソースの一種ってことは、大豆も小豆もひよこ豆もレッドキドニーも豆類の一種なのと同じ様に、醤油もソースも同じソースなんだよ。大した違いじゃない」

「いやだいぶ違いますが。いやちょっと待て大豆と小豆も大した違いがないって思ってなかったかこの人」

「…………? そりゃ同じ豆なんだから同じようなものだろう?」

「なんでレッドキドニーは知ってるのに、食材に対するくくりがそんな雑なんすか?」

 雑だろうか。しかし、小さい魚は一緒くたにみんな『じゃこ』と呼んで釜茹でしてパック詰めするじゃないか。

 同じことじゃないのか?

『じゃあもういいかしら』

 閑話休題。いよいよ、帳からゲーム開始の合図が出される。

『これからレシピを発表するわ。ただしまだ、レシピ本は開かないこと。二つのレシピは便宜上レシピAとレシピBと呼ぶことにする。レシピAは「基本の一品五十集」の75頁、レシピBは「料理の専門書レシピ付き」の154頁を参照すること』

 千里が黒板の前に出て、チョークでそれぞれの該当ページを書いた。

『今、わたしの持っている時計で九時五十七分。では、十時ちょうどになったらわたしが合図をするから、それから十分間で答えを出してね』

 皆が一様に、スマホや腕時計で時間を確認した。僕も右腕の腕時計を確認しようとして、壊れているのを思い出してすぐに腕を下げた。

 三分は長い。帳はキリの良いタイミングを計ったつもりだったのだろうけど、待っているこっちは手持無沙汰になる。なにせカップ麺ができるくらいの時間だから長いに決まっている。

 そういえばカップ麺作る時、哀歌と悲哀がいると僕はカップ麺に手を触れさせてももらえないんだよな。ひょっとして僕、カップ麺も作れてなかったんじゃ――。

『はじめ』

 馬鹿なことを考えている間に、勝負は始まった。ばらばらとレシピ本がめくられる音がする。籠目くんは、二冊のレシピ本を開いて手で押さえて、交互に比較していた。

 一方の市松さんは………………。

「猫目石先輩っ!」

「うわ」

 僕の前に来ていた。

「…………どうした?」

「手伝ってください」

「今までの話聞いてたか?」

「はい。先輩もプレイヤーとしてカウントされているなら、協力を仰ぐのは全然OKです」

 そこじゃない。

「君はこの不肖家庭科の成績最低クズ男の手を借りると? 猫の手でも借りた方がまだマシなんじゃないか?」

「ふてくされないでくださいよ。わたしは猫ならぬ猫目石先輩の手を借りたいんですよ」

 ふてくされてはいないが、まあいい。

「でも実際、僕が力になれる保証はないんだぞ? しかも僕は自分の料理スキルの深刻な欠陥に自覚無しときている。僕が君の立場だったら一億を積まれても協力を頼まないぞ?」

「でも先輩、考えてみてくださいよ。夜島部長は先輩をプレイヤーに入れました。部外者である以上、いくらでも理屈をこねて排除できる先輩を、ですよ? これは遠回しに、先輩を頼れという夜島部長のアドバイスと考えました」

「そんなものかな」

「もし猫目石先輩が頼りない人だったら、夜島部長はプレイヤーにはしないんです。だって、猫目石先輩をプレイヤーから排除する理屈はそのまま、相談役さんたちを排除する理屈にもなるじゃないですか。つまりそれって、わたしが間違って頼ったらいけない人と、籠目くんが頼って戦力強化できてしまう人を同時に排除できるってことですよ? 夜島部長が猫目石先輩を使えないって判断したら、そうやって相談役さん諸共ゲームから除外しているはずです」

「慧眼だな」

 帳ならそうする。市松さんの帳に対する認識はかなり正確だった。この辺も、帳が彼女を部長に推す理由のひとつかもしれない。

「分かった。ただし、もし僕と君の回答が別々のレシピを指したなら、君の答えを優先させる。それでいいね?」

「はい。じゃあ時間もないですし、さっそく見ましょう」

 部外者だった僕が加わったことで、盤面はわずかながら動いた。傍観者であることは許されないと言われつつも、やはりどうにも動きにくかった部員たちが動き出した。と言っても、市松さんと籠目くんの傍に幾人かが寄っただけで、他はぽつねんと突っ立っているだけだった。まあ、人数がそのまま有利になるものでもないし、むしろ邪魔になるかもしれないという不安もあるだろう。

 …………籠目くんの傍に寄った部員も、決して少なくはない。ふむ、実際、僕は籠目くんについてはほとんど何も知らないけれど、別に部長は市松さんでなくともいいのではないかという疑念は残った。

「いい、俺一人で考える」

 しかし、籠目くんは応援の生徒をやんわり拒絶した。それだから、相談役さんたち――雪垣と扇さんも動けない。思い出せば、彼が雪垣たちに頼もうとしたのはあくまで仲立ちだったな。あくまで欲しかったのは中立の第三者で、部長職をもぎ取るための戦力ではない、か。

「さて、問題のレシピは…………」

「これです」

 一冊のレシピを市松さんは開く。もう一冊は、後ろから伸びてきた手が取り上げて、ペラペラとめくって並べた。振り返ると、女子部員が手を引っ込めて、一歩下がった位置でこちらをこわごわと見ていた。

「…………ありがとう」

 一応お礼を言ってみると、すっと人ごみに消えていった。妖精か何かか。

「レシピAがひじきの煮物で…………レシピBが切り干し大根の煮物か」

「どっちも和食ですね」

 なんて微妙なチョイスなんだ。和食で統一したのは、注目すべき比較対象は和洋中の別ではないがゆえのノイズの排除のためだろうけど……。和食なら肉じゃがとか、煮つけとか、他のレシピもあっただろうに。

 気になるレシピの材料は以下の通り。


レシピA(ひじきの煮物)

ひじき15グラム

鶏むね肉60グラム

油揚げ1枚

ニンジン10グラム

絹さや7枚

サラダ油大さじ1

みりん大さじ2分の1

醤油・砂糖各大さじ1と2分の1

だし汁100㏄


レシピB(切り干し大根の煮物)

切り干し大根30グラム

干ししいたけ2個

ニンジン50グラム

油揚げ2分の1枚

だし汁300㏄

みりん風調味料・砂糖各大さじ1

醤油大さじ1と2分の1

サラダ油小さじ2


 僕は煮物の作り方なんて一つも知らないから、これが一般的なものなのかは分からなかった。材料はどちらも二人前だし、こんなものかな…………?

 いや。

 作り方を見なくても、この材料だけを見れば。

 なるほど、十分という制限時間は少し短いんじゃないかと思っていたが、適切な設定だったわけだ。これは、思いつく人が見れば十分どころか十秒かからず答えにたどり着く問題だ。だが、思いつかなければ泥沼にも陥り易い。

 制限時間だけではなく、ゲームの参加者に市松さんと籠目くん以外を巻き込んだのもそれが理由なのだろう。

 こんな問題、小学生のおつかいより簡単じゃないか。

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