3 ふさわしいレシピ
上等高校の校舎は、まあ複雑な部分の詳述を避ければロの字型になっていると考えていい。昇降口が下側で、僕たちのいた教室は右下の角にあたる。ちなみに、他の教室は右上にあたる部分だ。どうしてこう離れているのかといえば、特別進学クラスゆえに他の教室と離して静謐な環境を確保しようという学校側の涙ぐましい、そして功を奏していない努力の結果なのだ。
それはともかく、問題のグルメサイエンス部の部室は調理実習室と、その隣の準備室にあたる。ロの字でいえば左下だ。ここにはちょうど職員室の他、芸術系科目で使われる特別教室が密集している。日が当たらず涼しい廊下を歩いて行くと突き当り正面に見えてくる扉が調理実習室のもので、扉の上にはきちんと教室の名前が書かれたプレートが貼り出されていた。
いくら帳が部長を務めているといっても、調理実習室に入ったことはそうなかった。一年時の調理実習を終えた今となっては、半年に三度入れば多い方だろう。シンクと二口コンロがついた調理台が六つ、サイコロの目のように並んだ教室は何度入っても物珍しさを覚えてしまう。
調理実習室に向かったのは僕と千里、それから雪垣の三人だ。扇さんは問題の男子生徒――つまり依頼人を連れてくるためにメディア情報部の部室へ一度帰っていった。
「あ、副部長、猫目石先輩」
さて、不幸な面倒ごとに巻き込まれた新部長の市松格子さんは、おかっぱ頭の物静かな感じの女子生徒だ。ガラスケースに入って夜な夜な動いていれば、呪いの人形のフリをするのに困らないだろう。
「ああ、じゃあ新部長は君か」
「はい」
市松さんの後ろでは、幾人かの生徒がこちらを見ては何やらこそこそと話していた。
「そうだ、紹介するね」
くるりと市松さんは振り返って、僕の背中を軽く押した。
「弁論部の猫目石瓦礫先輩。夜島部長と千草副部長のクラスメイトで、部長の彼氏さん」
「…………………………」
今となっては否定できないのがもどかしいところだ。
ここで千里と雪垣なら、僕の不審な口ごもり方に何か違和感を持ってもおかしくなかったが、幸い彼らは彼らで取り込み中だった。事情を知っている二年生は千里と雪垣に、事の成り行きを説明しているらしい。つまり市松さんが僕を紹介したのは一年生たちだ。
で、その一年生たちの反応は………………。
「ねこ、めいし…………? 本名?」
だった。失礼な。
「ね、猫目石って……。確かタロット館の……」
おっと、こっちは鋭すぎる。
「市松さん。どうしてまた今日は朝から集まってたのかな?」
気になっていた疑問を無理にぶつけた。
「どうしてと言われましても。普通に部活だったんです」
「ああ」
そうか、特別進学クラス以外はこの時期に補習をしていないのか。僕の疑問がクラスごとのカリキュラムの差からきていることに気づいたらしく、市松さんはさらに補足する。
「特進クラスの人たちは、午後から合流する予定だったんです。文化祭も近いので、そこで売るカレーパンの試作です。とりあえず今日は、去年のレシピに沿って作って、調理の練習と改善点の洗い出しを」
真面目だな。その上順序立っている。部長に推されるわけだ。
「なるほど、じゃあ例の――――」
例の問題のために集まっていたってわけでもないのか、と言おうとしたところで、鞭が叩きつけられるような音が調理実習室に響いた。調理実習室にいた総員の視線が音の方向に注がれる。そこでは千里がスカートを軽くはためかせて、足を振り抜いたところだった。
千里は誰かを蹴ったわけではないらしい。彼女の近くにいた雪垣と扇さんは硬直している。千里の正面には、眼鏡を掛けた長身の男子生徒が立っていた。
ていうか、人間の蹴りって空を切ったのにあんな音がするものだったっけ?
グルメサイエンス部の飴と鞭ってそういうことかよ。
「てめぇ、それ以上ふざけたこと言ったら首から上、泣き別れさせるぞ」
「…………俺は何も、ふざけたことは言ってないですよ、副部長」
強烈な鞭で脅された男子生徒は、意外なことにまるで臆していない。ふむ、どうやら、僕と市松さんが話し込んでいる間に、扇さんが問題の生徒を連れてきていたらしい。
「ふざけてないだと? お前笑えない冗談がうまくなったな」
千里も引く気はなさそうだ。間に入っておろおろしている扇さんが可哀そうだったので、僕と市松さんは近づいた。
「お前がクソ下らねえことしてるってのは分かってんだろ。部長の選任に不満があるだと? だったら部内会議の時にお前が立候補すりゃよかったんだ」
「会議の前に、もう新部長は市松で決まりって空気だったでしょう。あの状態で立候補なんてできませんよ」
「よく言うぜお前。このタイミングでお前が『相談役』なんて呼ばれて胸張ってるバカに取り入ったのは、オレと帳が補習でいないからだろ。あわよくば午前中に話を決めちまって、オレと帳が部活に来た頃には満場一致で自分が部長ってやりたかっただろ?」
「違いますよ。考えてみてください、副部長たちが補習でいないってことは、クラスメイトの相談役さんも補習ってことでしょう? 自分でも笑える話ですけど、俺は計画なしに相談役さんのところに行ったもんだから、そのことを忘れてたんですよ」
「このバカは相談役っておだてればブラジルまでならノコノコ行くぞ」
このセリフは千里ではなく僕が言ったのである。雪垣は千里の罵倒を棚に上げて、こちらにだけにらみを利かせた。
「お前も似たようなものだろ」
「紙一重でな。その差は大きいぞ」
「………………あんた誰です?」
眼鏡の男子生徒は不審そうにこっちを見た。彼は市松さんの紹介を聞いていなかったらしい。
「猫目石瓦礫。君は?」
「…………籠目六星っす。猫目石先輩って、ひょっとして部長がよく言ってた弁論部の?」
「…………よく言われてたのか」
それは初耳だったぞ。いや、今はどうでもいい。
「つまり――――」
雪垣が割って入る。
「籠目は部長になりたかったわけだ。しかし千草たちは市松を部長に推していた。それで新部長が決まるまで、要するに千草たちの勢力が弱まるまで声を出せなかったと」
まあ、そういうまとめ方もできる。ふむ、面倒だな。帳はともかく千里は、雪垣の心証がよくない。『相談役』だとか言って一見中立を装っているが、その悪印象が問題解決をある一方向へ傾けようとしているのは間違いない。
「………………ちっ」
露骨に千里は舌打ちをした。たぶん、状況が思わしくないのを理解しているのだろう。市松さんは、そんな千里を見ているだけだった。
「籠目の言い分にも一理があるんじゃないか。千草、どうせお前、俺にやってるみたいに暴力的に支配したりとかしてたんじゃないのか?」
「やってもよかったんだぞ? 本当にやってたら、さっき籠目のクソを蹴っ飛ばしてたがな」
ふむ。
本来であればグルメサイエンス部が独自で解決するべき問題だ。しかし、こうして部外者の雪垣がいっちょがみをしてきた以上、ここはフォローをするべきだ。
誰が?
「まあちょっと待て。僕は千里の言い分に理があると思うぞ」
我ながら、千里の言う通り、タロット館以降僕は少し変わったのかもしれない。
「だが、ここで重要な人間の意見を聞いてないのを忘れていないか?」
「…………夜島か」
雪垣が呟く。
「そ、そうです。そういえば夜島部長は?」
市松さんも今になって思い出したらしい。彼女はまだ、帳も千里も部長、副部長と呼ぶのだな。この辺、まだ正式に部長職が引き継がれていないらしいグルメサイエンス部の実情が見え隠れする。だからこそ籠目くんが反旗を翻したりするのだが。
「市松さん、帳は体調不良なんだよ」
「ぶ、部長が? 珍しいですね」
と、市松さんはやはり「珍しい」と思うタイプか。千里の言う通り、昔の帳を知る僕と現在の帳しか知らない彼女たちの間では認識に齟齬があるらしい。どちらかというと、現実に過去の印象を是正できていないのは僕の方か。
「でも、この21世紀にまさかこの場にいないから帳の話が聞けないってことはないからな」
「もったいぶんなよ。電話するってことだろ」
「黙れ雪垣」
僕は一旦、調理実習室を出た。普段は通学鞄にねじ込んでいるスマホを、それゆえに教室に忘れたというわけではない。単に電話をするために、一旦退出しただけだ。グルメサイエンス部で問題が発生しているという現状で、その現場に帳との連絡手段を欠いたまま突っ込むバカはいない。
スマホの画面を点灯させた時、時刻表示が目に飛び込んでくる。9時3分。もう補習は始まっている。せっかく面倒に思う邪心を払ってここまで来たのに、結局欠席か。
帳に電話をかける。三コールもしない内に帳は出た。
『もしもし、瓦礫くん?』
「起こしたか?」
『ううん。さっきからわたしも起きていたところ。体の方も少し寝たらよくなった』
「そうか。それで悪いんだけど、今グルメサイエンス部で問題が起きてるんだ」
『やっぱり』
「やっぱり?」
『…………いえ、今はいいの。たぶん、籠目くんでしょう?』
「そうなんだ。彼が部長職を希望しているわけだ。僕は詳しく知らないけど、部内会議では特にそういう意思表示がなかったんだろう?」
『ええ。でも、狙っていたのは分かっていた』
「ふうん。まあ、お前が言うならそうなんだろうな。しかし彼も回りくどいことしてるな。どうしてそこまでして部長をしたいんだか。別にうちの高校、部長をしたからって大学推薦に箔がつくようなことないだろ?」
『肩書にこだわる人間って、けっこういるものよ』
「それもそうか」
僕がまっさきに思い出したのは雪垣だった。
『瓦礫くんは今どこにいるの?』
「調理実習室前。お前に電話するって言って中座しているんだ」
『じゃあ、わたしに考えがあるから、そのままスマホをスピーカーモードにしてみんなの前に出してちょうだい』
「了解」
言われた通り、調理実習室に戻る。
「どうだった?」
雪垣が聞いてくる。十秒後に分かることに言葉を費やすほど、僕は浪費家じゃない。無視してスマホをスピーカーモードにして、机のひとつに置いた。
「いいぞ」
『言われなくても、勝手に始めさせてもらうわ』
「ぶ、部長!」
「………………うわっ」
声が聞こえた途端、二人の女子生徒が対照的な反応を示した。前者は市松さんで、スマホにかじりつくようにしがみついた。一方、後者は扇さんで、何の罪もないスマホを嫌いな食べ物を見るような目で睨んだ。
「すみません部長、こんなことになっちゃって」
『市松さん、大丈夫。こうなることはおおよそ予測がついていたから』
「へ?」
『ちょっと意地悪してごめんなさい。でも、部長になったからにはこういうことも起こると覚えておいてね。今回はその予行練習』
帳が部内の不穏分子を把握していないとは思っていなかったが……。最初から市松さんに「予行練習」させるために放っておいたな?
「ほんとに趣味が悪いぜ帳」
『あら千里。あなたにはあまり出しゃばらないように言っておいたのだけど?』
「無理言うな。紫崎の馬鹿が動くのはお前も計算外だろ?」
『……紫崎君もいたの?』
雪垣と扇さんの二人が僕を睨む。僕が帳に説明していなかったのを非難しているらしいが、それは筋違いだ。
『そうね。それは確かに計算外だったわ』
「紫崎先輩は相談役なんですから、問題があれば動くのは当然ですっ!」
扇さんが気炎を上げる。
『で、今回の首魁はちゃんといるの?』
それを帳は鮮やかに等閑して、ことを本題に運ぶ。
「まるで俺が悪役ですね」
首魁――籠目くんは一歩前に出てスマホに近づいた。
『実際それに近いことを言うつもりで言っている』
「で? お説教ならいりませんよ。こっちにはきちんと、部長に立候補する権利がある。部長たちは暗にそれを潰してたんだ。俺の行動に文句言える立場じゃないでしょ」
今回の問題を考える時、厄介なのがそれだ。今もこうして、引退しているにも関わらず帳や千里が出しゃばっているように、彼女たち二人の、部活への影響力は強すぎる。だてに『飴と鞭』なんて呼ばれてはいないのだ。雪垣の『相談役』と同じ様に、実際の活動はともかく、そう呼ばれるにはそれなりの存在感が前提となる。二人の存在感は、籠目くんに一定の理を与えるだけのものではあるのだ。
暗に、というのも面倒だ。それは空気や雰囲気の言い換えであり、グルメサイエンス部内にいる人間でさえ感覚的にしか理解できないものだ。しかし、この感覚的なものが明文化されたルールより重視されるのが学校という場の、最も特異な性質である。
そしてその雰囲気を、帳も千里も支配しうるだけのキャラクターだ。何も雪垣は、千里憎さだけに籠目くんの肩を持ったわけじゃない。
『そうね。あなたの立候補タイミングがいかにもというのは置いても、確かにあなたには部長に立候補する権利がある』
「だったら――」
『でも、じゃあどうやって部長を決めるの? 市松さんの時は多数決だったけれど、つまりあなたはその結果さえわたしたちが暗に根回しした結果だと言っているのよ? ならばわたしたちも同じことを言う。今、多数決を取って、仮にあなたが勝利しても、それはあなたが暗に根回ししたのだと』
「…………………………っ!」
籠目くんは眼を見開く。
『市松さんが部長になった結果を暗に行われた根回しに求めるならば、あなたにも同じ疑いがかかる。それなのに、あなたに有利な結果が出た時だけその疑いを閑却するのは許されないでしょう?』
「だったら、どうやって決めるんだよ」
『もっと単純にしましょう。市松さんと籠目くんの一騎打ち。誰の目に見ても明白な優劣があなたたちの間で生まれれば、誰も文句は言わないでしょう?』
「え、ちょ、ちょっと待ってください」
市松さんが慌てた。そうなるよな、予行練習とか言われてたのにぶっつけ本番が迫ってきたら。
「りょ、料理対決ですか? わたし、自信無いですよ」
『安心して。もちろんグルメサイエンス部の部長を決める以上、料理が絡んだ勝負にはなるけれど、料理対決をしようというのではないの。だって、とどのつまり採点式の勝負では根回しの疑いを払拭できないじゃない。わたしが提案するのは、もっと明確なゲーム』
「ゲ、ゲーム?」
『千里、準備室からレシピ本を二種類、二冊ずつ持ってきて』
「オレ?」
千里は頭を掻いた。
「なんでオレなんだよ?」
『元部長のわたしがゲームの提案者で、副部長のあなたがレフェリー。今、この調理実習室にいる生徒全員がゲームの参加者だからよ』
「そのゲームでどっちが部長か決めるんだろ? だったらオレはプレイヤーの方がいい。レフェリーなんて紫崎の馬鹿に任せとけよ」
『千里。わたしもあなたも、少し過干渉なところがあるのは間違いないわ。それは籠目くんが正しい。だからあなたはゲームから外れるべきよ』
「…………へいへい」
千里はしぶしぶという足取りで、準備室に入っていった。
「で、帳。ゲームって一体なんだ?」
『とっても明確、とっても簡単』
「もったいぶるなよ。ていうか楽しんでないか?」
『とっても』
クスクスと帳は笑う。口元に手を当てて、唇は少しだけ緩めて穏やかに。今この場にいない帳の動作を幻視する。
『今から市松さんと籠目くんには二つのレシピを見比べてもらう。そして、その中から高校生にふさわしいレシピを見極めてもらう』
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