2 部長たちの憂鬱
結論から言えば、学校には余裕で間に合った。何なら着替えた後、帳と朝食を食べて一服するだけの時間はあった。しかしそれをしなかったのは、単に帳に「もう行くから」と言ってしまって、その前言を翻すのが恥ずかしかったからではない、のだろう。
そうなのだろうか?
かといって自宅にも帰りづらくて、適当にコンビニで朝食を買って、僕の通う上等高校を目指した。しかし上等高校に着いたのは7時ごろ(腕時計こそ壊れていたが、僕はスマホを当たり前のように持っている)で、まだ正門は閉まっていた。仕方ないので、僕は近くの土手に座りながら朝食を食べていた。上等高校の傍には大きい河が流れているのだ。
電車が橋を通るたび、ガタゴトと音を立てる。朝早くから犬を散歩させる老人も見かけた。真夏とはいえ朝はまだ涼しい方で、直射日光がやや厳しいものの、外にいて不快感が強いということはなかった。
買った菓子パン二つを口に放り込んでしまって、アイスコーヒーも流し込んでしまうと途端にやることが無くなる。ぼうっと河を眺めていると、通学鞄に入れていたスマホが鳴り響く。何事かと思って取り上げると、電話が掛かってきていたのだ。
画面には『木野哀歌』と表示されている。
「…………………………………………もしもし」
よっぽど切ってしまおうかと考えたが、さすがにそれはまずいと思って出た。
『兄さんですか』
「僕のスマホを取る人間は僕しかいないと思うんだけど」
『醤油とみりんがなくなりそうです。銘柄はいつものです。帰りに買ってきてください』
「それ、今言うか? 後でメールしといてくれよ」
『朝食を作ろうと思ったら残量が厳しかったので、つい電話しました。寝起きを叩き起こすつもりでしたが、その様子だともう起きているどころか家を出ていますか?』
「ああ。……今日の料理当番は哀歌だったか。分かった。忘れないよう買っておく。そういえば昨日はどうだった? 牙城さんもそっちにいたんだろ?」
『その質問はちょうどわたしが兄さんにしようと思っていたのですが、まあいいでしょう。わたしの質問は引っ込めます。そうですね、お母さまも牙城おじさんも酔いつぶれて寝ています。今二人をキッチンに引っ張り出してガスの元栓を緩めれば簡単に殺せます』
「なんでお前は今日、そんなに物騒なんだ……」
というか酒に弱いらしい牙城さんはともかく、あいつも潰れてるのか。珍しいな。
「ひょっとして昨日か今日、お前の誕生日なのを忘れていたとかじゃないよな?」
『わたしの誕生日ははるか先です。ああ、いえ…………別に兄さんが悪いわけではないんです。ここ最近、気分の上昇と下降が急激なだけで』
「そうか。じゃあ切るぞ」
『ええ、どうぞご自由に』
「切りづらいんだけど」
電話を切って、スマホを再び鞄に仕舞った。しかし……彼女の不機嫌の理由に誕生日を持ち出すくらいには、心当たりのないのは確かだった。まあ、実際彼女自身の言う通り外部的な原因ではないちょっとしたイライラなのかもしれないが…………。
ともかく、朝食を食べて電話をしたら、ちょうどいい頃合いになった。そろそろ学校に行っても開いているだろうと考えて立ち上がる。
「そんなとこで何してんだ、瓦礫」
ちょうど立ち上がった時、頭上から僕を呼び掛ける声が聞こえた。振り返ると、土手の上で一人の女子生徒が通学鞄を肩にかけてこっちを見ていた。
「千里か」
僕も鞄を拾い上げて、土手の上にのぼる。千里――
「瓦礫、お前、朝から変なところにいるな。ていうかひでえ顔してるぞ」
「いつも通りじゃないか?」
「口元が緩んでるくせに、戦力外通告された野球選手みてえな目だぞ」
「いまいち僕の顔の現状がそれだと分からないんだけど」
「下は大火事上は洪水って顔だ」
もっと分からなくなった。
土手の上を並んで歩き、僕と千里は学校を目指した。千里は三年生から同じクラスになったが、小学校時分からの付き合い、らしい。らしいというのは、僕が薄情なせいばかりでもないだろうけど、小学生の頃に彼女がいたかどうかを覚えていないからだ。聞く話によると、小学三年生くらいの頃に病気で入院し、その後転校しているらしいから彼女曰く「忘れていてもおかしくない」とのこと。
千里に関しては、僕より帳の方が付き合いが長い。中学時代も二人は一時期同じ学校に通っていたし、上等高校に進学してから同じ部活に所属している。
「そういや、そろそろ引き継ぎの時期だな」
唐突に、千里は言った。
「引継ぎ?」
「部活だよ。分かってんだろ」
「ああ、そうか」
三年生の夏と言えば、もう三年生は部活を引退する時期だ。
「今の今まで考えてなかったな。僕の部活は大して活動してないし、部員も僕一人だから引継ぎの心配もない」
「来年に廃部確定なのを『引継ぎの心配なし』ってすんのはおかしかないか?」
「でも実際、部員がいないんじゃどうしようもないからな。千里の方はどうだ?」
彼女と帳はグルメサイエンス部に所属している。帳は部長、千里は副部長で、どういう語源があるのか知らないが『グルメサイエンス部の飴と鞭』なんて二人は呼ばれているらしい。
ちなみに、グルメサイエンス部なんて変な横文字を使っているが、要するに料理研究部だ。上等高校が私立だからなのか、こういう変な横文字を使った部活は多い。僕がいる弁論部なんて、それらに比べればまあ普通だし、やっていることもはっきりしているのにどうして人が来ないのか。
「うちはいろいろ面倒だな。はっ、確かに部員のいないお前の部活に比べれば心配事は多いさ」
「面倒ねえ。何かあったのか?」
「………………?」
千里は僕を見た。その眼は鋭いが、たぶんこれは生来のものでなく、僕をいぶかしんでいるんだろう。
「どうかしたのか?」
「いや、瓦礫が首を突っ込もうとしてるのが珍しいって思っただけだ」
「首を突っ込もうってわけじゃない」
「そうか? お前、普通なら突っ込んで詳しく話を聞こうなんてキャラじゃねえだろ。こういう時、適当に話を流すのがお前だ」
と、千里は決めつける。
「僕だって話を繋ぐ努力はするさ」
「どうだか。うちが帳もいるグルサイだからってだけじゃねえだろ。お前、ここしばらく様子がおかしいんだよ」
「おかしい?」
ドキリとした。昨晩のことを思い出したからだ。しかし、千里は「昨日から」ではなく「ここしばらく」と言った。昨日のことは関係ないだろうと気づいて安堵する。
「タロット館からか? お前が何となく人づきあいのいいやつになってる気がするんだが、気のせいか?」
タロット館。ああ、なるほど、そう言われれば心当たりがないわけでもない。もっとも、だからと言って千里に指摘されるほど大幅に僕のパーソナリティが変調したとは考えにくいが。
「それじゃまるで、今までの僕が人づきあいの悪いやつみたいじゃないか」
「違うな。うーん、違うんだ」
彼女は一人で勝手に悩んで、ズンズン歩いて行く。女性にしては高身長の千里が、何も考えず大股で一歩を踏み出し歩いて行くと僕ではついていくのに苦労する。
「オレが思うに」
千里は自分のことをオレと言う。それが彼女自身しっくりくると思っているのだろうし、実際聞いている僕もそれが一番千里に合っていると感じた。こいつは「わたし」と呼称するタイプじゃない。
「なんだろうな。人づきあいが良くなったってのも一面的なもんだ。そうだ、お前と帳を見てると、夏休みに入る前と違う気がするんだ。で、お前の思考のリソースは八割が帳に割かれてるだろ?」
「自明のことのように言うなよ。さすがの僕も八割は割いてないぞ」
せいぜい六割だ。
「お前と帳の関係性が変わったから、お前が変わったんだ。そうだな。たぶんそうだ。どう変わったかまでは知らねえけど、お前が変わるとしたらそれは帳との関係の中でしかありえないんだ」
「まるで僕が恋でしか成長できない乙女みたいじゃないか」
「乙女だって恋以外の要素で成長すんのに、お前は恋でしか成長できないって言ってんだよ」
僕はいつから恋愛至上主義者だったのだ。
「あのなあ…………」
反論しようと口を開いたところで、僕と千里は土手を降りて学校の裏門に通じる階段で見覚えのある男の後姿を見つける。制服の錆御納戸色のスラックスと白いポロシャツを着て、階段に腰かけている。背中は丸められていて、どうも手元の何かを見ているらしい。
千里は階段を下りていく。どうするのかと見ていると、そいつの背中を思いっきり蹴飛ばした。
「ぐぇ!」
蹴っ飛ばされた男は、階段を転がり落ちていく。まあ、落ちると言ってもそいつが腰かけていたのは階段の下から二段目くらいのところだったから、転がるというよりぼてっという感じだったが。
「何すんだ!」
立ち上がった男が振り返り、大声を上げる。そいつは同じクラスの、そして千里と同様に小学校からの知り合いである
「通行の邪魔だ。どけ」
「俺が座ってたのは階段の隅だ! 避けて歩けばいいだろ!」
「はっ。なんでオレがお前を避けなきゃなんねえんだ。オレはこの道を歩くと決めた。瞬間お前が邪魔になったんだ」
言うなり、千里は雪垣の右足を踏み潰した。もう一度雪垣はカエルが潰れたような音を出してその場にうずくまる。千里は我関せず先に歩いて行った。
一見して恐ろしい光景だが、三年生になってから、つまり千里と雪垣が同じクラスになってからは日常茶飯事だった。僕と雪垣のクラスはいわゆる特別進学クラスでクラス替えが存在しないのだが、たまに千里のように別クラスから入ってくることがある。それが不幸の元というわけだ。
「あいつ、なんて育ち方したらああなるんだ……。おい猫目石!」
僕も我関せず横を通り過ぎていくつもりだったのだが、さすがに僕が捕まった。
「監督不行き届きだぞ!」
「僕に監督の義務はないな」
「夜島の監督責任ならお前の監督責任も同じだろう」
なんだその超理論。
「帳にも千里の監督責任はないよ。嫌ならお前がクラス変えればいいだろ」
「なんで後から入って来たやつのために俺が変わるんだよ」
ところが実は、僕の方はさほど超理論でもないのだ。千里は一年時こそ別クラスだったが、二年に進級する際、一度僕たちのクラスに加わることを打診されている。それほどには勉強のできる彼女が、しかし二年時も僕たちと別クラスだったのは、理由を聞くと雪垣に原因があるという。
「オレ、あいつに恨みあるんだよ」
とは彼女の言だ。ちなみに僕も雪垣のことは嫌いで、その共通項が僕と千里を繋いでいるとも言える。
「くそ。なんなんだあいつは」
ぶつくさと呟きながら雪垣は、僕の隣をついてくる。まあ、目的地が同じ教室だからやむをえない。
「そういえばお前、部活の方はどうだ? 引継ぎがあるんだろ?」
このまま千里の恨み言を話されても反応に困ったので、仕方なく話題を切り替えた。…………なるほど千里の言い分にも一考の余地はある。今までの僕ならば、確かに無視して通り過ぎているはずだ。
「はあ……部活?」
唐突に話が切り替わったのを雪垣は不審に思ったようだが、すぐその話題へ舵を切った。
「うちは実行委員会と一緒くたみたいなものだからな」
雪垣はメディア情報部の部長である。またぞろ変な名前の部活が出てきたが、今回は名前と活動がまるで一致しないという意味で正しく「変」なのだ。別にこいつはメディアや情報を扱うわけではない。雪垣自身が言ったように、実行委員会――すなわち学校行事を運営する委員会の隠れ蓑なのだ。
と、いうのも、我が上等高校は一年時に部活動への所属と参加が強制されている。まあ要するに「我が校の生徒は勉強も課外活動もがんばっています」というアピールのためだが、この制約がメディア情報部という奇妙な存在を作り上げている。当然、行事運営に携われば他の部活動などしている暇はない。しかし二年生以上はともかく一年生は部活に所属しなければならない。そこでメディア情報部に籍だけを置くというわけだ。
こいつ自身は実行委員会にあまり深入りはしておらず、ゆえに現在の実行委員長とメディア情報部部長(つまり雪垣)は別人らしいが……来年以降は兼任ということも十分あり得る。こいつもまた、僕とは違った意味で引継ぎの心配がないやつだ。
「お前こそどうなんだ」
雪垣はこちらに水を向ける。どうなんだと言われても、既に千里に答えている以上もう一度こいつに話すのも面倒で、だから黙ってしまおうと思った。それが本来の、タロット館以前の僕らしいはずだし。
「夏休みが終わったら、さぞかしお前の部活は繁盛するだろうな」
しかし、雪垣は僕の言葉を待たず次を繋いだ。しかも意味を取りかねる言葉だった。
「何言ってんだ。夏休みが明けたからって、弁論部の需要が突然増すわけじゃあるまいに」
「正確には、もう増してるんだよ。休み明けってのは単に、お前目当てのやつが部室に押し寄せて来るタイミングがそこだろうって話だ」
「……………………何言ってんだ?」
いよいよ話がかみ合わなくなる。前開きのジッパーがかみ合っていないのに無理やり引き上げたような感覚だ。雪垣もそれに気づいたのか補足する。
「何だお前、新聞見てないのか」
「うちに資源ごみを増やす趣味はなくてね」
「ネットニュースにも載ってたぞ?」
「うちに粗大ごみを置く趣味もなくてね」
「絶対適当に言ってるだろ。タロット館の話だよ。相変わらず名探偵様だことで」
「ああ」
ようやく合点がいった。
数奇な殺人事件をわざわざ『獄門島殺人事件』とか『八つ墓村殺人事件』と横溝正史が銘打たなかったように、奇怪な事件の舞台はその舞台名を言えばそのまま事件をも呼称する(まあ本陣殺人事件とか迷路荘の惨劇とかあるけど)。だから千里や雪垣がタロット館と言った時、それは七月末から八月上旬に僕が巻き込まれた『タロット館殺人事件』のことを指している。
愛知県沖に浮かぶ朝山家所有の孤島架空島。そこに建つヘンテコな別荘タロット館での殺人事件。名探偵の死から始まる一連の殺人事件は、僕史上でも二、三を争う奇々怪々なものだった。ただこうして五体満足で帰ってきている以上、それだけの事件だったということだ。
しかし…………。
「お前のその言い方だと、新聞記事に僕の名前が載っているのか?」
「そりゃな。あの『一人警視庁』とか呼ばれた名探偵の宇津木博士が死んで、その事件を代わりにお前が解決したら話題にもなるだろ」
「話題になるならないはさほど重要じゃないと思うんだけど……」
これで僕の名前が事件に絡んで載るのは二度目か。まあ、我ながら上手く立ち回っている方だろう。それにもう半年で卒業だから、今更騒ぎになってもさほど問題ではない。
一度目の時はなにせ中学一年生の時だったから面倒だった。なにぶん大きな事件だったから、人のうわさはなんとやらでも一年おきに掘り起こされてしまう。さすがに今は掘り起こされても、そういちいち大騒ぎにならないのが救いだが。
そういえば、あの事件の追悼記念セレモニー、今年は来週だったな。
「夏休み明けは覚悟しとけよ。下手したら今日からでも来るかもな」
「野次馬趣味で部員が増えるとは思えないね」
などととりとめのない話をしているうちに、目的の教室に入った。譲るということを知らない雪垣は先に教室の扉を開き――――。
「入ってくんじゃねえ!」
千里の鋭い声。倒れる雪垣。刹那、雪垣の顔面に通学鞄がぶつかっていたのを僕は見逃さなかった。
何があったか気になって僕も覗く。そこには千里と、ボブカットの女子生徒がいた。千里は女子生徒の胸元に手を伸ばしていた。千里はこちらをちらりと見ただけですぐ手元に目線を落としたが、女子生徒の方はこっちを気にしているらしいので僕は教室の扉を閉めた。
「あ、も、もう大丈夫ですっ」
しばらくして、次に教室から聞こえてきたのは、戸惑い半分溌溂半分という感じの声。千里のものではない。
大丈夫と言われたので、扉を開き、千里が投げた鞄を回収して入室する。
「し、紫崎先輩!」
雪垣のやつはまだ伸びている。千里の傍にいた女子生徒は慌てて雪垣に駆け寄る。彼女、どこかで見た気がするんだけど…………。
「何かあったのか?」
「あのバカ、デリカシーを落とし物と間違えて交番に届けたんじゃないのか?」
千里は自分の席にいた。彼女の机には、裁縫用の針と糸が並べられていた。
「誰かに用があったのか知らんが、あの子がこの教室にいたんだよ。そんで、オレがここに来て、その子の制服のボタンが取れかかってたから付け直してたんだ」
「なるほど」
さすがにその女子生徒は制服を脱いではいなかっただろうけど、一部をはだけていたのだろう。そこに紫崎が入ってきたから、とっさに千里は鞄を投げたのだ。
納得だな。
「わたしが待ってたのは紫崎先輩です。まさかこんなに早く来るとは思わなくて」
女子生徒の声。振り返ると、彼女は雪垣を抱えるようにして入って来た。
「千草……お前いい加減にしろよ。朝から何回俺を攻撃すればすむんだ?」
「何回攻撃しても足りないところを二回ですませてやってんだ。感謝しろ。それに、あんな場面に突っ込んでくるお前が悪い」
「ここは俺の教室だぞ。俺がいつ入っても不都合はないだろ! ていうか、だったら猫目石はどうなんだ?」
「こいつは、あれだ。瓦礫だからな。帳以外に興味ないだろ」
「猫目石だからという姑息な免罪符をやめろ」
当の被害者の女子生徒はこちらをじっと見た。
「わたしはちょっと気にするんですけど」
「悪かったよ。しかし千里も迂闊だぞ。せめて隣の空き教室を使えよ」
千里は裁縫道具を片付けて、鞄の中に押し込んだ。
「そーだな、朝早いから誰も来ねえと油断しちまった。わりーな扇ちゃん」
「いやお前は俺に謝れよ」
「あ?」
いがみあう千里と雪垣はよそに、僕は千里の言葉で件の女子生徒の名前を思い出した。
「そうか、君は扇しゃこさんだった」
「え? 突然なんですか? まさか忘れてたんですか」
「そうなんだよ。君ほどの奇妙な名前なら忘れるはずないと思ってたんだけど」
「それ猫目石先輩には言われたくないです」
扇さんはそう言って僕を睨む。どういうわけか知らないけれど、雪垣曰く彼女は僕を嫌っているらしい。僕には彼女を好む理由も嫌う理由もないから、どう対応していいか少し困るのだ。
「それはともかく扇さん。雪垣のやつに用があったんじゃないのか?」
「そ、そうでしたっ!」
忘れていたのか。扇さんは雪垣の肩を揺すって、わあわあ騒ぎ始める。そうだ、雪垣の傍でこうして騒ぐ二年生がいたのは覚えていたが、それと扇さんがうまくつながらなかったのだ。
これ以降は話題に加わることもないだろうと考えて、僕は自分の席に着いて鞄を置いた。文庫本を取り出して、昨日の続きを読む。その間も、雪垣と扇さんの会話は聞こえてきた。
「今朝、ついさっき部室に人が来たんです。相談したいことがあるって。それで慌てちゃって、わたしその人を今部室に待たせて来たんです」
「じゃあ、その人は待ちぼうけか…………。しゃこ、そういうことなら早く言え」
「だから今言っているんです。なんでも、部活絡みの相談事らしいですよ」
一年生の頃から、雪垣は他人に相談事を持ち込まれることが多かったと記憶している。小学校、中学校の頃はそんなことはなかったから、上等高校に進学してやつの何かが変わったのか、上等高校の環境そのものがやつを必要としているかのどちらかなのだろう。特に、やつが先輩になって扇さんのように慕う後輩が出来てからは、やつの活動は著しい。
「部活動の新しい部長を決めるのに、勝負を仕掛けるから立ち会ってくれってことらしいです」
「穏やかじゃないな。運動部か?」
「いえ、文化部です。グルメサイエンス部って言ってました」
「なに?」
千里が声を上げる。僕もさすがに、帳が部長を務めている部活となればまったく無視というわけにもいかなくなった。
「ちょっと待て。グルメサイエンス部はもう次の部長が決まってる」
「え? そうなんですか?」
扇さんは、千里が副部長なのを知らなかったらしい。
「二年の市松格子だ。オレは部長をやらせるにはちょっと気が弱すぎるんじゃねえかと思ったが、真面目なやつだし、部員からも信頼されてたからな」
「しゃこ、相談に来たって生徒は女子だったか?」
「いえ、男子です。二年生の男子生徒」
すると、市松さんと同学年なわけだ。本を閉じて、会話に加わるためさりげなく近づいた。
「男子生徒だぁ?」
千里の声は尖り始めていた。たぶん、心当たりがあるんだろう。
「ったく、面倒ごと増やしやがって。帳が来たら一緒にシメてやらねえとな」
「帳は来ないぞ」
まったく、なんという間の悪さだ。僕が告げると、千里はこっちを見てため息を吐いた。
「補習だもんな。ずる休みか?」
「いや、体調不良だ」
「………………珍しいな」
「そうでもないだろ」
「高校入ってからは、ずる休み以外で欠席したことなかったぜ?」
「ふうん」
正直なところ、理由を問い詰められたらどうしようかと気が気ではなかった。……理由も何も僕は嘘をついているわけではないのに、どうして追及されるのを恐れたのかさっぱり分からないが、ともかく、体調不良という僕の説明を千里が鵜呑みにしてくれて安堵する。
「夜島が休みか」
雪垣が鞄を自分の机の上に置く。その声はどこか心なしか弾んでいる。
もっと分かりやすい反応を示したのは扇さんだ。
「じゃ、ここは『相談役』の出番ですねっ!」
「その呼び方はやめろ」
たしなめるように言うやつの口元は歪んでいた。それは決して、ネガティブな歪みではないのだろう。
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