高校生探偵・猫目石瓦礫の日常

紅藍

SEASON1:CHARIOTeer’s Sphinxes

CASE:The HIGH PRIESTESS 夜島帳とふさわしいレシピ

1 プロローグ

 得体の知れないものが胸にこみあげる。そんな朝だ。寝起きの清々しさと、寝しなを叩き起こされたような嫌悪感。ベッドから下りた体は軽く、しかし全身に倦怠感が膜のように張り付いていた。

 部屋を出て、顔を洗いに洗面所へ向かう。時間を確認しようとして、寝巻のポケットに入れておいた腕時計を取り出す。4時30分。そんなに早かっただろうか。窓から外を見ると、ぎらついた太陽が昇っている。日差しは真夏のそれにふさわしい焦げるような暑さだ。おかしいなと思いもう一度腕時計を見て、そこでこの腕時計が壊れていたことを思い出した。

 いつ壊れたんだっけか。壊れた後も、つい癖で持ち歩いてしまっている。

「ええっと」

 洗面所に向かうのに、少し道に迷った。来るたびに思うが、この家は広すぎる。元々、二世帯で住んでいた上に使用人もここで寝泊まりしていたという話を聞いた時は納得した規模だが、やはり普段は二人で住んでいることを思うとなあ……。

 牙城さんも、家のメンテナンスにお金を取られて困っていると言っていたな。いっそのこと台風か竜巻で家の半分でも吹っ飛んで、それを口実に小さくしたいと笑っていた。

「ああ、思い出した」

 鉄道員がするように、口に出して自身の思考を確認する。この家で寝泊まりしたことは何度もある。ただ、今日はいつもと違う部屋で寝たので、寝ぼけているのもあって洗面所までのルートがあやふやになっていたのだ。正しいルートを思い出して目的地にたどり着いた。

 洗面台のデザインは、そういえば誰の趣味なのだろう。白地に目の覚めるような青色の陶器製洗面ボウルは寝起きの目に痛いくらいだった。カウンター部分に埋め込んでいないタイプで、ボウルの側面にはここの住人の使う基礎化粧品とかシェービングクリームとかが乱雑に置かれていた。帳が化粧をしているところをほとんど見たことがないが、こうして化粧品が置かれているってことは、たぶん僕が気づいていないだけなんだろうな。

 蛇口から水を流して、顔を洗う。タオルで拭いた後、顔を上げるとさえない顔が鏡に映っていた。髪が前髪に掛かり気味なのを見て、そろそろ切った方がいいだろうなと漠然と思った。

 キッチンにでも向かおうかと考えた。今日は、僕と帳以外にこの家には人がいない。簡単な朝食くらいなら僕でも作れるのだけど、帳は僕に料理をさせるのを不思議と嫌がるのだ。一度部屋に戻った方がいいだろう。

 さすがに帰りは道に迷わなかった。しかし、部屋の前に来て、そのくらぼったい色の木製の扉を開こうとして、本当にここで合っていたか少しだけ不安になった。

 帳の寝室に入るのは昨日が初めてだったからだ。しかし、学校の教室ではないのだから、わざわざ扉の横に部屋の名前を掲げたりしてはいない。まあ多分合っているだろうし、合っていなくても帳以外の人間は家にいないのだから鉢合わせなどは無いだろうと考えて、軽い気持ちで扉を開いた。

 夜島帳の紅閨は、遮光カーテンで光を遮っているために暗かった。部屋は八畳ほどだが、中央の大きなベッドが部屋のほとんどを占領している。あとは申し訳程度に、小型の冷蔵庫、テレビ、本棚が隅に並べられていて、クーラーが騒がしい音を立てて稼働している。

 ベッドは天蓋がついていて、天蓋からはこれまた緞帳のように厚いカーテンが降りていた。カーテンも、ベッドも、部屋に敷かれたカーペットも、黒地に赤いものでどこまでも重々しい印象を与える。

 僕はベッドに近寄って、カーテンを開いた。そうしてベッドへ横向けに寝ている夜島帳を見た。

 夜島帳――彼女は僕の、僕は彼女の、何なんだろうか。少なくとも、もはや友達という言葉では僕たちの関係を表すのは力不足だった。帳はその白い、飴細工のような右腕を僕がさきほどまで寝ていたところに伸ばしていた。体にかけていたはずのタオルケットはベッドの隅に押しやってしまって、はだけたパジャマの裾からは処女地だった脇腹が覗いている。

「帳、もう時間だぞ」

 僕はベッドに上って、帳の右肩を掴んで揺らした。彼女は身じろぎをして、それから目を開いた。

「瓦礫くん?」

 トライアングルを弾いたような澄んだ声は、少しだけくぐもっていた。パジャマの襟を撫でる程度に長い黒髪が揺れる。

「今何時?」

「さあな。腕時計、壊れてるのにまた持ってきちゃって」

「じゃあ時間かどうか分からないじゃない」

「たぶん時間だ」

「…………そう」

 帳は体を仰向けにしてから、上半身を起こす。その動作がいやに重いのが気がかりだった。彼女の寝起きを見るのも初めてだったから、これがいつも通りなのか分からない。

「調子でも悪いのか?」

「……さあ。何分、いろいろあったから」

 10年クラスの元重病人が自分の体調をまるで分からないというのはやはり変だった。

前髪を掻き揚げて、帳の額に触れる。わずかに熱っぽい。

「熱がある。やっぱり昨夜のは、ちょっと無理しすぎたんじゃないか?」

「あれが初めてだったから、無理かどうかの判断もつきかねたの。次からは気を付けることにするわ」

「お前な……。まあいいや。今日は学校休めよ」

「でも瓦礫くんは行くんでしょう?」

「ああ」

 今はまだ夏休み中だが、学校で補習がある。自分の名誉のために言っておくと、これは全員強制参加の補習であって、決して僕の成績が悪いために受けざるをえないものではない。僕自身の成績はそう悪くないし、今まで真面目にやってきたつもりなので、別に今日くらい休んだところで教師は何も言わないだろうが……。

 どういうわけだが、今日は休んではいけない気がした。休んではいけないというか、ずる休みに変な抵抗感があった。

「もしかしたら遅刻ギリギリかもしれないから、もう準備して行ってくるぞ。一人で大丈夫か?」

「ええ。慣れてるから。午後には父さんたちも帰ってくるでしょうし」

「そうか、じゃあ…………」

 ベッドから体を下ろそうと、帳に背を向けた。その時――。

「瓦礫くん」

 左腕を引っ張られる。体の動作が巻き戻る。再び僕は帳に相対し。

 僕の脇に、帳の腕が通る。背中に温かい感触。帳の、夜空をいっぱいに押し込んだような瞳が近づく。

 唇が、どこかに触れた。

 どこに? 答えは昨晩知っている。

 帳の顔が離れる。涼し気な白い頬に、赤みが差している。

「いってらっしゃい」

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