まだ、子どもだったころ……下


「前から思ってたけど……このガラスのコップって、もしかしてプリンの入れもの?」

 兄に頼まれてコーヒーを持ってきた弟子が、デスクの上に置かれたコップを取り上げた。

「そうだ。それはずっと昔から使っているぞ」

 弟子はガラスのコップをトレイに載せると、入れ替わりでコーヒーカップを受け皿ごと置いた。

「モロゾフのプリンはおいしいよね。僕、好きだったなあ。子どものころ、ハルくんの具合の悪いとき、お母さんが買ってきてくれてたよね。おかげで僕もご相伴にあずかれたんだよ」

 嵐は窓ぎわからふわふわ寄って、ふたりの会話に加わった。

「そんなこともしたな、昔は」

 兄はそのコップを眺めて、ふむ、と眉を上げる。「これは、……おまえがインフルエンザになったときに買ってきたやつだ。今のと違って上の部分の幅が少し広いだろう。この違いで、だいたいいつごろ買ってきたかがわかる」

「え、そうなの?」

 兄の説明に、嵐は驚いた。ガラス容器の形状が変わっているなど初めて知った。

「速水くん、またそのうち、プリンをつくってくれないか」

「えええ。どうしたの、ハルくん」

 嵐はさらに驚く。弟子の少女も、まさか晴がそんなことを言うとは思わなかったらしい。きょとんとしつつもうなずいている。

「それはいいけど……またどういう風の吹き回し? 桜木さんがたべるの?」

 弟子は食事の世話をしているので、とうに兄の味覚は把握していた。

「誕生日だったからな」

「え、あ、……そういうことか」

 嵐は苦笑した。「ハルくんは僕にはプリンさえ食べさせておけばいいとでも思ってるの?」

「いやならやめておくぞ」

「うれしいけど、……でも、僕が食べるにはハルくんが食べないとならないじゃないか。ハルくんも誕生日なのにそんな苦行を?」

「苦行とは大げさな」

 兄はちょっとだけ笑いながら、弟子を見た。「というわけで、速水くん。俺も食べることを考慮に入れて、なるべく甘くなりすぎないように心掛けてくれたまえ」

「わかったわ。じゃあ、次の土曜日にでも」

 弟子はうなずいて、トレイを手に厨房に戻っていく。

 嵐はそれを見ながら肩をすくめた。

「誕生日っていったって、僕は死んでるんだけどね」

「だがおまえは俺と同じように姿が変わっていく。死んでいても、歳を取っているだろう」

 兄は無意識なのか、右肘をさすりながら言った。小説仕事のせいでわりといつもそこが痛いのだ。

 それでも彼は両手を忙しなく動かしてキーボードを打つのである。昔からの夢だった小説家になれたのだから。

 自分がインフルエンザで寝込んだ高校のとき、兄がプリンを買ってきてくれたことを、嵐は思い出した。あのころは、パソコンを新調するのもたいへんだった。その必要性もあまり感じられなかった。

 今はそんなこともない。兄にとってパソコンは仕事の道具でどうしても必要だ。いつも使っているデスクトップのほかにノート型も複数あるし、なんならネットワークでみんなつながっている。

 だいたい、パソコンが当時からは考えられないくらい普及し、びっくりするほど安くなっている。それだけではない。当時はインターネットではなくパソコン通信で、いったん読み込んだBBSのログを、粗い印刷のプリンタで出力して、回線を切ってから読んだりしていた。そうしないと電話代がかさんでしまうからだ。

 昔はお金のない学生だった。今は違う。何もかもが。

 何より自分は死んでしまった。それでも兄と一緒にいたかったから、こうして傍にいる。兄も、自分に傍にいてほしいと言ってくれる。

 しかし、それは自分が言わせたのではないかと、嵐はときどき思う。

「ハルくんも歳を取ったよね。大人になった」

「大人というか、おっさんになった」

 やれやれと兄は溜息をついて嵐を見上げた。「昔のように無理は利かない。徹夜もつらい」

「徹夜をしなくて済むようにスケジュールを組むのを意識したら」

「おまえにそんなことを言われるようでは、俺もやきが回ったな」

 そこで兄は苦笑した。「吉野さんのせいか、最近よく昔のことを思い出す。……あのころはあのころで、おもしろかったのかもしれない。いま思うと、だが」

「今は?」

「今は完全に楽しい。……おまえがいるおかげだ」

 兄がしみじみと言う。

 嵐は、こうして死後も兄の傍にいると決めたことは間違っていないのだと、確信した。

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