【2018年2月新刊記念】あやかし双子のお医者さん 五SS
椎名蓮月/富士見L文庫
まだ、子どもだったころ……上
まだ、子どもだったころ
インフルエンザの予防接種をしなかったのは、お金がもったいなかったからだ。
そんな嵐と違い、兄の晴は自身が寝込むと長引くことを知っていたので、かかりつけの医院で予防接種が始まるとすぐに打っていたし、嵐にも、口を酸っぱくして受けるように言っていた。
そんな晴は、クリスマスの前に嵐がインフルエンザにかかったときは、怒りを通り越して呆れていた。
このビルにはエレベータがあるが、兄は律儀に階段をのぼってこの三階まで帰ってくる。単に、エレベータの前の鍵をあけるのがめんどうくさいだけかもしれないが。
しかしエレベータを使えば玄関の中まで入ってこられるつくりにした祖父は、何を考えていたのだろう。謎だったので一度本人に尋ねてみたところ、「楽でいいから」と言っていた。
その祖父は、双子を引き取ったものの、特に世話をする気はまるでないらしく、毎日どこかへ出かけては夜遅くに帰ってくる。それもあって、最初に言われたように、双子たちは自分のこと、――炊事や洗濯も自分でするようになっていた。もともと母が忙しかったので自分たちのことを自分でやるのは慣れていたし、その程度のことは苦ではなかった。
祖父は旅先から電話をしてきて、「しばらく帰れない」と言うこともあった。生活費は毎月、双子名義の口座に振り込まれているので生活は困らなかったが、何をしているかは謎である。祖父は老齢だがおしゃれで女性にもてるので、どこかで女の子と遊んでいるのかもしれない。母が実の父だというのに祖父とあまり交流がなかったのはそのせいだったらしい。
そんなわけで、双子が祖父と会ったのは、小学校に上がる前に一度か二度ほどだ。生まれたときもしばらくは会わなかったらしい。いろいろあって一緒に暮らさざるを得なくなったときは、祖父もいい迷惑だろうというのが兄と嵐でも意見が一致しており、なんとか自分たちだけで暮らせないかと考えたものである。
今の生活は、そのとき考えていた状態に近いだろう。経済的には困るだろうと予想していたが、祖父の建てたこのビルに住んでいるから、衣食住のうち、住には困らない。のこりのふたつに関しても、差し迫って苦労はしていなかった。
しかし兄は、祖父が老齢であること、また自分たちを引き取ったのは気まぐれではないかとも考えていて、可能な限り無駄遣いはせず、節約したぶんは貯金に回し、アルバイトもしようと提案した。嵐としても否やはなかった。アルバイトといっても、学校に届け出を出す必要のない、ふわっとした仕事だったからだ。
双子のアルバイトは、おもに退魔である。
「ただいま」
疲れ切った兄の声が、玄関からした。
三階は、玄関横にエレベータの出入り口がある。そこからまっすぐに廊下がのびて、つきあたりが広間だ。広間と呼ぶにふさわしい、雑然とした空間で、大きな楕円形のテーブルや、いくつかの椅子が置かれている。右手の奥が食堂兼台所だ。広間の左側には扉が二枚ついていて、その奥は小部屋になっている。手前が祖父の部屋で、奥が双子の部屋である。
入ってすぐの上がり框で靴を脱いだ兄の足音がぺたぺたと聞こえた。風呂と便所は廊下の両脇にある。兄が広間に入ってくるのがわかったが、嵐は部屋から出なかった。
インフルエンザの診断をされたのがクリスマスの直前だった。この部屋に引きこもるよう兄に厳命され、おかげで女の子たちに教えているポケベルが鳴りっぱなしだったが、嵐はそれを放置した。インフルエンザで外出できないから遊べない、とわざわざ説明するのも骨が折れるほどにそのときは体がつらかったし、声もほとんど出なかったので折り返しの電話をかけるのも苦痛だった。
ともあれ嵐は、連絡がつかないことで相手に愛想を尽かされるなら、それはそれでいいかと思っていたのだ。それに、へたに現状を説明すると、お見舞いだと押しかけてくるような心当たりがなくもなかったのである。
「アラシ。起きてるか」
兄がノックもせず部屋に入ってきた。同時に部屋の灯りがつく。二段ベッドの下から、嵐は目をしばたたかせながら兄を見上げた。
「うつるよ」
かすれ声で言うと、兄は疲れた顔を嵐に向けた。
「もうそろそろだいじょうぶだろう。――プリン、買ってきた」
「焼きプリン?」
「モロゾフの」
思わず嵐は跳ね起きた。
「たべる!」
「出てこい」
晴は少し呆れたように笑うと、部屋を出た。嵐もいそいそとそれにつづく。足もとがふらついたので、スリッパははかなかった。裸足で歩くとこの部屋の床はぺたぺたと音がする。火照った体に冷たさが心地よい。
「おい、靴下」
広間の片隅、エアコンの風が当たるところにぶら下がった洗濯物から、兄は靴下を取ると嵐に投げてきた。嵐はそれを受け止めて、椅子に座ってから履いた。冬用の毛糸の靴下は、いつぞやに母が編んでくれたもので、以前は大きすぎて重ね履きをしたものだが、今は足にぴったりだ。むしろ窮屈なくらいだった。これもいつまで履けるだろう。
広間の中央にはダイニングテーブルが置かれ、雑多にものが置かれている。台所兼食堂は広いがこの時季は寒いので、ほとんど台所としてしか使われていない。
「ほら」
晴はテーブルに置いた紙箱を座った嵐の前に押しやった。「二個とも食べていいぞ」
「ハルくんは食べないの」
「俺は要らない。おまえはどうせ、何も食べていないのだろう」
そう言うと兄は台所へ入っていく。もうぺたぺたと足音がしないのは、兄も毛糸の靴下に履きかえたからだ。色違いのおそろいの、母の手作り。兄はたいてい緑色で、弟の嵐は青だった。母は自分のぶんを赤で編んでいた。父は冬には帰ってこないひとだったので、なかった。
「じいさんから連絡あったか」
台所から戻ってきた兄は、両手にマグカップを持っていた。ひとつを嵐の前に置く。中身は温めた牛乳だ。隣に座った兄のマグカップは、真っ黒なコーヒーがなみなみと入っていた。
「ハルくん、それ、少しは薄めたら」
「めんどくさい」
晴はぼんやりと答えると、溜息をついた。
「おじいちゃんからは何もないよ。と思う。僕ずっと寝てたから」
「だろうな。まあいいさ」
「それより、バイト、うまくいったの」
「なあ、アラシ」
兄はまじめな顔をして嵐を見た。「俺は、でくのぼうか?」
「は?」
とっくにひとつめのプリンをはんぶんほど食べていた嵐は、思いがけない問いかけにきょとんとした。
「でくのぼう……って誰に言われたの? 女の子?」
「いや、きょう、一緒にバイトをした相手に」
晴はぶっきらぼうに答えた。「冬樹さん、といって、五つくらい年上だときいていたが、高校生のようだった。そのひとが、俺は力は強いがあまり役に立たないと」
「へえ?」
嵐は目を丸くした。
双子のやっているアルバイトは、退魔仕事である。子どものころから幽霊やらそれに類する人外と関わりを持つことができたため、双子は自分の身を守る方法を母に教えられた。その後、兄は入院先で知り合った鳴瀬にいろいろと教えられ、力を活用する方法を会得した。晴はその方法を嵐に教えた。
中学に上がったころ、鳴弦座という退魔師の集団からスカウトを受けたが、母が拒んだために座に属することはしなかった。しかし、母ではなく祖父と暮らすことにより経済的自立を考えるようになった。なので、鳴瀬を通じて依頼が来ると、ある程度の金銭と引き換えにそうした案件に関わるようになったのである。
そういう仕事に携わる前に、いろいろと話を聞かされたし、力の分析もされた。兄は霊をおろすことに長けた憑坐、自分は人外を排除することに長けた退魔に向いていると知らされたときは、なるほどなあ、とは思ったものである。人当たりがいいとよく言われるが、嵐は自分がたいそう大雑把で相手によっては乱暴も辞さない自覚があったし、兄はぶっきらぼうな態度をとるわりには心根がやさしく弱っている者に寄り添うことが多い。その力はまさしく双子の性格を露わにしていた。
「そんなことないよ。僕とやるときはいっつも、ハルくんは言わなくてもわかってくれるじゃない」
「……だが今日は、俺はそういうところでおまえに甘えていたのかもしれないと思わされた」
晴はちいさく溜息をついた。
「もしかして、そのお詫びも込みでプリンを買ってきてくれたの?」
嵐がふと気になって顔を見ると、兄は少し頬を赤くした。
「……そうとってもいいが、おまえに早く治ってほしくてだ」
照れている。兄が照れると、嵐まで恥ずかしくなってくる。晴は他人の前では鉄面皮と呼ばれるほど表情が変わらないので、自分だけがこの顔を知っているんだなあ、と嵐は思い、そんな自分の思考に恥ずかしくなるのだ。
もうかなり大きくなったのに、未だに嵐は兄から離れたいとは露ほども思わなかった。兄も、嵐を疎んじる態度を見せたことはまったくない。
「とにかく、その冬樹さんというひとが、俺をあまり使えないと言うので、気になってな」
「そのひと、いつもはひとりでやってるの?」
嵐はなんとなくムッとした。いつも兄は自分と組んでいる。降霊した相手に同情しすぎるのは否めないが、それを除けばバイトのときの兄は完璧と言ってよかった。ただ、人外にも気を配るのはやりすぎだと嵐は思わざるをえない。
「いや、いつも特定の相手と組んでいるらしい。その相手と比べられた」
「いつも同じ相手とやってるんだったら、そりゃほかの相手とツーカーってわけにはいかないでしょ。それにしても、失礼だな」
兄が疲れているように見えるのは、退魔で疲れただけではなく、相手の無神経さに疲れたのだろう。嵐はそう考えた。兄はこう見えて神経質で気遣いをよくする。そんな兄をでくのぼう呼ばわりするとは、よほど無神経な相手だったのだろう。自分の考えに、嵐はなんだか腹が立ってきた。
「ごめん、僕がインフルエンザだったばっかりに」
今回は自分が悪かったのだ。自分が苦しいだけならいいが、兄にいやな思いをさせてしまった。何がどうなるかわからないと、嵐は内心で反省した。来年はちゃんと予防接種を打とう。
「いや、おまえのせいではない。俺が不器用だったのだろう」
晴は深刻な顔をしながら、泥水のようなコーヒーを啜った。「まあ、急な話だったし、こういうことはそうそうないと思うから」
「今回のバイト、断ってもよかったのに」
「そうは言うが、鳴瀬さんも困っていたし……」
嵐は、プラスチックのスプーンで、ガラスの容器の底にくっついているカラメルを掬いながら、なんとなくおもしろくない気分になった。兄は鳴瀬を師匠と思っていて、わりと優先順位を高めている。嵐は鳴瀬に会ったことなど数えるほどだから、特に思い入れはない。兄の晴が、弟の自分より鳴瀬を優先しているように思えるのが、おもしろくなかったのだ。
「今度は僕が行けなかったら断りなよ。僕も、ハルくんが行けないときは断るし」
「だが……今回は、いろいろと出費がかさみそうだったから」
そう言うと、晴は、扉と扉のあいだに置かれたパソコンに目をやった。
「あれが壊れなければな……」
やれやれと呟く。
このパソコンはもともと祖父が使っていたもので、ここで暮らすことになったとき、兄が興味を示したら、祖父が使ってもいいと言ったのだ。兄はそれで書いたものを打ち込んでいたのだが、それが突然、起動しなくなったのである。メーカー品とはいえ古い型なので修理も無理だとのことだった。
「それで今回の件だけで新しいの買えそうなの」
「たぶん、安いのなら。ただ、フロッピーディスクドライブがふたつあるのと、ノート型と、どちらがいいか迷うところだ。ノート型はかなり高いから」
「高いってどれくらい?」
「五十万」
「ひえっ」
思わず嵐は声をあげた。「本気?!」
「だから迷っていると言っているのに」
晴はばつのわるそうな顔をした。
「ただ字を打つだけならワープロでいいじゃん!」
「ワープロだと、データの変換がめんどうだ」
兄がぼそぼそと言う。兄がこんなふうにこだわりを見せるのは、小説、のようなものを書くときだけだ。だから嵐としては、できるだけ、兄の希望がかなうといい、と思う。
しかし小説、のようなものを書くだけのために、そこまでの大金を費やすのは現実的ではない、とも思わざるを得ない。
「五十万かあ……それくらい、ぽんと出せる程度のお金持ちになりたいねえ」
「おまえがそんなことを言うとはな」
晴は心底、おかしそうに笑った。
「僕だって重ね録りしすぎて最初から映像が歪んでるビデオテープはもう使いたくないんだよ。すきなだけきれいな映像で見たいなあ」
「働くようになったらビデオテープくらいすきなだけ買えるだろう」
兄はなだめるように、嵐の肩を叩いた。
「働く、ねえ。おじいちゃん、僕たちに大学に行けっていうけど、高校出たらすぐ働いたほうがよくない? おじいちゃんはお金に困ってないみたいだけど、僕たちふたりを養うのってたいへんそうじゃない?」
「そうは言わずに進学したほうがいい。高卒と大卒では初任給が違うからな。じいさんも気にするなと言うのだから、孫として甘えさせてもらおう。……おまえは受験勉強をしたくないだけではないのか?」
「まあね。勉強はそんなに得意じゃない……でも、僕に絵が描けたらよかったのにね。そうしたら、ハルくんの本の表紙を描いたよ」
「気持ちだけありがたく受け取っておく」
晴は微妙な顔をした。
嵐は食べ終えたプリンの容器に、まだあたたかい牛乳を入れた。
「どうせ僕の美術は2だよ」
拗ねた嵐がぬるい牛乳を飲むと、兄はひっそりと声を立てて笑った。
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