よどみ萎え、枯れて舞え

 すみだ北斎美術館内に出現した天井から下りてくる巨大な足を丁寧に洗うと、満足したのかその足は三月の中に取り込まれた。

 北海道は日高町で無事イワイセポの回収に成功した三月たちは、すぐにそのまま新千歳空港に引き返し、羽田空港へと飛び立った。

 三月としては手荷物検査で自分を見られたらどうなるのかと直前になって気づき大いに慌てたが、どうやら肉塊となった三月の姿は日本妖怪愛護協会のメンバーにしか認識できないようだった。その事実に気づいた少佐は思い詰めたような表情で暫し沈思していた。

 羽田から宮内庁には直接向かわず、こうして墨田区は亀沢に直行した。

 足洗い屋敷。三月の右足を構築する本所七不思議の一つ。本所三笠町――現在の墨田区亀沢にある旗本屋敷で起こった怪異であり、天井から汚れた巨大な足が下りてきて、「足を洗え」と要求し、丁重に洗うと引き上げていくという話だ。

 その地でそれらしい場所として、最近できたばかりのすみだ北斎美術館に目ぼしがつけられた。十塚による根回しと人払いのすんだ館内に踏み込むと、待ってましたとばかりにばりばりと音を立てて天井から足が落ちてきた。

 両国駅から秋葉原駅、そこから東京駅に向かうと、丸の内中央口で出迎えてくれた黒のセダンに乗り込み、やっと懐かしの宮内庁へと戻ってくることができた。

「まず胴面ですが、無事松井文庫から『百鬼夜行絵巻』を借り受けることができました。こちらに」

 日本妖怪愛護協会の会議室は、一昨日見た時とは全く様変わりしていた。

 膨大な書類の山。整理が追いつかないのか机の上に乱雑に積まれたそれらが妖怪被害の報告書だとわかると、思わず背筋が冷えた。

 書類の山から隔離されたスペースに、問題の『百鬼夜行絵巻』と『妖怪尽くし絵巻』が厳重に保管されていた。咲が自前の手袋をはめると、各々に目顔で確認をとり、まず『百鬼夜行絵巻』を開いていく。

 薄いピンクにも見える白い肌をした、胴体の細長い白うかり。青い肌をして平べったい顔の髭にあたる部分が棘のようになっているいが坊。その伯仲する個性の間に挟まれた目当ての胴面は、それ以上に個性的な姿をしていた。

 下半身には腰巻をしており、それより下は描かれていない。問題はその上半身であった。

 頭がない。首の辺りで切断されたように、胴体だけしか描かれていない。

 だが、顔がある。へその辺りに髭を蓄えた口。その上の腹のくぼみが鼻となり、両胸にはそれぞれ目がついていて、腋毛かと見紛う眉毛まで生えている。

 三月がその妖怪の姿を視認すると、胴面の細長い手がするすると動き出し、絵巻から突き出てくる。

 全員が固唾を呑んで一歩後ずさる。

 絵巻からするりと抜け出した胴面に、慈姑が有無を言わさず三月を投げつける。

 咲が慌てて絵巻を確認する。これで胴面の画だけが抜けていてでもすれば貴重な資料の重大な損失である。だが胴面の画は、そのまま絵巻の中にあった。

「次にクビダケ? ですが」

 クビダケの名前を呼ぶ時に十塚が見せた戸惑いに、少佐と咲が苦笑する。どうやら妖怪を専門に扱う陰陽師にとっても、東海坊散人なる人物の描いた絵巻は全くの埒外であるらしい。

 咲が目を輝かせながら『妖怪尽くし絵巻』を開いていく。

 鳥の身体に天狗の頭がついたトリテング。その横に無数の宙に浮かんだ火の玉のような人間の首――クビダケ。

 三月が連続でそのビジュアルを見て思わず吹き出すと、絵巻の中のクビダケがゆらゆらと立ちこめるように画から抜け出し始める。

「これは――一箇所に集まったところに投げないと駄目なパターンですかね」

 計五つの首はふらふらと絵巻の上を浮遊し、つかず離れずの距離を保っているが、時々放射状に広がったり、逆に中心に集まったりと、どこか機械的なパターンで動いていた。

 慈姑は三月を空中にホールドしたままじっと機会を窺い、全員が呼吸を止めたように無音でその様子を眺めていた。

 慈姑の指先に汗が滲んでいることに三月が気づくのと同時に、慈姑が三月を指で弾いてスローした。あっと少佐が動揺の声を上げる。慈姑が投げた時点でクビダケの集団はばらばらに散らばっていたからだ。

 だが三月の身体が絵巻の上に届くのと同時に、クビダケは組み込まれた挙動であるかのように、一箇所に集まる。

 そして三月は思いきり、会議室の床に尻餅をついた。

「鬼島さん!」

 歓喜の声を上げる咲のほうを見ようと顔を上げる――顔がある。

 三月は黒沢正嗣と対峙したあの時の姿のまま、日本妖怪愛護協会に戻ってきた。

 三月を気遣う面々を笑いながら見渡す。だが視界の感覚が以前とは少し違う。

 そうか――まだ戻っていない妖怪がいたのを思い出す。

 三月の右目には、ぽっかりと底も見えない穴が空いていた。

「バックベアードですが――」

 十塚がその妖怪の名を少し言いにくそうに告げる。

「現状、出現情報も、手がかりもありません」

「試せるだけは試しました。水木プロに原画の借り受けを依頼し、元絵の『新宿幻影・キメラ』も無理を言って借り受けたのですが――そこにあります」

 金沢の指さした机の上には、宙に浮かぶ一つ目の黒い球体が描かれた画と、同様の球体がコラージュされた写真が置かれている。だが三月が覗き込んでも、そこからバックベアードが現れることはなかった。

「う――わ」

 三月の眼窩の中が回転するような眩暈。そして熱感。全身が沸騰するように昂揚し、だが以前に感じた激痛はない。

 三月は目を回しながらなんとか会議室のドアを指さす。この感覚を三月は知っている。

「やあ、これは面倒なことになった」

 ドアを開けて入ってきたのは、笑顔を浮かべた黒沢正嗣であった。

 話では廃人同然になっていたはずだが、以前と全く変わらない表情で、かつかつと靴音を鳴らしながらこちらに迫ってくる。

「あの部屋は外から施錠されていたはずです」

 十塚が落ち着いた声音だが、明らかに周章した様子で問いただす。

 黒沢は笑顔のまま、右腕をかかげて見せた。正確には、右腕だったものを。

 黒沢の右腕は肘の先辺りまで、ぐしゃぐしゃに潰れていた。会議室の床に、血だか肉片だかわからないものがぽたぽたと垂れている。

「なんだ――こいつ」

「ドアを、殴り壊したのか。いや、それにしてもそんなふうにはならんだろ――」

 そう言いながら山住が十塚と視線を交わし、素早く口の中で真言を唱えて式を打つ。十塚の身体からも無数の式が這い出て黒沢を拘束しようと殺到する。

 だがそのどれもが、黒沢の身体に触れると霧散してしまう。

「なんだってんだおい!」

 脂汗を飛び散らせながら矢継ぎ早に式を打つ山住に、黒沢の左手が伸びる。

 慌てて山住は前蹴りを繰り出す。黒沢はぴくりともしないが、その反動を利用して距離を取ることには成功した。

 ドアを自分の腕ごと粉砕する怪物。そんな相手に掴まれればどうなるか。この怪物はそれをまさに実行に移そうとしている。

 どうやら間違いなく、この場の全員が命の危機に直面しているようだった。

「お前は」

 慈姑が震えている身体を自分の両腕で支えながら、この場の誰にでもなく訊ねる。

 黒沢はにっこりと笑い、

「わたしは〈モノ〉」

「だろうと思った」

 会話かどうかもわからない言葉のやりとりを交わしながら、黒沢は躊躇うこともなく歩を進める。

 その眼前に、一つの小柄な影が躍り出る。

「かぶきりちゃん!」

 かぶきり小僧は三月がこの場に連れてきた時から、ずっと口も開かずに部屋の隅で縮こまっていた。それが妙に軽やかな足取りで、黒沢の歩みを止めに入っていた。

 ところがかぶきり小僧はその場でくるりと黒沢に背を向けると、三月の眼前へとものの一歩で迫る。

「三月――!」

 慈姑が全力で三月へと駆ける。だがかぶきり小僧のほうが早い。

「最後の仕上げには、どうしても僕の介入が必要でね。こうやって置いておいた意味もあったというものだろう?」

 かぶきり小僧の口から発せられるのは、それまでに聞いたことのない、落ち着いているがどこか相手をおちょくっているような声だった。

「時間がない。この個体を〈モノ〉に奪われるのも面倒だ。じゃあ鬼島三月」

 かぶきり小僧は小さな腕を、深々と三月の右の眼窩に突っ込んだ。

 完全に身体の歯車が噛み合う音が響く。腕が引き抜かれた三月の眼窩からは、黒い泥のようなものがごぼごぼと漏れ出していた。

 床に溜まっていく黒い闇の中から、巨大な目玉が見開かれる。

 闇は三月の身体を這い上がり、右目へと収まる。

「六期っぽい――」

 少佐が小さく呻く。

「三月、右足」

 かぶきり小僧がまるで慈姑のように指示を出す。いや、こうして自分を導く慈姑を三月は確かに知っている――。

 三月が右足を浮かせて、一気に踏み下ろすと、天井から轟音を立てて巨大な足が落ちてきた。

「あ、足洗い屋敷――」

 咲が腰を抜かしながら、足洗い屋敷に押し潰された黒沢から距離を取る。

「気を抜いちゃいけないよ。腕がもげようが平然と襲いかかってくるような手合いだ。君たちも見ただろう? そう、そのまま右目でそれを見ながら、右足を上げずにゆっくり近づいて」

 かぶきり小僧のものではない声に言われた通り、黒沢の姿を常に右目に収めながら、すり足で近づいていく。

「待って」

 三月の肩を、慈姑が強く握った。

「お前は」

 誰にでもなく、慈姑が訊ねる。

「君の想像通りだ――と言っておこう」

「だとしても」

「三月の様子を見れば理解してもらえると思ったんだけどな。ああ、あんなことがあったから信用できないのか。仕方がなかったんだよ。急ごしらえの寄せ集めで〈モノ〉と直接やり合うのは予想外だったんだ。あのまま人間の身体でやり合っていたら、三月はその男と同じになっていた。だからこうして二段階目のイニシエーションを経て、〈モノ〉と交戦する負荷にも耐えうるだけのパフォーマンスを実現させたんじゃないか」

「ふざけるな」

 慈姑が本気で怒鳴ったのを、三月は初めて見た。

「三月はお前のおもちゃじゃない」

「わかってるとも。だから、と言っているだろう。いま僕がこうして妖怪をアバターとして使っていて、三月の口で話していないという事実を考慮してほしいね。僕は〈モノ〉のようなやり方は好かない。僕は三月をおもちゃにしたつもりはないよ。むしろ僕が三月のおもちゃになってしまったような状況だ」

「慈姑」

 三月は明らかに激昂している慈姑を落ち着かせようと、肩を掴んでいる慈姑の掌を自分の掌で覆う。

「私は大丈夫。慈姑からは、私がそんな変に見える?」

 一度固く三月の肩を握ると、ゆっくりと力が抜けていき、三月の掌から滑り落ちる。

「そうは言ってもまともにやり合って僕に勝ち目はない。三月、右目の使い方はわかるね」

 声に導かれるまま、三月は右目で黒沢の目を捉える。

 それまで笑顔を浮かべていた黒沢の表情が一気に弛緩する。

「バックベアードの――」

 どうにか立ち上がった咲が呟く。

 バックベアード。その妖怪の名は昭和の妖怪図鑑に散見されるが、現在最も知られているのは水木しげるが『墓場の鬼太郎』および『ゲゲゲの鬼太郎』で描いたキャラクターだ。

 目を見た者を意のままに操る。敵役のボスとして活躍するに相応しい凶悪な能力。

「うっ――」

 三月はできたばかりの右目が徐々に熱を持っていくことに気づく。

「おお、さすがはバックベアード。ハックし放題じゃないか。ああでもあんまり長くはもたないか。オーケーオーケー。ほしい情報はあらかた閲覧した。あとは君たちで好きに尋問するなりしてくれていいよ」

「十塚さん、たぶんあんまり時間ないです」

 三月は呻いた。右目の持つ熱がどんどん強くなっている。

「黒沢正嗣さん、あなたは何者です」

「黒沢正嗣のプロフィールは黒沢正嗣公式ホームページに載っています」

 淡々と答えた黒沢を見て、十塚が三月に訝しげな視線を送る。三月はあまりの熱に焦げつきそうになっている右目を閉じないように集中しながら、自分にもさっぱりわからないとジェスチャーで示す。

「まもなくこの身体は過剰負荷により熱暴走を起こします。なので黒沢正嗣はまもなくただの死体であると回答します」

「三月、もういい。目を閉じて」

 慈姑の声はちょうど三月が熱に耐えきれなくなったタイミングで入ってきた。頭を振るいながら右目を押さえると、黒沢はぴくりとも動かなくなっていた。

 十塚がまだ足洗い屋敷に押し潰されたままの黒沢に慎重に近寄り、脈を診る。

「死んでいます」

 安堵とも落胆ともとれない嘆息があちこちで上がる。三月は右足を浮かせ、足洗い屋敷を消滅させた。

「かぶきり小僧――いえ」

 十塚がかぶきり小僧の像を借りている何者かを誰何する。

「あの、あたしは……?」

 かぶきり小僧はそれまで通りの声で、ただ困惑を示した。十塚が指を動かそうとしたのを、三月が慌てて止めた。

 十塚は携帯電話を取り出して短く何事かを伝えると、すぐに作業服を着た二人組がやってきて黒沢の死体を回収して去っていった。あれも陰陽師か――あるいは式神なのかもしれない。

「樹木さん、あなたには話すべきことがあるのではないですか」

 それまで沈黙を続けていた金沢が、厳めしい声で慈姑の名を呼んだ。慈姑はびくりと身を震わせると、悪寒に耐えられないかのように身を竦めた。

 暫しの沈黙のあと、金沢は少佐と咲に目配せをする。

「そうですね。私たちの考えがあたっていたら、何かリアクションをとってください」

 咲がそう言って慈姑から視線を逸らす。話を向ける先は、十塚のようだった。

「十塚さん、実は俺たち三人――山住さんの言うところの『偽物』連中でいろいろと協議を重ねていたんです。思いきり衝突したり、ああでもないこうでもないとぐだぐだ話を続けて、一つの単純な結論に至りました」

 苦々しげな表情を浮かべる金沢。彼にとってもこの結論が快いものではないと示している。

「妖怪は存在しない」

 十塚も山住も声を上げなかった。あまりに当然の結論であり、この状況では一笑に付されるべき愚論。

「まず第一に、妖怪とは全て創作物でしかありません」

 少佐が先陣を切り、話を進めていく。

「作者の特定はまあ、不可能な場合がほとんどでしょう。ですが、誰かが言いだし、誰かが広め、誰かが書きとめ、誰かが描く。そうしたサイクルが幾重にも繰り広げられる。当時に著作権という概念はないですし、現在でも妖怪に関してはその辺りはかなりゆるい。取り入れ取り入れられ、描き描かれて、妖怪は現代まで生き残っているわけです。創作物として」

「だけど、妖怪という概念の性質がこれを曖昧にしてしまいます。そこがいいとこなんですけど、厄介なところで……」

 咲が言い淀むと、金沢が引き継ぐ。

「現代の妖怪という文化は、ある種の完成形に至ったと言ってもいいでしょう。私のような研究者をはじめ、単に好きだからという理由で妖怪を愛好する者。漫画、小説、アニメ、ゲームの題材として妖怪を扱う者。そうした妖怪の由来や像をはっきりと把握している人間を別にしても、この社会では『妖怪』という概念が機能しています。妖怪とは何か――この疑問に普遍的な回答を与えられる人間はあらゆる分野において存在しないとさえ言えてしまえます。だというのに、妖怪という概念はこの国に確かに根づいている」

「これ、実はとんでもないことなんですよ。わかっていないものをわかっている。それに誰も疑問を抱かない。それだけ妖怪がどうでもいいものということなんでしょうけど」

「これだけ肥沃な土壌ができ上がっているのなら、そこからひょっこり本当に妖怪が芽を出してもおかしくはないのではないか――と」

 険しい顔つきで、金沢が一気にまくし立てる。

「妖怪という概念が定着した。妖怪の像は、それぞれがほとんど一定のものに定まった。妖怪の性質は、それぞれがきちんと定義された。そうして、妖怪という概念が生まれてから今日に至るまで、うずたかく積み重なってきた妖怪への想念という土壌。そうなれば、因果が逆流してもおかしくはないのでは」

「――それは、妖怪が現に存在しているという認識とは異なるのですか?」

 十塚が一語一語言葉を吟味しながら、金沢たちに問いただす。

「異なりますね。妖怪が存在して何かが起こるんじゃなくて、何かが起こって、それが妖怪の仕業とされる。この時点で妖怪は存在していません。が、そうした事象や話やが積み重なっていき、妖怪は育まれてきた。そして起こった事象の原因として妖怪を当てはめれば、これが実にスムーズに話が進みます。最初はそうした単純な代入だったのかもしれません。ですが情報伝達速度の高まった現代、妖怪は意外と簡単に感得されるのではないかと」

「妖怪が存在して情報が発生するんじゃないんですね。情報が発生、残留して、妖怪が存在できるんです。でも妖怪にとってそんなことは関係がない」

「妖怪は因果律に縛られません」

 結果があって原因を作り出す――これが妖怪。ならば、原因があって結果を生み出すことにしてしまう――因果の逆転からの、さらに逆転。因果律に縛られないということは、それすらも可能にするということ。

 少佐はまず金沢、次に十塚と山住を見てから、申し訳なさそうに続ける。

「実はこれを話すべきかは相当迷ったんです。陰陽寮の見解――見鬼によって妖怪が規定されるというものは、通常では間違いなく有効なんです。実際にこれまでその見解をもって対処にあたってきて、不都合は生じていないんでしょう? まあ俺なんかにはとても推し量れませんが、これはどうも――うまいこと見鬼の世界観を壊さないように配慮された考えのような気がするんですよね。見鬼の方々は、妖怪が視える、間違いなく存在しているという世界で生きている。そこに妖怪が全て創作物で、人間の妄想が像を成しただけだなんて言いだされたら、じゃあ自分の見ているものはなんなんだってなりかねません」

「このメタ視点に見鬼の方を引き上げるのは、たぶん危険のほうが多いんだと思います。現に妖怪実存を唱える金沢さんは、最初にご自分でこの考えを導き出したのに、私たちにさえしばらくの間話してくれませんでした」

「俺と鈴鹿さんだって似たようなものですよ。妖怪が存在しないと理解しながら、妖怪が存在していることを認める。こんな状況だからすんなりと受け入れられましたけど、平時なら下手したら果てのない矛盾という地獄のような苦痛を内包しないといけない」

 少佐はちらりと慈姑に目を向ける。慈姑は相変わらず縮こまったまま、無言で俯いていた。

「信じられるか。俺の視ているものが他人の妄想? そんな馬鹿な話が――」

 興奮する山住を、十塚が震える手で制する。

「先刻の六三――あれに説明がつきます」

 六三の言葉に、十塚と山住は大いに動揺していた。

「あの妖怪は、ウィキペディアや出版物に自分の名前が載っていないと宣言していました。山住さん、我々の知る妖怪は、今までにこのような言動をしたことはないはずです」

 山住は苦々しげに頷く。

「それは自分の出自――一次情報の自覚――すなわち、自分が創作物であると自覚しているということです。いえ、あの時は私もそこまでの考えには至らず、ただの異常な違和感を本能的に受け取っただけでしたが――。とにかく、我々にとって、これは全く解せないことでした」

 ですが――蒼白な顔の上、吐き気をこらえるように口元を押さえる十塚の姿は、あまりに痛々しかった。

「この話を採用するのなら、そういうこともあり得るのだと説明がつきます」

「創作物というのなら、創作物に登場する妖怪がそうした発言をする例はありますね」

 咲が静かに声を上げる。

「黄表紙の最初期ではもう、恋川春町の『其返報怪談そのへんぽうばけものばなし』で、見越入道が化物本が始まってから誰が決めたことでもなく自分が妖怪の頭領になっているとか、産女が自分は『今昔物語』にも出ている由緒ある妖怪だとか、白うるりという妖怪にあなたは『徒然草』に出てましたねとか言ってます」

「要はメタ発言ですね。本来妖怪というのはそうしたことを許された存在だった――あまりに妖怪という概念が浸透しすぎ、自身の存在、他者の世界観を脅かすことができなくなってしまったのかもしれません」

 咲の言葉を引き継ぎ、少佐が溜め息とともに言葉を吐き出す。

 金沢はそんなやりとりをどこか遠い目で見つめ、苦い顔をして口を開く。

「見鬼は自分の見ている世界こそが正しいと信ずる。一方で妖怪を研究や趣味として扱う者は――私のような変わり者を除いて――妖怪は存在しないとわかりきったうえで発言する。互いに互いを歯牙にもかけないでしょう。両者の溝は、あまりに深い」

 全員の表情を窺ってから、咲がおずおずと告げる。

「誰も幸せにならない――これはそんな視座です。一度このメタ視点に至れば、自分自身までメタ化され、本来なら他者への伝達も不可能になってしまうでしょう。だから陰陽寮は見鬼規定説を使い、樹木さんは――」

 急に風がやんだように言葉が途切れた。誰とでもなく、だが全員が次々に慈姑に視線を送っていた。

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