Soul Bomber(21世紀の精神爆破魔)

 慈姑はオフィスチェアを一脚運んでくると、それを三月の目の前に置いて座り込んだ。三月は無言で頷き、自らも同様に腰を据える。

「ありがとう」

 三月に向かって、だがこの場の全員へと、慈姑は感謝を述べた。

「僕は三月を信じているし、信じてきた。だから僕は今こうして話すことができている。でも、三月が僕を信じる必要はどこにもないんだ。信頼は両輪で回るものじゃない。一方が勝手に寄せるだけでその一方にとっては充分に機能する。それを理解した上で、どうか聞いてほしい」

 三月は何も言わなかった。ただ座して慈姑の言葉を受け止める。

「何度も言っているように、僕は決して表にも裏にも出ることができない。礼子お姉ちゃんの言った通り、本名、ペンネーム、ハンドルネーム、匿名含め、どんな形態でも人目に触れる場では発言してこなかった。永年ROM専を宿命としてるんだ。それでも、今のこの状況は、もう、この視座に立つ誰かが前に出るしかなくなった。だから、いま話されたことを話すつもりだった」

 慈姑はまるで心臓を鷲掴みにされたように苦しげに表情を歪めると、ふっと力が抜けたように緩める。

「僕は随分昔に、メタ視点に至った」

 じっと、三月を見つめる慈姑。

「三月が――いや、もうこう言おう――僕たちが立ち向かおうとしている相手は、この視座に至り、それを狡猾に利用している」

 世界の外に出てしまった慈姑。そこから世界が混乱の中に陥れられていくのを指をくわえて見ていることしかできなかった慈姑は、自分と同じ視座に何者かが存在し、内側の世界を書き換えていることに気づく。慈姑は抗ったのだろう。止めようともがいたのだろう。だが、どうしようもなかった。なんの力も持たない、ただメタ視点を有するだけの慈姑には、この流れを止めることはできなかった。

 だから――明かす。

 これは禁じ手だ。自分と同じ視座に、相容れることのないはずだった人間を引きずり上げる。一歩誤らなくともその者の世界観を根底から覆してしまう。

 慈姑は迷った。迷って、迷って、黒沢正嗣との対決を選んだ。慈姑が前に出るという決意は、あまりに重い。

 日本妖怪愛護協会――三月は伝えていなかったが、この組織の存在を慈姑は知っていたのだろう。そこに集められたのがどういう人間なのかも、あるいは把握していた。三月と一緒にこの場に来たのは、このことを伝えられる最低限の仲間を欲していたからに違いない。

 そして、日本妖怪愛護協会は自らの力で、慈姑と同じメタ視点へと至った。複雑な思いもあっただろう。慈姑はただひとこと、感謝を述べた。

 そして語る。まだ慈姑だけしか知らないであろう、三月たちが立ち向かうべき相手を明示するために。

「言うなれば、現代の妖怪というシステムの脆弱性――それを的確に突いている。妖怪を形作るための想念を供給している人間は、ものすごく大まかに言うと、三階層に分けられる。まず、自分の妖怪観をしっかりと持ち、揺らぐことのない層。この層が妖怪の像や性質を保全していると言っていい。仮に保全層と呼ぶことにしようか。次に、娯楽媒体などで妖怪の名前を見ると調べるかどうか程度の層。妖怪の名前を検索し、とりあえずの情報を得て満足する。これは――そうだな、拡張層か。そして基底層――圧倒的多数なのが、そもそも妖怪に興味のない層。妖怪という概念は持ちながらも、個別の妖怪の名前は知らないし、調べようとも思わない」

「あ、ウィキペディア」

 頷く慈姑。以前に慈姑が話した、妖怪とウィキペディアの最悪の相性。それがそのまま拡張層と基底層に直撃することになる。

「そう。まず間違った、それも凶悪な妖怪の情報をコンビニ本で流す。それをソースにウィキペディアを加筆させ、あるいは項目を立て、間違った妖怪の情報を拡散させる。特定の妖怪の名前をどこかで露出させれば、検索して最初に辿り着き、最も信頼を置くであろうサイトに載った情報を信じ込ませるのは簡単だ。拡張層は当然として、基底層も調べて間違った情報を与えられる。妖怪を形成する基盤に直接想起させることで、手っ取り早く狂った妖怪を感得させる。そうなればあとは燎原の火のようなものだよ」

「それをやったのが――黒沢正嗣?」

「ソースとなったコンビニ本はほとんどが黒沢正嗣の書いたものだし、恐らくは自分で、あるいはどこかと結託してウィキペディアも弄っていたと思うけど――言ったでしょ。黒沢正嗣は小物だ。ただの便利な宣伝塔くらいの扱いだと思うよ」

「じゃあ、誰が――」

「誰――じゃない。何――がだ」

 慈姑は暫時考え込むように下を向く。この段階にきてなお、話すべきか迷うだけの問題。

「黒沢正嗣は、ミームファージに感染していると思われる」

 三月は口から出そうになる驚愕と困惑を、すんでのところで呑み込んだ。

 ミームファージ――それはあの空間で、慈姑が言った言葉。そして三月は、それに感染したとも――。

「妖怪の過去から連なる情報の流れ――これを遺伝子になぞらえて、それを言い換えたのが、この場合のミーム。ミームという言葉は本来はまた違う意味だし、流転する言葉なんだけど、言い換えに便利だから使わせてもらう」

「――ファージはなんかの漫画で読んだことある。ウイルスの一種だったっけ?」

「そう。細菌に感染して溶かしてしまうあれ。その意味もあるけど、今回はファージという言葉の原義も含まれている。『食べるもの』というね」

 ミームを食べるもの――妖怪という情報の書き換え――そして破壊。

「妖怪という情報の流れ――その、流れているという状態が存在することで、表層化する意識。妖怪という流れの余剰リソース――アソビの部分に寄生するバグのようなもの。多分、ほかの文化や情報にも発生することはあると思う。ただ、妖怪はそのアソビの部分の大きさが尋常じゃない。ミームファージが成長するのに、これほど適した文化はないと思う」

 そこで慈姑は遠い目をした。

「僕が大学を辞めた理由って、話したっけ」

「何もかも無理になった――でしょ」

 三月の返答に、慈姑は少しだけ笑った。珍しいこともあるものだと思ったが、よく見ればそれは自嘲だった。

「うん、まあその通りなんだけど――この際だ。話すよ。妖怪へのメタ視点に至ることは、イコールミームファージを認識することじゃないのは当然だ。ミームファージという概念に行き当たることは、どんな視座に立とうと本来あり得ることじゃない。だから僕がミームファージの存在に気づいたのは、全く別のルートからなんだ」

 慈姑は別段懐かしむわけでも、懊悩を見せるわけでもなく、ただ淡々と話していく。

「金沢さんの言っていた通り、僕はある研究室に所属していた。そこでやっていた研究も、金沢さんの言っていた通りでだいたいあってる。ただ、なぜ『消えた研究室』なんて呼ばれることになったのか。それを知る者は、間違いなく、もう僕しか残っていない」

 妖怪のデータベースから情報を抽出し、片っ端から組み合わせ、そこになんらかの関係性を見出そうと試みる。この実験を慈姑が行っていたことは、どうやらすでに金沢から全員に伝えられていたらしく、訊ねる者はいなかった。

 研究室で起こった最初の異変に気づいたのは慈姑だった。

「データベースから抽出された情報が、ありえない文字列を作っていた。『わたしは〈モノ〉』――まるで自己紹介のようなその文字列は、まだ続いた。こちらに話しかけてくるように、親しみさえ感じるような文章まで作られた。そのことを研究室の全員が認識したあと、いつの間にか研究は、その文字列との対話に移行していた」

 コンピューター上に集められた情報の羅列が、意思を持ったかのような文章を生み出す。そこに本当に意思は存在するのか――意思があるとして、それは何を言葉として伝えようとしているのか。専門外の領域に踏み込んでいることを自覚しようが、研究が自然とそちらに傾くのも無理のない話だろう。

「その文字列は協力的だった。こちらが打ち込んだ質問に素直に答える。メインの質問、お前は何者だという問いには、『わたしは〈モノ〉』の一点張りだったけど、それ以上に全員がこの文字列の魔力に取り憑かれ始めていた。この文字列は、およそ全てのことを知っていると言ってよかった。例えば『牛の首とは何か』と質問をすると、前に話した怪談の載っている雑誌の名前を挙げた。調べてみると本当に載っている。黒史郎先生がムーPLUSの『妖怪補遺々々』の連載で取り上げるずっと前のことだったにも関わらず、それまで俎上に載ることのなかった怪談をサルベージしてきたんだ。この文字列を使いこなせば、妖怪研究は大きく前進する――みんなそう信じて文字列の言葉にのめり込んでいった」

 最初の一人は、慈姑と同学年の研究室の学生だった。

「名前を挙げるのも面倒だから、仮にAとしようか。Aはある日から変わった。いや、言い方が難しいんだけど、外見や性格や、そうした普段人と接するところは何もおかしなところはなかったんだ。ただ、話していたりするとふとしたところで、無になるんだ。なんでもない話の最中、自分に関係のない話題の時、無が表層化する――パソコンの起動中やゲームのロード中に外部から何もできないような、そんな感じなんだ。処理が追いつかないのか間隙を縫って内部で何かを高速で処理しているのか――とにかく、人間がどうやっても表層化できないような無を、Aは時折見せるようになった」

 そしてその無は、感染していく。

「その研究室には教授と、生徒が僕を入れて四人いた。あとの二人はBとCでいいか。BがAと研究室に残った翌日から、BはAと同じ無を垣間見せるようになった。ある時僕が研究室に忘れ物を取りに戻ると、部屋の中から何か争うような物音が聞こえた。面倒事は御免だったけど、野次馬根性が働いてドアを少し開けて、隙間から中を覗き込んだ。Bが暴れるCを取り押さえて、AがCの腕に何かを注射していた。注射が終わると、三人は何事もなかったかのように談笑を始めた。抵抗していたはずのCも、それまでの流れがなかったかのように普通に会話に加わっていた。これはさすがにおかしいと、僕は教授に報告しにいくことにした。僕の話を聞いた教授は、感慨深げに何度も頷いた。Cは正しい、抵抗は虚しいだけだ――そう呟きながら、教授は注射器を取り出す」

 元々、慈姑は語りが上手い。小さな頃、三月は慈姑の話す怪談に何度泣きそうになったかわからないほどだ。その素地は今も健在だとわかるが、怪談を語る時の情感のようなものはなく、ただ淡々と事実だけを並べ立てている。

「僕は何も聞かずに逃げ出した。わけがわからない中、部屋を出る間際に教授は『〈モノ〉に聞きなさい』と生徒に指導するように声をかけてきた。本当は一刻も早く遠くへ逃げたかったけど、教授の言葉がどうにも気にかかって、研究室に向かっていた。研究室にいた三人はなんの変哲もない、普段通りの態度で真っ青な顔をした僕を気遣ってくる。僕は吐き気のようなものをこらえながらスパコンと接続された端末に向かった。『何が起きている』――混乱した僕はまずそう打ち込んだ。『感せン』――脈絡がないはずの質問にしっかりと答えるその文字列に、僕はまずます混乱する。『何に』――はっきり言ってこの時点で僕は怖くて怖くて仕方がなかった。でも、どうしても何が起きているのかを確かめたかった。『みイむふアあじ』――研究室にいた三人の声が、いつの間にかなくなっていたことに気づいたのはその時だった。僕は後ろを確かめることをせずに、思い切り腕を振り回した。手の甲が何かに当たって、プラスチックが転がる音がした。振り向くと、床に落ちて中身が漏れ出た注射器を見て、三人が他人事のように嘆息を漏らしている。最後の一本だったのに――医学部までもらいにいくか――そんな相談をしている始末だった。ディスプレイを見ると、そこにはお決まりの文字列が並んでいた」

 わたしは〈モノ〉――。

「それで、僕の中の何かが完全に壊れた。研究室を逃げ出し、家に閉じこもって一晩中考えを巡らせた。そして、ミームファージという言葉の意味と、存在に気づいた。結果、僕は何もかも無理になった。大学を辞めて、店の奥に居座るようになったら、割と早い段階で他人と話すことはできなくなった。ひょっとしたらあの時ミームファージが僕にプロテクト措置をかけたんじゃないかとも思ったけど、そんなことはもうどうでもよかった」

 それが六年前。

「僕は逃げた。現実から、事実から、人間から、妖怪から――いつか来るであろう今日から。そして、手遅れになろうとしている今になって、ようやくこうして話すことができた。これは覚悟じゃない。自暴自棄だ。それでもこれが、三月の助けになることができるなら――」

 そして、慈姑は長い話を打ち切った。

 誰も何も言えなかった。それほどまでに、慈姑の話は衝撃の連続だった。聞く人間によっては、世界観を二転三転させられるようなものだ。

 三月は一度慈姑から身体をずらし、沈黙を続ける面々と向き合った。

「ということですが」

「あの……」

 いつの間にか三月の隣に立っていた子供――かぶきり小僧は、申し訳なさそうに声を上げた。先ほどのこともあり三月は少し身構えるが、口ぶりから見るにもともとのかぶきり小僧で間違いないようだった。

「あたしは、なぜだかあなたとしか話ができませんでした」

 そうなのかと咲に問いかけの視線をやる。

「はい。一言もお話しできなくて、喋ったのでびっくりです」

「ですが、こちらの方のお話が終わると、急に話せるようになったのです。どういうことだかよくわかりませんが、あたしはこの場の皆さんにこう言いたかったのです。どうか、あたしを助けてください――と」

 そういえば最初に会話をした時もそんなことを言っていた。三月が思い出すのとリンクするように、かぶきり小僧は必死に訴えかけた。

「メタ化している――」

 金沢が呟く。

「そういうことですか。我々がメタ視点に引き上げられたことで、メタ化した妖怪と会話が可能になった、と」

 少佐が若干の狼狽を滲ませながらも、いつもの語って聞かせるような口ぶりで見解を述べる。

「じゃあ六三は……?」

 確かに、六三は最初からメタ化して三月たちと話していた。

「六三は、何者かに差し向けられたと言っていました。つまり最初からメタ化を前提として感得され、我々への許へ送られたのでしょう。かぶきり小僧の場合は、すでに世間に間違った姿で広まっていたものが、鬼島さんと遭遇したことでメタ化した――切り離されたということではないでしょうか」

 やはり金沢の頭の回転の速さと柔軟さは群を抜いている。

「じゃあ、かぶきり小僧はもう人を襲うことはないんじゃ――」

 喜色を浮かべる咲だったが、かぶきり小僧自身が否定した。

「あたしは、歪められたままです。こうして皆さんとお話しできていることに、まだ実感が湧かないほどなんです。あたしはまだ人を襲っている――それは間違いありません」

「現在世間で人間を襲っているかぶきり小僧の像は、いわばメインストリームとなっていると言えるでしょう。このかぶきり小僧はその傍流、サブストリームでしかないということです」

 金沢の言葉に少佐がなるほどと唸る。

「つまり妖怪――この場合はかぶきり小僧の流れが、今は黒沢氏の広めたデマが一番大きな流れになっている。だけども過去から続くかぶきり小僧の流れは脈々と続いていて、それが今我々と会話をしているこのかぶきり小僧に表層化している、と」

「要はこのかぶきり小僧は安全ということですね」

 咲がほっとしたように笑った。

「三月」

 慈姑が一旦話が落ち着いたところを見計らって口を開いた。

「僕は、黒沢正嗣がミームファージに感染していると、最初は思っていなかった。あの時僕は、黒沢正嗣をこてんぱんに叩いて、これ以上の拡散をやめさせるように約束させようとしただけだったんだ。この視座に至った、この国を滅茶苦茶に破壊したいと願っている何者かに利用されているだけ程度にしか思っていなかった。本当は、ミームファージなんて表には出てこないと思って――願ってた。僕が気づいたのは、黒沢正嗣が注射器を取り出したところでだった。でも――三月はその前に、僕に叫んだ。『人間じゃない』――あれは、どういう意味だったのか」

 三月は沈黙する。慈姑の質問に答えられない――それがこれほどの苦痛だとは思わなかった。

 三月はミームファージに感染している――それはあの時慈姑が言った、そして時がくるまでは決して口外してはならないと釘を刺したこと。つまりは、疑いようのない事実だ。

 だが、今目の前にいる慈姑は、ミームファージこそが三月たちが打ち倒すべき相手だと主張している。ということは、三月は知らずの内に敵側のスパイに仕立て上げられていたということではないか。

 言えない――今は、いや、このことは永遠に、黙っておくしかないのか。

「想像以上だよ。樹木慈姑」

 その場の誰のものでもない声が、三月の隣から上がった。

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