山はありし日のまま

 京都御苑内の宮内庁京都事務所の一室で、咲は死んだように眠っていた。

「死ぬほど疲れたんでしょうね」

 そう言って苦笑する少佐の顔にも明らかな憔悴が見てとれた。東京の日本妖怪愛護協会にはすでに特捜から妖怪被害の報告が絶え間なく上がってきており、その処理に追われているということだった。

 多度大社を出た一行は当初の予定通り、そのまま伯母ヶ峰へと直行することとなった。

 ところがこの行程は予想外の事態で中断される。東名阪、伊勢自動車道、紀勢自動車道と高速道路を進み、紀勢自動車道尾鷲北インターチェンジを下りる。

 そこからいざ一般道を使って県境の山の中へ踏み込むぞと意気込み、ショッピングモールで最終準備を終えて立ち去ろうとすると、そのショッピングモール内で騒ぎが起こっていることに気づいた。

 どしんどしんと足音を立てながら、ショッピングモールを跳ねていく一本足の怪物。

 パニックになるほどの人出はなかったのが幸いし、慈姑はすぐにその妖怪のもとにたどり着くと三月の身体を投げた。

 こうして一本だたらは無事、三月の身体の中に戻った。咲は山に登らずにすんだと、一気に緊張が解けて少し泣いていた。

 その旨を東京の日本妖怪愛護協会へと連絡すると、十塚はそのまま京都に向かうようにと指示を出した。

 それを聞くと咲の顔から血の気が引く。

「あ、愛宕山――」

 三月の鼻を構築する愛宕山太郎坊。天狗の中で最も高い地位にあると言われるその妖怪の座する場所は、京都は愛宕山である。どうやら咲の中で「山」というワードが忌むべきトラウマとして成長しているようだった。

 十塚は京都御苑に少佐を向かわせるので、そこで合流し次の指示を待つようにとだけ伝えて電話を切った。

 そして夜中に宮内庁京都事務所にたどり着いた三月たちに、まずは休息が与えられることとなった。それから太陽が高く昇ったこの時間まで咲はこうして眠っている。

「樹木さんはきちんと寝ましたか?」

「慈姑は徹夜になれてますから。私は眠いのかどうかもよくわからないですし」

 少佐の質問に三月が答える。慈姑が一睡もせずにじっと部屋の中に座り込んでいたのを三月は知っている。少佐は若干困ったように頷くと、では――と切り出す。

「実はここにもう一人客人がきていましてですね。昨日突然現れて、京都事務所はちょっとしたパニックに陥ったそうです。それで東京の陰陽寮にまで連絡が入るのが遅れたそうで」

 慈姑がすぐに少佐の含意に気づいて臨戦態勢をとる。

「いや、彼は我々に協力的です。求められればすぐにでも――と」

 ほっと肩を落とす慈姑。言葉は交わさないが事実上のコミュニケーションをとっている姿に、三月は慈姑が間違いなく日本妖怪愛護協会の面々に心を開きつつあると感じとった。

「ただ、鬼島さんと少々話がしたいと言ってまして。それでお休みになるまで待ってもらっていたんですが」

「大丈夫ですよ。誰です?」

「愛宕山太郎坊」

 慈姑が少佐の言葉を奪ってそう言った。

「はい。あの日本の天狗の大首領が、ここにきています」

 三月――を抱えた慈姑は事務所の職員によって用意された一室へと通された。応接室らしき絨毯敷のその部屋には、ソファがテーブル越しに向かい合うように置かれ、二人掛けのほうに小ざっぱりとしたスーツ姿の男が悠々と腰かけていた。

 男は入ってきた三月と慈姑を見ると少し笑って、どうぞと三人掛けのソファを指し示した。慈姑は無言で広いソファの端っこに腰かける。

「あの、それでその天狗という方は?」

 肉塊から発せられる三月の声に驚くこともせず、男は手の五本の指同士をリズミカルに合わせて慈姑ではなく、肉塊の三月を見つめる。

「すまないが、どうやらあまり時間がないらしい」

「はあ。じゃあ早く――」

「私が愛宕山太郎坊だ。話を進めよう」

「えっ」

 三月は自分の記憶を手繰る。あの空間で三月の中に入ってきた愛宕山太郎坊は見るからに天狗そのものの姿をしていた。それが目の前の男は、勤め人には見えないが堅気ではあると即座にわかる、中途半端に整えられた格好をした中年の男である。到底天狗には見えない。

 この男が自分が愛宕山太郎坊であると宮内庁京都事務所を訪れたのなら、即刻門前払いをされるだけだろう。それがこうして事務所の応接室まで与えられているということは――信用してもいいのか。

「鬼島三月。君はどこまでやられた?」

 男の言葉に三月はさっぱり意味がわからずにない首を傾げる。

「身体が妖怪になって、ばらばらに」

 男は身体の内側を針で刺されたような苦悶の表情を浮かべ、焦燥感も露わに口を数度開きかけて閉じ、なんとか言葉を続ける。

「そうじゃない。君は奴の傀儡なのか?」

「奴?」

「すまない。直截な言い方ができないんだ、どうしても。こっちは奴に演算されて現形している状態だから、わずかに残った『愛宕山太郎坊』の部分から抜け穴を探り探りで行動しなければならない。わかるか?」

「いえ、さっぱり」

 三月の率直な返答を聞くと、男は急に憑き物が落ちたような穏やかな表情へと変わった。

「そうか、よかった。全く、人間には甘いのだな」

 一人で深々と頷き、男は三月ではなく慈姑へと目を向ける。

「愛宕山太郎坊、鬼島三月――ほかならぬ君のために力を貸そう」

 愛宕山太郎坊は静かに三月の身体に手を置く。その途端に男の姿はかき消え、三月の中でまた一つ、何かが噛み合う音がした。

「本当に天狗だったんんだ……」

 部屋を出た三月と慈姑を、目を覚ました咲が出迎えた。自分も愛宕山太郎坊に会いたかったと明るく小言を言って、自分はこのまま新幹線で東京に帰ることになったと報告する。

「え? 私たちは?」

「残念ですが、これから大阪に向かってもらいます」

 少佐が申し訳なさそうに、自分もお供すると付け加える。

「大阪? そこにもなんか出たんですか?」

「いえ、正確には関西国際空港に、ですね。そこから飛行機で新千歳です」

「イワイセポ――」

 慈姑の呟きに頷く少佐。

「はい。北海道をイワイセポを見つけるまで回るように、と。マジに洒落になってないですが」

 三月の耳を構築するイワイセポはアイヌの民話に伝わる妖怪だとされている。

「あっ、でも一本だたらのこともありますし、なんとかなる――んじゃないでしょうか……」

「沙流川地方――日高町」

 慈姑の言葉に咲と少佐がはっと顔を見合わす。

「うっかりしてました。えーっと、新千歳空港から日高町――おっ、意外と近いですよ」

 またこれだと三月は苦笑する。

「イワイセポの『イセポ』というのは、沙流川地方のアイヌ語でウサギを意味するんです。だから、出るなら沙流郡、日高町だろうと樹木さんは言ってるんですね。私もイワイセポの資料読んでから『イセポ』イコールアイヌ語でウサギだと思い込んですっかり忘れてましたけど、そりゃアイヌ語にだって方言ありますよね」

「残りの鬼島さんのパーツは、愛護協会のほうで用意が進んでいます。東京に帰ってこられたら、たぶん元通りですよ」

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