怪物君の空

「いや、やっぱこのルートは無茶ですって……」

 翌朝一番の博多行新幹線の中、咲が昨夜方針が決まったからずっと同じ、げんなりとした顔でタブレット端末に表示された経路を見下ろした。

 同行するのは当然三月と、それを抱きかかえる慈姑。三月を抱えた慈姑は咲の隣の窓際の座席で小さくなっている。咲も慈姑とは会話にならないということを理解しているはずだが、どうしても愚痴を漏らしたくなるのだろう。

 ルートは東京駅から名古屋駅までを新幹線で移動し、そこから手配した車で三重県桑名市の多度大社に向かう――というのがまず第一工程であった。

 三月の左目を構築する妖怪――一目連。おそらく三月の肉体に割り当てられた中でも、最も危険度が高い妖怪であるという意見で一致していた。

 一目連は多度大社の別宮である一目連神社にその名を遺す通り、妖怪として分類されこそすれ、本来は暴風の神である。

 一目連が現れる際には凄まじい暴風雨が吹き荒れるとされ、現に昨日――三月の身体がバラバラになってから、三重県北部では原因不明の暴風雨が続いている。被害はすでに甚大であり、さらに暴風雨は収まる気配も予測もつかない。交通も麻痺し、名古屋駅から桑名駅に向かう電車は運転を見合わせたままだ。

「近鉄が止まるレベルの暴風の中を名古屋から車で多度大社までって……まずこれが危険すぎます――が、やるしかないならやりましょう。問題は次の一本だたらです」

 咲が指し示すのは、多度大社から文字通り三重県を縦断するように伸び、和歌山県と奈良県の山中へと突き進む経路であった。

「三重県を北から南に突っ切るっていうのは――まあいいでしょう。アホみたいに距離ありますけども、一応は高速ありますし。ですけどそこから伯母ヶ峰経由して三重奈良和歌山の紀伊山中をぐるぐる回るなんて真似はやめたほうがいいです。伯母ヶ峰に登るとなればマジモンの登山になりますし、車でうろうろするにしても、あの辺り熊野の修験者がこもるとこですからね? どんだけ備えがいるんだって話ですよ。まあ十塚さんのことですからバリバリ装備を手配してるんでしょうけど……」

 三月の左足を構築する一本だたらは、紀伊山中に現れると伝わる妖怪である。

 伯母ヶ峰という固有の地名が出たのは、猪笹王という妖怪がその土地に伝わるものであるからだ――と日本妖怪愛護協会という集団は相も変わらず三月と大嶽を置いてけぼりにしてすいすい話を進めてしまったので、三月はここにきてようやく慈姑に説明を求めた。

「猪笹王は奈良県吉野山中、特に伯母ヶ峰で言われる妖怪で、名前通り熊笹の生えたでかい猪。これ猟師が仕留めたところ、温泉に猪笹王の亡霊が現れるようになり、猟師をどうにかしろと頼んできた。役人も猪笹王を恐れて猟師に頼むんだけど、猟師は受け入れない。そうして猪笹王の亡霊は一本足の化け物になって、山の中を彷徨うようになった――その一本足の化け物が、一本だたらだとされている」

「でもですよ、一本だたらの出る地域は広いうえに山ん中です。猪笹王に限定されるにしても、伯母ヶ峰も結局山ですし……」

「私はいいけど、慈姑は大丈夫なの? 私を抱えたまま登山って、無茶じゃない?」

 三月が訊ねるという形で、咲の疑問を慈姑へと渡す。

「これまでのことを考えると、三月の身体自体が妖怪を呼び寄る機能を有していると見ていいと思う。そうでないと最初の件や、カイナデに説明がつかない」

「エンカウント率は高いっていうこと?」

 慈姑が本格的に議論に参加しようと試みたことを察し、三月はそれを自分と二人だけの会話という形に持っていく。そうしなければ慈姑は羞恥から完全に言葉を失ってしまう危険性があった。無理に前に出ようとしてつまずき塞ぎ込むよりは、いつも通りの体を装って自然に言葉を吐き出せるように取り計らう。慈姑も三月がそう応じるとわかっていたからこそ、多少の無茶ができていた。

「三月がいれば、そこに妖怪が出てくるようになる。ガシャドクロは巨体として認識されるから、わかりやすく出現した。相馬郡ではない筑波大学に出たのは――」

「あっ、金沢先生が日本妖怪愛護協会のメンバーとして、鬼島さんと接触していたから――ですか?」

 金沢は筑波大学の准教授――同じ組織のメンバーの勤め先に出現すれば、確かにわかりやすいことこの上ない。

「そうなると一目連はさらにわかりやすいと言えますね……。祀られている神社が現存し、暴風の神という明瞭な性質を有している。その通りに暴れ回っているから、こうして私たちに次の目標として設定されているわけですし……」

「なんか――わかりやすくしてやってる――みたいですよね」

 三月が思わずそう言うと、慈姑は急に真剣な目つきになって三月に六三の治療によって体験したイニシエーションを詳しく話すように迫った。

 三月は幻影の慈姑が最後に言った「ミームファージ」という言葉だけを隠して、詳らかに内容を伝えた。

「高速も駄目です」

 名古屋駅で待っていたのは巨大なキャンピングカーだった。十塚の念の入れようと、これだけの設備が必要になるかもしれないこれからの道行きにおののきつつ、三人は車内で運転手と短い打ち合わせを行う。

 名古屋高速は影響を受けていないが、東名阪自動車道は名古屋西ジャンクションから四日市ジャンクションまでの区間が全面通行止めとなっている。

 名古屋の空は晴れているのだが、少しでも西に踏み入れるとすさまじい暴風雨であると運転手は語った。言われて見てみれば、新車であるというキャンピングカーは泥まみれになっていた。三月たちを待っている間にどの程度走行可能かを実地で試してきたらしい。

 三月はこんな状態であるし、慈姑はそもそも会話に参加できない。打ち合わせは少しは落ち着いたようだがまだ憂いている咲に任せ、慈姑は用意されている装備を確認する。

 防護服と呼んだほうが正しいようなレインコート――これは一目連の暴風雨に対するためのもの。トレッキングシューズや山用の長袖長ズボン。非常用の携帯食料――できればこれらにはお世話になりたくないと咲の泣き言が聞こえてきそうだ。

 結局、名古屋高速で名古屋西ジャンクションまで向かい、そこから一度国道一号線に出て、一般道だけを使って多度大社に向かうことになった。

 キャンピングカーに乗り込むと運転手が「覚悟しといてください」と言って発進させる。

 高速を降り、一号線に出て西へと進む。まだ晴れているなと思っていると、急に巨大な橋が連なっているのが見えてきた。

「木曽三川――いよいよですね」

 愛知県と三重県を地理的、文化的に隔てる三つ並んだ木曽川、揖斐川、長良川。三月は長良川以外を初めて聞いたが、慈姑がすぐに説明してくれた。

 一つ目、木曽川を超えると、途端に耳をつんざかんばかりの轟音が車全体を覆った。それが車体に打ちつける雨の音だと理解するのにかなりの時間を要した。

「これ、まずいんじゃ――」

 咲が蒼白な顔で橋の下に広がる堤防とそのすぐ横に立ち並ぶ民家を見渡す。

 雨で視界はほとんどゼロに近いが、目を凝らしてみると民家の建っている土地はどれも堤防よりも低い位置にあった。

「昔、東海豪雨ってあったじゃないですか。あれで一番酷いことになったのがここです。というよりずっと昔からこの辺りは洪水に悩まされ続けていて、輪中集落にはその備えのための建築様式や民具なんかもあるくらいです」

 咲は勢いよく息を吐き出すと、顔を叩いて気合いを入れる。

 長良川、揖斐川を超えると車体がぐらぐらと揺れるほどの暴風が吹き荒れ始めた。車はそこからすぐに北に向かう。

 田んぼと畑ばかりが広がる農村風景を眺める余裕もなく、揺れ続ける車内で手近のものに懸命にしがみつきながら、山を背に待ち受ける多度大社へと車はのろのろと進んだ。

「一般知名度が高くなくて助かりましたね」

 完全防護のレインコート――とその下の身体――を吹き飛ばされないようにかき抱くようにして参道を歩く咲が、暴風にかき消されないように大声を張り上げる。

 一目連は確かにメジャーな妖怪ではないだろう。それでもこの土地にはその伝承がしっかりと根づいている。日本中に妖怪が出現しているこの状況とこの暴風雨があと少しでも続けば、その関連性に気づくものが現れ始めるだろう。最悪、妖怪憎しの感情から暴徒化した住民によって別宮が破壊されてしまう可能性さえ出てくる。

 幸いにも多度大社の境内にはまだ不穏な人間の気配はない。打ち壊しが始まっていれば一目連の回収は難航しかねない――咲の懸念はひとまずは回避できた。

 その時、三月をレインコートの下で抱えたまま参道を進んでいた慈姑が、びくりと身体を震わせた。

「慈姑?」

 三月の声で我に返った慈姑は、突然わき目をふれずに駆け出した。前を行く咲を追い越し、なにかから逃げるように猛然と参道を駆け上がっていく。

「うわわ」

 背後で咲の動揺する声。そして三月は、はるか上空からその光景を眺めることができていた。

 咲たちのような万全な装備ではなく普段使いの雨合羽や、あるいは端から無意味であると悟って雨具すら用意していない、無数の人の群れ。

 それが列をなして、三月たちと同じ参道をどんどん登ってきている。

 手にはチェーンソーや杭打ち用のハンマー、灯油の入ったポリ容器を持っている者もいる。

 どうやらこの土壇場で、咲の懸念が現実となったようだった。

 咲は無言で進んでくる集団に怯むが、すぐに明るく手を振って強引に世間話を始めた。慈姑が一目連を回収するまで、せめてもの時間稼ぎをするつもりだ。

 そういえば、三月はとうにその場を離れているのにどうして上からそれを眺めているのだろう――。

「慈姑! 上!」

 三月の言葉通りに真上を見上げた慈姑と、上空に浮かんだ三月の左目の視線が交差する。

 慈姑はもたつきながらもレインコートの下から三月の身体を取り出すと、人差し指で空中にホールドし、上空に浮かぶ巨大な目玉――一目連へと狙いを定める。

「気づかれる前に――」

 咲が足止めしている暴徒たち。彼らに一目連が視認されれば、咲のことなど無視して暴動が起きかねない。

 荒れ狂う暴風の中、それよりも強い突風が吹く。慈姑の身体はものの見事に宙に浮かび、鎮守の森の巨木にしたたかに打ちつけられる。

「慈姑!」

「平気」

 言った途端にさらに強い突風。慈姑がぶつかり、今は身体を支えている木がみしみしと軋みだす。

「三月、左手」

 瞬時に慈姑の意図を察し、三月は己の身体に左手を浮かび上がらせる。

 三月の身体である肉塊が巨大な手へと変化し、ほかほかの米粒をまき散らしながら慈姑の身体を風からガードする。

「右手」

 さらにそこから白い腕がするすると伸び、上空に浮かぶ一目連を絡めとろうと鎌首をもたげる。

 無数の腕に分裂し、あらゆる角度から一目連に迫る三月の右手。一目連はそれを上回る速度で上空を旋回し、すんでのところでかわされてしまう。

 慈姑はその隙に体勢を立て直し、四方八方から腕の生えた三月の身体を掴んで駆け出す。

 吹き荒れる風に乗って、黒い毛玉が舞い散っている。

「ここでか――」

「なに?」

 慈姑は一目連から目を離し、地上を素早く見回す。

「毛羽毛現がいる」

 三月の髪を構築する妖怪。

「三月が動けば、どこかでエンカウントするとは思ってた。ごく、低確率で」

「レアエンカウントってこと?」

 その通りだと慈姑は頷く。

「毛羽毛現は石燕の描いた――たぶん――オリジナルの妖怪で、後世になっていろいろ設定が付け加えられてるんだけど、オリジナルの石燕による解説文には、『希有希見』と書かれている。要は――稀にしか見られないという意味」

 なるほどと三月は一目連と遭遇してからずっと熱を持っている自分の身体に相乗される熱感に気を巡らせる。慈姑が三月を抱えて右を向く――熱が引く。左に駆け出す――熱が増す。

「慈姑! そっち! まっすぐ、ちょっと右!」

 すぐに三月の意図を理解した慈姑は三月の言葉と身体から発せられる熱を頼りに毛羽毛現を捜していく。

 その中でも三月の身体からは腕が伸び続け、空中で一目連と攻防を繰り広げていた。

「い――た!」

 慈姑が三月の身体を思いきり木々の合間に放り投げる。黒い毛に覆われた毛玉のようなものが驚いたように飛び上がるが、逃げ出すよりも三月の身体がぶつかるほうが早かった。

 噛み合う。同時に三月の身体から伸びていた腕がきれいさっぱり消えてなくなる。自由に飛び回れるようになった一目連は、これ幸いと凄まじい風を巻き上げる。

「知っているか」

 慈姑はわざと挑発するように、解説を始める。

「アニメでは牽制技の趣きが強いけど、原作初期では、ここ一番の奥の手なんだ」

 三月を抱え上げて、湧きだした髪の毛の切っ先を一目連へと向ける。

「三月、髪」

 どん、と反動で慈姑が吹き飛ぶ。杭打ち機のような勢いをつけて、三月の髪の毛が針となって射出された。

 風をものともせず、一目連の目玉へと次々に針が突き刺さる。耐えきれずふらふらと落下し始めた一目連に、慈姑が三月を投げつけた。

 嘘のように晴れ渡った青空が広がる。泥だらけになった慈姑が荒い呼吸で三月をキャッチしたのを、三月はその目で見ることができていた。

「樹木さん、鬼島さーん!」

 咲の情けのない声が聞こえてくる。足止めには成功したようだが、神経のすり減りは尋常なものではなかっただろう。まさに暴動を起こそうとしている暴徒を舌先三寸でなんとか押しとどめたのである。

「お礼、言っといて」

 腰が抜けたのか、その場にへたり込んだ慈姑が三月に頼む。

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