私の世紀末カルテ

「待ってください、二十年前――一九九九年で、世界の終わりと言ったら――」

「まさか、『大予言』ですか」

 大嶽は頷く。十塚は表情を変えず、大嶽の話すに任せている。

 一九九九年の大予言――ノストラダムスの名は、当時小学生だった三月も覚えている。その年はどうせ世界が滅びるからという冗談を宿題を忘れた言い訳に使う生徒が多かった記憶がある。

「彼らは恐怖の大王を降臨させようとしていました」

 金沢は淡々と、その目論見についての見解を述べる。

「妖怪というミームをそのまま恐怖の大王に置き換えて考えれば、ありえない話ではないですね。あの当時は日本中が異常なほどノストラダムスに踊らされていた。その二十年ほど前から始まっていたあの熱量をそのまま使えば、あるいは顕現させることも可能でしょう」

「陰陽寮の考えは、あくまで見鬼による規定によって非存在を実在化させることが可能であるというものです。少なくとも、当時はそうでした。宮内庁――陰陽寮が動いたのは、その組織によって、見鬼が複数拉致されているという情報を掴んだからです」

 十塚が口を挟んだことに若干の驚きを見せながらも、大嶽はそれに続ける形で口を開く。

「見鬼を一箇所に集め、同じ情報を与え続け、強制的に非存在の規定を何重にも繰り返させる。いわば増幅装置のようなものを作り、それによって恐怖の大王を本当に降臨させようとしていたのです」

「あ、そうか。陰陽寮の見解は、別に間違ってるわけじゃないですもんね。実際に見鬼の方が非存在を活性化させているわけですし、その時には、極めて有効に状況を説明できます」

 なるほどと唸りながら咲が第三者の視点で説明を入れる。

「結果的にその目論見は未然――いえ、事後に防ぐことができました。相手にはタイムリミットがあったのです」

「『七の月』ですね」

 そうだった。一九九九年、七の月――それが恐怖の大王が現れるとされたXデー。つまりは七月さえ過ぎてしまえば、もう恐怖の大王は有効ではなくなる。

 そして三月は思い出していた。大嶽が断片的に語った二十年前の事件の様子。

 あと一歩捜査が早ければ、十塚は人の命を奪おうとしていた――早ければというのが妙に引っかかっていたが、タイムリミット内に集められた見鬼を発見していた場合、十塚はその増幅装置を破壊するため、躊躇いなく全員を殺していたということ。大嶽はその時に見たのだ。それゆえに今回もずっと警戒している。十塚という人間の持つ、残酷なまでの合理性を。

 三月が十塚に非難のこもった視線を送ると、十塚は小さく笑って大嶽と向き合う。

「しかし大嶽さん、なぜ今その話をするのですか。確かにこれまでの話と噛み合う点はありますが、本質的には無関係と言わざるを得ません」

一条いちじょうを覚えていますか」

「ええ。そういえば今はあちらの特捜に配属されていますね」

「私が左遷されてからも、彼とだけは個人的な付き合いがありましてね。先ほどの自由時間の間に、本庁に行ってきました。一条から話したいことがあると連絡があったんです」

 話は簡単です――間を置かず、単刀直入に述べる。

「アンゴルモアはまだ生きている。この妖怪騒ぎの前後から、残党が結集しているんですよ」

 アンゴルモア――ノストラダムスの予言に登場する文言。あるいは恐怖の大王そのもの。その言葉の示すものが、大嶽の追っていた組織の名だと気づかぬ者はこの場にはいなかった。

「――頭目は死んでいます」

 十塚のその言葉に、大嶽は一瞬殺気を滲ませる。三月にははっきりとわかった。大嶽は心中でこう叫んだのだ――あんたが殺したんだ――。

 しかしそれはまばたきをするようなほんのわずかの間で、大嶽はすぐに冷静に状況を説明していく。

「確かに頭目の処刑――いえ、死亡後、構成員は散り散りになりました。ただ、公安は当然現在でも目を光らせています。そこから得られた情報によると、その構成員が相互に連絡を取り合い、行動が活発になり始めた時期と、妖怪騒ぎが起こり始めた時期が一致します」

「彼らの本願は文字通りの世界滅亡――ですが」

「ええ。あなたの見解では、恐怖の大王を降臨させることができても、滅亡させることができるのはよくて日本だけ――でした。私たちは彼らが狂信や滅亡論に浮かされて行動しているとばかり思い、本質が見えていないと判断していました」

 ノストラダムスの予言は確かに世界を席巻したそうだが、日本ほど熱狂した地域はなかったと聞く。それゆえ、たとえ見鬼によって恐怖の大王を生み出そうとも、その効力が及ぶのは日本国内だけ――結局はタイムオーバーとなったが、十塚の見解は正しかったのだろう。それでも最悪日本は滅ぶ。大嶽たちは血眼になって捜査に当たったはずだ。

「ですが、もしそれを理解していた構成員がいたとしたら? つまり、日本だけを手っ取り早く滅亡させることができる兵器の生産。それこそが目的だった者がいたなら、どうですか」

 十塚は沈黙する。

「アンゴルモアが再び結集している。その目的は、世界ではなく、日本という国の滅亡なのではないですか。そして、そのために彼らは妖怪を利用している」

 確かに、今起こっている事態を加速させ続ければ、遠からず日本は滅ぶ。妖怪を敵視し、受け容れられなくなっていけば、その分妖怪は歪められ、人を襲う災厄へと変わっていく。

「その構成員がミームファージに感染しているかはわかりませんが、なんらかの協力関係にはあると思っていいでしょう。妖怪というミームを食らい尽くすことが目的の〈モノ〉と、日本を滅ぼすことが目的のアンゴルモア――恐らく〈モノ〉の行動にアンゴルモアが便乗したといったところでしょうが、〈モノ〉からも働きかけがあったはずです」

 金沢は即座に大嶽の意見を受け入れ、話を擦り合わせていく。

「通報――最初に声を上げた人は、アンゴルモアの構成員、あるいはミームファージの感染者ってことですか……」

 唸るように咲が言うと、少佐が苦い顔をして補足する。

「今はまだ――ですね」

 そう、このまま妖怪が歪められた像で広まっていけば、妖怪を見る人間はどんどん増えていく。そうでなくともすでに今の時点で、何かがあれば全て妖怪が悪いということにされてしまう恐れさえある。文字通りの幻視がいつ発生してもおかしくない。

「ひとまず、特捜に妖怪事件の通報者の身元を洗うように指示を出します。ミームファージへの感染の防疫も徹底しなくてはなりませんが――」

「鑑識からの報告によると、黒沢正嗣の所持していた注射器の内容物は生理食塩水だったそうです」

「感染を直接的に連想させるイニシエーションさえ取れば、感染させることができるということでしょう。ただ、樹木さんの話から考えるに、〈モノ〉の感染経路は注射に限られると見ていいはずです」

 飛沫感染や接触感染ができるのなら、相手を押さえつけてまで注射をする必要はない。つまり注射するということが感染するための最も簡単で確実な経路ということだ。確かに注射は自分の体内に異物が入り込むという強烈なイメージを植えつけられる。

 十塚が連絡事項をメールに打ち込み、全員が束の間の空白の時間の中にいる時、会議室のドアをノックする音がした。

 返事を待たずにドアが開けられ、一目で官僚だとわかるスーツ姿の二人の男が踏み込んできた。

「誰の許可をもってこの場に無断で入るのです」

 十塚がすくと立ち上がり、威厳で武装した二人の男に全く物怖じすることなく向き合う。そういえば十塚も宮内庁の官僚だったと、今さらながらその威厳を持った立ち振る舞いに感服してしまう。

「辞令です」

 感情を一切面に出さず、ただ職務を全うする――十塚の詰問に応じないところからも、その意志は明らかだった。

「鬼島三月巡査を本日付けで懲戒免職とします。委細は後日発表します」

 全員が呆気に取られていた。

 二人の官僚は、両脇から三月を確保にかかる。

「何するんですか!」

 はっとして三月が叫ぶも、二人は無表情のままだ。

「ご自宅にお送りするように言われています」

 そこで三月は二人の意図に気づき、腹の底から熱いものがこみ上げるのを感じた。

「あの人の差し金かっ!」

 山住が瞬時に立ち上がり、スーツの内ポケットに手を忍ばせながら、十塚に視線を送る。完全に打ちのめされたように見えたが、さすがにいざとなれば即座に臨戦態勢を取ることができる。

 十塚は山住を目で制し、自分の指を少しだけ動かす。それで三月は了解して、はらわたが煮えくり返るのをこらえ、黙って二人についていく。

 駐車場でセダンに乗り込むと、ものの数分で三月の実家に着く。霞が関のかつての大名屋敷跡に建っているという、いかにもな高級住宅である。

 三月が玄関に入るまで、二人の男は直立不動でその場から視線を送っていた。恐らく彼らに指示を出しているご主人がよしと言うまであのまま立っているのだろう。大した忠犬ぶりだ。

 家の中は無駄に思えるほど電灯が点っているが、人の気配はない。日中にはハウスキーパーが掃除にきており、帰る時に全ての電灯のスイッチを入れていく。セキュリティーは専門の会社と契約しており万全のはずだが、泥棒除けのつもりだろうか。

 ダイニングに向かうと、テーブルの上には凝った料理が並べられ、向かい合う椅子の片方に、柔和な表情を浮かべた男が座っていた。

「お帰りなさい、三月さん」

 三月は無言で椅子に着き、いただきますと手を合わせてから、フォークとナイフを手に手元に置かれた皿と向き合う。

 鰯のマリネ。丁寧に小骨を全て取り除いた新鮮な生の鰯と、噛めば音の響く葉物野菜がレモンの効いた調味液で見事に合わさっている。

「お口に合ったようでよかった。イタリアンは若い頃に凝っていたんですが、最近また熱がぶり返しまして」

 次の皿に手を伸ばす。三月の好みに合わせた豆の入っていないトリッパ。とろけるようなよく煮込まれた牛の内臓と、その脂とうまみを取り込み引き立てるトマトソース。前に出された名古屋風のもつ煮込み――どて煮も絶品だったが、あちらが白飯やビールが進む味なら、こちらはパンやワインが進む味つけだ。

 タイミングよくワインクーラーで冷やされたスプマンテがグラスに注がれたので、一気に飲み干す。度数はビールより高いはずだが、アルコールの感触が全てキレに回されたようなのどごしで、このマリネとトリッパをつまみにすればいくらでも飲めてしまいそうだった。

 マリネとトリッパをあらかた食べ終えたところで、新たに皿が出される。ボンゴレビアンコ。調理中から漂っていたオリーブオイルとにんにくの香りが猛烈に食欲をかき立て、アサリのうまみが溶けだした白ワインのスープがリングイネに絡まり、口の中に入れた風味は飲み込むのが惜しいほどだ。飲み込むのと同時にスプマンテを煽ると、すっと口の中に風が吹くようで、何度でも一口目の感動を味わえるようだった。

 メインは子羊のロースト。見た目でハーブをほとんど使っていないところを見ると、相当な肉なのだとわかる。ナイフで切って口に運ぶと、ハーブよりもまず羊肉の上質な脂とその香りで満たされる。臭みは一切なく、分厚いにも関わらず羊独特の固さすら感じない。

 全ての皿を平らげ、大きく息を吐く。同時に小さなカップに入ったエスプレッソと、ピスタチオのジェラートが出される。それを堪能し終えると、ごちそうさまでしたと手を合わせる。

 そこで三月はようやく、調理、給仕、後片づけを全て一人でよどみなく行った目の前の男と向き合う。

 鬼島理一郎りいちろう警察庁長官官房総括審議官――三月の父親。趣味は料理。凝り性ゆえか天性の才能か、あらゆるジャンルの料理をプロ顔負けのレベルでものにしている。

 三月が父親に抱くのはあくまでも憎悪にも似た反骨心だ。今の料理も、普段コンビニ弁当ばかりの三月には涙が出るほど美味だったが、それで心を掴まれたりはしない。この父親に対して、心と胃袋を完全に分かつ術を三月は身につけていた。

「なんのつもりですか」

 三月は満腹の幸福感を押し込め、威嚇するように言葉をぶつける。

 料理を出されたことではない。三月と二人の時、理一郎は決まって凝った料理を自分で作る。それを無言で堪能するのは三月のルーティンワークのようなものだ。

「三月さんには今日から自宅謹慎をしていただきます」

 三月が唐突に懲戒免職になったことを、三月はすぐにこの男の差し金だと判断した。その疑惑についてはぐらかすわけでもなく、当然のことのように話を進める。

 実の娘に対しても他人行儀の敬語なのは、別に三月が年を取ってから生まれた子供だというわけでもない。理一郎は誰に対しても同じ口調で話す。たとえ孫ができようと、この口調のままだろう。

 三月もそれを受けてか、はっきりと壁を作りたいからか、父親に対して敬語で話す。他人が見れば絶対に親子の会話とは思わない。

「理由は」

「三月さんが知るべきことではありません」

 そこで理一郎の携帯電話に着信があった。短く応答し、小さく頷く。

「お客様のようです」

 慌ただしい足音を響かせて部屋に入ってきたのは、肩で息をした慈姑だった。

「いらっしゃい、樹木さん。我が家へ遊びにいらっしゃるのは随分久しぶりですね」

 慈姑は理一郎の言葉には答えない。

「慈姑、ひょっとして宮内庁から走ってきた?」

「うん。疲れた」

 理一郎はコップに入れた水を慈姑に差し出す。慈姑は会釈のなりそこないをしてそれを一気に煽った。

 それでひと息吐けたのか、慈姑はダイニングと直接繋がっているリビングのソファにゆっくり腰を下ろす。

「三月」

 離れたところから、慈姑は三月に語りかける。

「僕の持っている情報は少ない。それでもこのタイミングということは、おじさんには絶対に何か考えがある。聞き出すんだ。僕も――全部話すから」

「ということは樹木さん、今回も協力してくれるということですか。そのためにやってきてくれた、と」

 慈姑は沈黙する。

 慈姑と父親に、過去に何かあったということか。それも恐らくは――三月に関することで。

「話してください」

 三月は理一郎に向き直り、詰問するように迫る。

「言ったでしょう。三月さんが知るべきことではないんですよ」

「私は、あなたの思い通りにだけはならない」

「ええ、存じています。だからそのようにしてもらっていました」

 そこで三月は言葉に詰まる。三月が勉強をしなくとも、その結果ノンキャリアの道に進もうとも、この男は何も言わなかった。

 三月が父親と狭義には違うが広義には同じである道に進んだのは、別段親からの押しつけに反発したからではない。父親は三月の進路に対して何も口を出さなかった。

 はっきり言って、三月はひとりよがりな反骨心だけでここまで突き進んできたようなものだった。

「ですが、私には最低限守らなければならないラインがあるのです」

 ずっとそうである柔和な表情のまま、理一郎は断言する。三月はそれを挑発と受け取った。

「私が何をしようとあなたには関係ない」

「それはそうでしょう。ですが今は状況が違います」

 理一郎は慈姑に視線を向ける。

「樹木さん、今から技師を呼びます。あなたはあの時と同じことをしてください」

「――三月」

 慈姑は理一郎とは視線を合わさず、三月に向かって話す。

 三月にはわかった。これは理一郎に対する返答だ。

「僕は、二度とあんなことは御免だ。三月を傷つけ、なにより僕が耐えられない。だから今まで言えなかった。でも、いつかは言わなくちゃならないことだったんだ。たとえ三月が僕を憎むことになろうとも。特に、今は」

 慈姑は自分の両手を開き、握る様子をじっと見る。

「三月の目を潰したのは、僕だ」

 三月は即座に理一郎に憤怒の形相を向ける。

 今の話の流れから、理一郎がお膳立てをして慈姑に無理強いをしたことは明らかだ。慈姑が三月に話すことをここまで躊躇った過去――それを植えつけた相手を、三月は絶対に許せない。

「私は別にどうでもいいです。小さな頃見鬼だったってこともついさっきまで知らなかったし、今まで支障もなく暮らしてきました。それでも、慈姑を苦しめるようなことだけは認めません」

「三月さん、視えるということは、病気のようなものです。私はそれを治療しようと、樹木さんの手を借りたにすぎません」

「僕も――それを受け入れたんだ」

 慈姑が俯きながら吐露していく。

「あの頃の僕は、三月が怖かった。見えないものが視える言動を、驚かせるでも怖がらせるでもなく、ごく自然にしていた。僕はとっくに、妖怪が存在しないことを理解していた。その理解を脅かす三月は――純粋に恐怖でしかなかったんだ。だから、おじさんに病気を治すためだと言われて、僕は、この手で――」

 うなだれる慈姑を見て、三月は気づいた。慈姑がその視座に至るために必要だと言った、矛盾の内包。妖怪が存在しないことを認め、妖怪が実在化していることを認める――その矛盾を併せ呑むに至ったということは、つまり――。

「でも、慈姑は私のことを信じてくれたんでしょ?」

 突然頭上に光が差して驚いたように、慈姑は顔を上げる。

「――うん。僕は、三月の言葉を疑ったことは、一度だってなかった。僕は妖怪は存在しないと理解している。年齢を重ね、知識が増えていけばいくだけ、その常識は確固たるものになっていった。その中で三月の視たというものを信じることは、本当に地獄の苦しみでしかなかった。でも、仕方がないんだ。三月を疑うことなんて、僕にできるわけがないんだから」

 本当に――どうしようもないと三月は笑う。

 早々に三月の言動を虚妄だと切って捨ててしまえば、どれだけ楽だったか。それは慈姑自身、いやというほどわかっているだろう。だというのに、慈姑は三月を信じ続けた。三月が目を潰されたあとも――いや、慈姑が自分で三月の目を潰したからこそ、それまでの三月のことを一層信じ抜くことができた。受け入れることのできない矛盾を抱え続けた結果――慈姑はその視座へと辿り着いた。

「だったら、慈姑は何も悪くない」

 三月はそう断言し、再び理一郎と向かい合う。

「三月、僕はさっきまで忘れていた――いや、気づかなかった。でも、大嶽さんの話を聞いて気づいたんだ。僕が三月の目を潰したのは、二十年前の七月だった」

 三月はじっと理一郎を睨む。理一郎は柔和な表情のまま、それを受け止める。

「鬼島さんは当時、私たちのチームの理事官でした」

 十塚の声。三月の袖口から、十塚の忍ばせた細い狐のような式神が顔を覗かせた。

「十塚さんですか。やはりあなたは抜け目がないですね」

 驚くというよりは感服しているようだった。三月はかつて一度でもこの男が自分のペースを崩されたところを見たことがない。

 十塚の式神はまた三月の服の中に身を隠す。目的はあくまでこの状況の把握であり、実力行使ができるものではないだろうし、できる相手でもない。

「アンゴルモアは、見鬼を集めていた。私を彼らに渡さないためですか」

 理一郎は穏やかな表情のまま沈黙する。そう易々と答える気はなさそうだ。

「あの時、おじさんのほかに、もう一人誰かがいた。かなり高齢の、背の高い、左目に傷のある男――」

 慈姑の言葉に、三月の袖に潜む式神が反応する。

「それは当時の陰陽頭――陰陽寮のトップです」

 狙ってやったな――三月は慈姑のしたたかさに舌を巻く。印象に残りやすい風体の人物が当時理一郎と一緒にいたこと――そして、先ほどの理一郎の言葉から、その人物が三月の目を潰すために必要な「技師」だと見抜いた。そうなれば自ら「技官」と名乗った十塚と同じ穴の狢だと判断し、十塚がこの場を監視し、必要ならば口も挟めることを確かめてその人物の特徴を口にする。結果、十塚によってその人物が割り出された。

 今頃十塚はその当時の陰陽頭から情報を聞き出しに奔走しているだろう。そうなればいくら理一郎が口を閉ざそうと無意味。つまり――。

「なるほど。いいチームですね」

 理一郎は今にも拍手でも送りそうな顔で三月を見つめた。

「わかりました。本意ではありませんが、私から説明をさせてもらいます」

 その前にひと息吐きましょう――理一郎は立ち上がり、茶筒と電気ポットをテーブルに運ぶと、急須に茶葉を入れて湯を注ぎ、あまり時間を置かずに三つの湯呑みにほうじ茶を淹れる。

 三月、リビングの慈姑にそれぞれ湯呑みを出すと、自らも湯呑みを引き寄せて香りを堪能しながらひと口飲む。

 三月もとりあえず口をつける。普段から日本茶を飲まない三月にも高級だとわかる香りと味だった。

「先ほどの話から、三月さんが二十年前の『七の月』事件について理解している前提で話を進めます。疑問があればその都度仰ってください」

 三月が文字通りひと息吐くと、理一郎はそう前置きしてから話し始めた。

「アンゴルモアが最終的に恐怖の大王を降臨させることができなかったのは、見鬼による増幅装置の最後の部品が手に入らなかったからです。彼らはそれを求め続け、得られないまま八月を迎え、頭目は十塚さんによって処刑されました。それをもみ消したことが私の権力行使の始まりですが――その話は今はいいでしょう。結果的には一人の捜査官の左遷だけにとどまったのですから」

 大嶽のことだ――三月はぐっと歯を食いしばってこらえる。過去に自分を生贄にした男の娘と知っていながら、大嶽は三月をずっと一人の刑事として扱ってくれた。感情ばかりが優先される警察という人間関係の中で、大嶽はそれを貫いた。理一郎を睨みながら、三月はひたすらに大嶽に感謝した。

「増幅装置の最後のピース――それは言うなれば投影機です。規定に規定を重ね、増幅された恐怖の大王を、そのままこの世に顕現させる。そのためのプロジェクターが彼らには必要でした。このことを突き止めた当時の陰陽頭は、私とは――彼から見れば――昵懇な関係を築いていましてね。家族の話をする程度の関係性です。彼自身、投影機の存在を非常に危険視しており、他言は無用と前置きされてからの話でした。そのことを直接伝えられた私はしかと情報を秘匿し、彼の協力を得てその部品の破壊工作を行いました」

 慈姑が愕然と口を半開きにしている。

「その部品も、増幅装置と同じく生きた人間――見鬼です。ならば、その目を潰してしまうのが最も手っ取り早い。私は陰陽頭の協力を得て、それを実行しました。樹木さんの手を使って」

 三月は目の前の男を呆けたように見つめた。

「〈妖怪ばけもの〉! お前は知っていたのか」

 慈姑が虚空に向かって叫ぶ。返答はない。ミームファージのことだから、どこか、あるいは三月の中からそれを聞いているのだろうが、この場には〈妖怪ばけもの〉の使えるアバターがない――あるいは単に、答える気がないのか。

 理一郎は慈姑の突然の声に驚くことすらしない。この男がミームファージを理解しているとは考えにくいが、元より自分のあずかり知らぬ話が目の前で繰り広げられようとも、わざわざそれに質問するような人間ではない。自分がわからないのならわからなくていい――そうしたある種の度量を持っている。

「私が、最後のピースだった……?」

「そうです。三月さんの目を潰してしまえば、アンゴルモアの計画は成立しない。彼らは血眼になって最後のピースとなる人間を捜していたようですが、運悪くそれは彼らを追う理事官の手元に、いつでも壊せる状態であったのです」

 理一郎は純粋な警察官僚だ。見鬼ではないし、十塚から説明を受けるまでそうしたことに関心もなかっただろう。投影機となる人間の特徴を聞き、それが三月に当てはまったことで、陰陽頭と三月を引き合わせて目を潰させた。

 吐き気がする。三月は切り離したはずの感情と胃袋が、本来とは逆の方向に連動していくのを感じた。この男は自分の娘を必要ならば簡単に破壊できる道具程度にしか思っていないということか。

「それは違う、三月」

 慈姑がわずかに上擦った声で、三月の泥沼へと落ちていきそうになる思考を引きずり上げる。

「おじさんは三月の目を潰すのに、僕を使った。その意味を考えてほしい。目を潰すといっても、見鬼としての目の機能を破壊する行為で、当然危険は伴うけど、実際の目には影響がない。それを行うには三月の心に踏み込めるだけの人間が必要だった。だからおじさんは僕を使った。それだけの手間をかけてまで、三月の見鬼としての目だけを封じたんだ。三月の実生活に影響を与えず――三月をアンゴルモアの手から守るために」

 慈姑の言葉は、三月にとっていつだって真実だ。

 三月は湯呑みを手に取り、ぬるくなったお茶をゆっくりと流し込む。熱さを失ってもなお香ばしく芳醇な液体が胃袋の中に落ちていくと、大きくほっと息を吐く。

「私を前線から引き戻したのは、私が見鬼に戻ったのと、アンゴルモアの復活を知ったからということですか」

「そうですね。私のかつての部下に一条さんという人がいまして、彼が私にあなたの目が治ったようだと情報を流してくれました。アンゴルモアがまた投影機を求めないとも限らない。それを未然に防ぐため、三月さんの目をもう一度潰さなくてはならないと判断しました。樹木さんは協力してくれないようですが、三月さんの心に踏み込める人間を捜し出せばいいでしょう」

「そんな人間、慈姑以外にいないと思いますけど」

「そうですか。ならば三月さんには厳重に自宅謹慎をしてもらわなくてはなりませんね」

「私が何をしようと、あなたには関係がないでしょう」

「ええ、その通りです。ですが言ったはずです。私には最低限守らなければならないラインがあると」

 理一郎は柔和な表情を崩すことをせずに、さも当然のように言い放つ。

「三月さんを守ることです」

「――は?」

 三月は自分の耳を疑った。全く予想外の言葉を、いつもと同じ調子で伝えられ、理解がまるで追いつかない。

 理一郎は三月に、父親らしい感情を向けたことなどなかった――三月はそう思っているし、客観的に見てもその通りのはずだ。料理もはっきり言ってレストランで出されるような感覚で、ただ自分の腕を振るいたいだけなのだと思っていた。

「なんのつもりですか――」

 三月は驚愕に声を震わせながら、なんとか曖昧な質問を投げかける。

「私は人を愛するという感覚が――もっと言えば、他人に情動を向けるという感覚が全く理解できません。家族だから、父親だからと言って、三月さんに干渉する理由は、全く見当たりませんでした。私と三月さんは、疑いようなく他人です。血の繋がりが人格の共有を可能にすることなどありません。それは絶対に、互いを理解することはありえないということです。私は三月さんを理解できませんし、三月さんも私を理解することはできません。そもそも人間とはそうしたものなのです。それを家族や血の繋がりを理由に無理強いするのは、ただの苦痛でしかありません」

 至極真っ当だが、父親が娘にする話ではない。それすら理解できない――というよりは、この男はあきるほどに徹底して合理的なのだ。まず合理性ありきで、それが強すぎるゆえに、感情などほったらかしになっている。そもそも感情が存在するのかさえ怪しいものである。

「ただ、これまでに一人だけ、私が一緒にいることに安らぎを覚える相手がいました。人を愛するということは私にはわかりません。ただ、それでも一緒にいることが苦痛ではないということは、大きなメリットでした。ちょうどその頃、私はキャリアの道を邁進しているところでした。馬鹿げた話ですが、結婚しているということはそれだけで社会の中で有利に働くのです。私はその旨をきちんと伝えた上で、双葉ふたばさんと結婚しました」

 鬼島双葉――母親の顔を、三月は写真でしか知らない。三月を産んですぐに亡くなったと聞いている。

 理一郎が損得だけで動いたのか、本当の意味で双葉を愛していたのか、三月にはもうわからなかった。ひょっとしたら理一郎自身わかっていないのかもしれない。

「双葉さんが亡くなる前、私に二つのことを頼んでいきました。三月さんにおいしいごはんを食べさせること。そして、何があろうとも三月さんを守ること。私はそれを、しかと承りました」

 それを――ひたすらに守っていたというのか。

「料理を勉強しました。三月さんにおいしいごはんを食べてもらうために」

 やっぱりこの男はおかしい――家庭で出す料理を、レストラン同然のクオリティにまで高める馬鹿がどこにいるというのだ。

「三月さんに危険が迫るようならば、全ての力を使って守るために、ひたすら上を目指しました」

 完全にかけ違えている――三月に干渉しないことをよしとしながら、国家権力を利用して個人を守れる立場を目指すなど、愚の骨頂である。

 本当に――どうしようもない。理一郎は最初からまともな人間の感性を持っていなかった。それでも、ただ一人の愛した女の言葉を守るために行動した。それは間違った方向に吹っ飛んでいくようなことなのかもしれない。ただ、そこにはあったのだ。確かな――何かが。

「お母さんのことが――大切だったんですね」

 三月が声を詰まらせながら呟くと、理一郎は微動だにしないその表情のまま、今までと全く同じ調子で答える。

「少なくとも私にとっては、三月さんと一緒にいることは、双葉さんと一緒にいることと同じ感覚ですよ」

 三月はこらえ切れずに、テーブルに顔を伏せた。

 ふざけるな――今までそんな素振りなど毛ほども見せなかったくせに。それはつまり、三月を確かに愛していると言っているのと同じではないか。

 悔しくて悔しくて、三月は嗚咽を音に出さないように歯を食いしばった。こんなところを見られるのも、途轍もなく悔しい。これでは――三月が馬鹿みたいじゃないか。

 理一郎は眉一つ動かさず、新しいお茶を淹れると、静かに三月の前に差し出した。

 ようやく顔を上げた三月は、真っ赤になった目をこすりながら湯呑みを手に取る。二煎目でもまだ香りも味も落ちていない。

「――私を守りたいことはよくわかりました。それでも、私は前に出ないといけないんです」

「三月さんはすでに警察官ではありません。当然、捜査に加わることは認められません」

「いいえ、鬼島さんは日本妖怪愛護協会のメンバーです」

 十塚の式神が顔を出す。

「そうだ――なら、私が警察官としてではなく、日本妖怪愛護協会のメンバーとして行動することにはなんの問題もないはずです」

「懲戒免職になったことをお忘れですか。しかるべき謹慎処分を受けてもらわなければなりません」

 間違いなく、懲戒免職などでっち上げである。三月を家の中に閉じ込めておくためだけに、理一郎が黒と言った結果、黒になったにすぎない。

 だが、互いに一歩も引かない構えになっている。これでは埒が明かない。

「私は――強いですよ」

 三月は真剣に、そう言った。

「アンゴルモアだかなんだか知りませんが、何人束になってかかってこようが、一蹴するだけの力が、私にはあります」

「言っている意味がよくわかりません。確かに警察官である以上ある程度の武道は修めているでしょう。それでも、三月さんが一騎当千の力を持っていないことは明らかです」

「私は――多分もう人間じゃないんです」

「見鬼は皆同じことを言うそうですよ。ですが、三月さんが人間だということは私が保証しましょう」

 三月はそれを笑い飛ばし、左目を大きく見開く。

 凄まじい突風が室内に吹き荒れ、理一郎は椅子ごと壁に叩きつけられた。

 理一郎は痛みに顔を顰めることすらせず、床に落ちて割れた湯呑みを片づけ、椅子を直して元の場所に座る。

「それが、どうかしましたか」

 三月は絶句した。圧倒的かつ理解不能な力をぶつけたにも関わらず、理一郎は平然と三月と向き合っている。この男にはどうあっても勝てない――そんな確信を三月に抱かせるには充分だった。

「なんで――」

「私の目の前にいる相手が、間違いなく三月さんだからです」

 理一郎はやはり柔和な表情のままだ。だが直接的な痛みを与えようとも崩れないその表情を、少しだけさらに緩める。

 それは理一郎が初めて見せた、社交辞令ではない笑みだった。

「一条さんの報告からすぐ、三月さんの情報が数日間にわたって途絶えた時、私は気が気ではありませんでした」

 それは――三月の身体がバラバラになっていた間。理一郎は一条から情報を受け取って、すぐさまこうして三月を確保しようと働きかけたのだろう。だがその時三月は他者に認識できない状態に陥っていた。

「ですが私は今こうして三月さんを見ている。これ以上に確度の高い情報はありません。その他一切の情報は、全くの無意味です」

 それは――いま起きたこともまた、三月の仕業だと認識するに足るということ。その上で、三月はあくまで三月だと確信を持っている。この人もきっと、三月がただの肉塊になろうと三月だと認めてくれるのだろう。

「十塚さん」

「なんでしょう」

「三月さんの身の安全を確実に保証できますか」

「それは難しいと言わざるを得ません。ですが、鬼島さんは我々にとっても切り札となり得る存在です。日本妖怪愛護協会には、絶対に必要だと断言します」

 嘘でもいいから安全だと言えばいいのに、十塚は妙なところで律儀だ。

 理一郎は頷くと、三月をしっかりと見つめる。

「三月さん。必ず、必ず、自分の身だけは守ると約束してください。もし何かあれば、真っ先に私に連絡を」

 三月は力強く頷く。理一郎が立ち上がったのを合図に三月も立ち上がり、慈姑と一緒に玄関に向かう。

「それと、自分を人間ではないなんて思ってはいけません。三月さんは、私よりよっぽど人間らしい」

 真面目に言っているのか冗談なのか、理一郎の変わらない表情からは窺い知れない。とにかく三月はそれに頷き、玄関を出て慈姑と一緒に宮内庁へと真っ直ぐに歩き出した。

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