おいしいね~傑作物語
三月の話をじっと聞いていた慈姑は、話が終わると眉を顰めて何やら考え事を始めたようだった。
「陰陽寮の――見鬼の考えはそうなのか――間違ってはいない――むしろ合理的――だけど――」
慈姑が思考を声に出して悩む時――それは単純な混乱ではなく、半分三月に話しかけている状態なのだ。理解してくれる必要はない。だが聞いてほしい。そんな時に、慈姑は三月の前でぶつぶつと呟く。
「だけど、なに?」
三月に訊かれて、慈姑は気まずそうにうっと息を詰まらせる。それに無自覚なのが、いかにも慈姑らしい。
「話せない。でも、今のところは、十塚さんの方針に従えば大丈夫だと思う」
「慈姑も信じるんだ、十塚さんの話」
三月としては意外だった。慈姑は妖怪は存在しないという立場を取っているはずだが、妖怪は存在すると堂々と宣言する十塚の話をすんなり受け入れられるのか。
「いや――僕は十塚さんと考えは違うよ。でも、それが陰陽寮の考えならそれでいいと思う――今のところは」
また『今のところは』だ。まるで、この先何かが起こるとでも言いたげな煮え切れない言動に、三月は少し苛立つ。
「慈姑、知っていることを全部話せなんて言わない。話したくないんなら聞かない。でも、もし慈姑が話さなかったせいでやばいことが起きたなら――」
「僕にそんな力はない」
慈姑にしては珍しく、断固とした物言いだった。
「僕は知ってしまっただけなんだ。理解しているだけの能無しなんだよ。表にも裏にも出ることは許されない。だって――そのせいで」
慈姑はじっと三月の目を見ている。三月には心を開いている慈姑だが、ここまでしっかり目を合わせてくることは珍しい。三月は思わず照れて目を伏せてしまった。
それで我に返ったのか、慈姑は慌てて目を逸らした。結果的に、三月の苛立ちも慈姑の苦悩も雲散霧消してしまった。
「慈姑」
店のほうから幸也の呼ぶ声が響く。慈姑はびくりと身を震わせ、三月を窺い見る。
三月以外の人間とまともに喋れないと公言している慈姑だが、それは父親である幸也も例外ではない。家族の会話はほとんど成立しないと聞いているし、その様子を三月は何度も直に見ている。それでも互いの信頼で家族としては成立しているので、三月は特に心配していない。
しかし、幸也が慈姑を店のほうへ呼ぶというのも珍しい。建前上は慈姑は店を手伝っていることになっているが、対人関係がこれなので店番は不可能に近い。なので慈姑の定位置は人の目に触れないこの店の奥になっているし、幸也もそれを認めている。
仕方ないと三月は立ち上がり、慈姑を抱え上げるように立ち上がらせ、自らが前に立って店先に慈姑を連れ出した。
店の中では相も変わらず仏頂面の幸也と、見るからに気風のいい笑みを浮かべた中年女性が向かい合って話し込んでいた。
「あなたが三月さん?」
女性に訊かれ、三月は頷く。慈姑を呼んでおいてこちらに話しかけてくるのも妙だとは思ったが、よく考えれば慈姑の気質を熟知している幸也が無理に慈姑に話させるとは思えない。詰まるところ三月を通訳として使うつもりなのだ。
女性は三月の後ろでおずおずと会釈する慈姑に笑いかける。慈姑がわずかでも社交性を見せるということは知らない相手ではないということだ。慈姑を呼んだのもこの女性によるものだろう。
「私は庄内書房の
礼子は人好きのする笑顔を浮かべたあと、自然な変化で至極真面目な顔になり、
「昨日、かぶきり小僧に襲われたの」
と言った。
「水飲め、茶飲め」
慈姑は小さくそう呟いた。三月にはさっぱり意味が伝わらないが、礼子はうんうんと頷いている。
「そこまではよかったのよ。私も驚いたけど、それ以上にかぶきり小僧に会えたことでテンション上がっちゃって。でも、突然そのかぶきり小僧が斧で切りかかってきたの」
「
再び呟く慈姑。やはり三月にはなんのことやらさっぱりなのだが、礼子はそうそうと頷いている。
「おかしいでしょ? いや、妖怪が出た時点でおかしさマックスなわけだけど、それにしたって斧で襲ってくるかぶきり小僧なんて無知もいいとこじゃない」
慈姑は黙って考え込んでしまう。どうやらここから三月の出番のようだ。
「あの、よかったら何があったか詳しく聞かせてもらえませんか? 私これでも一応警察官ですし、傷害事件なら被害届なんかも……」
それを聞いて礼子は何がおかしいのか声を上げて笑った。
「ごめんなさい、意味不明だった? じゃあ詳しく話すけど、多分事件にはならないと思うわよ」
昨日の夕方のことである。礼子は神保町の映画館から自分の店である庄内書房に向かって歩いていた。その日は一日休んでいいと店主であり師匠である父から言われていたものの、なんというか店に顔を出さないと落ち着かず、もうやることはないだろうとは思いつつ足が店のほうに向かっていたのだと礼子は述懐した。
人気のない細い通りを突っ切ろうと歩いていくと、道端に小柄な人影が立っていることに気づいた。まずシルエットの時点で妙な相手だとわかる。背格好は子供だが、着ているのは着物である。それも成人式や葬式で着るようなきちんとしたものではなく、安っぽくは見えないがみすぼらしく古い、とても子供に着させるような代物ではなかった。
またその髪型も妙だった。綺麗というより、凄まじく雑に鋏を真一文字に入れたようなおかっぱ頭である。
とはいえ子供のようであるし、不審者というわけでもないだろうと礼子は無視して目の前を過ぎ去ろうとした。
ところがその子供は急に礼子の前に立ちはだかった。
「水飲め、茶飲め」
そう言ってきたのを聞いて、礼子ははっとした。
これはかぶきり小僧だ。
千葉県の妖怪で、山道や夜道を行く者の前に現れて、先ほどの言葉を放ってくる。狢が化けたものとされるが、実害があるという話は残っていない。穏当な妖怪である。礼子は根っからの妖怪好きで、すでに庄内書房の一画を妖怪や民俗学の資料でいっぱいにしているほどである。
当然のことながら、礼子はまずコスプレを疑った。髪型は鬘、服は自作したもの――いや、それにしてはこの服はコスプレ特有の安っぽさはないし、しかも何年もつぎはぎしてきたような年季の入りようである。とても衣装として作ったものには見えない。
冷静に判断するに、これはかぶきり小僧である。礼子は舞い上がった。
その時である。かぶきり小僧はどこから取り出したのかその身に似合わぬ巨大な斧を振り上げており、礼子の脳天を叩き割らんかという勢いで風を切る音とともに一撃を放つ。
驚いて後じさると、斧はアスファルトにぶつかって火花を上げた。子供の背格好ゆえ、斧の分しかリーチがなかったことが幸いした。
気づくと子供の姿は消えており、礼子は釈然としないまま店に戻った。
「釈然としないでしょう?」
「はあ……消えたというのがなんとも妙ですね」
「違う違う。かぶきり小僧が斧で襲ってきたってこと」
そこなのかと三月は困惑する。
「かぶきり小僧は、通行人に水と茶を勧める。それだけの妖怪なの。『かぶきり』っていう名前から『株切り』――樵――斧を連想することもできるけど、これは明らかな間違いで、おかっぱ頭の古語である禿切が由来だと思われる。禿切は実際に『かぶきり』とも読まれていたから、こじつけというわけでもない」
「あの、栗田さんは――視えるんですか?」
恐る恐る訊いたのだが、礼子は真顔で否定した。
「だって、妖怪好きで妖怪が本当に存在するなんて思ってる人、ほとんどいないでしょう。まあ出たもんは出たもんだし、観察した結果かぶきり小僧だと結論づけたけど、こんなこと他人に話したら正気を疑われるってことも自負してるわよ」
それを話したということは、三月――ではなく慈姑は相当信頼されているらしい。慈姑も相当な妖怪好きであるし、ひょっとしたら二人はまともな会話が成立するかどうかは別にすると、結構な仲なのかもしれない。
その慈姑に意見を聞こうと振り向くと、すでに姿がなかった。むっとして連れ戻そうかと奥に目を向けると、一冊のどこかで見たような本を持って慈姑が戻ってきた。
本を三月に手渡し、三十八ページ、と呟く。
見覚えがあると思った本のタイトルは、『正体判明! 超解読! 世界の妖怪』。表紙もタイトルの字体も、「牛の首」を見つけた『全部本物! 超解読! 日本の妖怪』とそっくりだ。もしやと思って著者の名前を見ると、同じ黒沢正嗣とある。
いやな予感を覚えながら言われた三十八ページを開くと、案の定かぶきり小僧の項目があった。
きこりの怨念! かぶきり小僧
働いても働いても生活が楽にならないきこりの少年は、ある日間違って斧で自分の首をはねてしまった。その少年の怨念から生まれたかぶきり小僧は、道を通る人の首を斧ではねてしまう妖怪である。
礼子にもページを開いたまま本を渡す。礼子はあからさまに嫌悪感を浮かべた顔でその内容を読むと、慈姑を見つめる。
「このままだと、取り返しがつかなくなる」
慈姑は、ひとりごちるように小さな声で呟いた。
「そうね。私は妖怪の存在を信じていない。その前に妖怪が、歪められた姿で現れた。これはいくつもの意味で常軌を逸している。黒沢正嗣に直接会いにいくっていう手も考えたんだけど――」
「礼子お姉ちゃんじゃ、相手にしてもらえない」
随分な物言いだと思ったが、その点は礼子も承知しているようだった。
「そういうわけだから、慈姑が行きなさい」
慈姑は勢いよく何度も首を横に振る。
「大丈夫よ。本名もペンネームもハンドルネームも一切世間に出てなくて、私を言い負かせる相手なんて慈姑くらいだし、ファンを装えば案外簡単に入り込める。直近に本人が出てくるのは、確か来週の日曜日のイベントね」
「無理」
俯いたままなんとかそれだけ絞り出した慈姑は、今にも泣きだしそうに唇を噛んでいる。
「うーん、まあ無理なら仕方ないか。私のほうでも刺客になりそうな人間を捜しておくから、決まったらまた言いにくるわね。じゃあ、三月さんもありがとう」
礼子は幸也にも礼を言って、店を出ていった。
再び奥に引っ込んだ慈姑は、未だに興奮と動揺が収まらないようで、三月が相手だというのに口を開こうとしない。三月は別段焦れることもなく、慈姑の気がすむまで放っておこうと先ほどの本に手を伸ばす。
「駄目だ」
慈姑が短く、だが鋭く三月を制する。
「そんな本、三月が読むべきじゃない」
やっと口を開いたかと苦笑しながら、三月は慈姑と向き合う。さて何から聞こうかと頭を捻る。先ほどの会話は三月にはほとんど理解できなかった。
「黒沢正嗣って人、そんなに有名なの?」
「有名は有名だよ。オカルトライターの肩書でテレビにも出てるし」
「なるほどね。だから栗田さんを相手にしないのか」
テレビに出ているほどの大物なら、古書店の跡継ぎなど歯牙にもかけないということだろう。そう思ったのだが、慈姑は三月の考えを否定する。
「名前が売れてるだけの小物だからね。妖怪をきちんと扱う界隈では全く相手にされてないから、自分より大きいとわかる相手には直接手を出せないんだよ。庄内書房の栗田礼子といえばその筋では有名な人だから。格が違いすぎる」
そもそも――慈姑は自分で言うところの「オタク特有の早口」に移行していく。
「テレビという媒体と妖怪は相性が悪いんだよ。テレビの心霊番組みたいなのはまず妖怪が存在する体で話を進めようとする。妖怪を真面目に研究するような人は当然そんな番組には協力しない。妖怪が存在する前提で研究をする人は確実にゼロと言っていいからね。結局出てくるのは妖怪はいるだとか主張する名前を売って仕事がほしいオカルトなんとかっていう人間で、テレビ側もそういう人間のほうが番組作りが楽だから利害の一致で収まるところに収まる。妖怪を扱う上でここまで最悪な土壌もそうはないよ」
慈姑の調子が戻ってきたことを確認して口の中で笑い、三月は本題に入る。
「かぶきり小僧……だったけ? それも、『牛の首』と同じことが起きてるの?」
途端に苦い顔になる慈姑。だが、口を閉ざすことはしない。
「そうだと思う。でも、なんで今――」
そこで慈姑ははっとしてスマートフォンを取り出し、凄まじい勢いで操作する。鬼気迫るその様子を三月は固唾を呑んで見守る。
「やられた――もう手遅れだ――」
呆然とスマートフォンの画面を見つめる慈姑は、その身をわなわなと震わせている。恐怖――絶望――あるいは、怒りか。
慈姑はスマートフォンの画面を三月のほうに向けた。見覚えのあるページ構成――ウィキペディアだ。
項目名は「かぶきり小僧」。その内容は礼子が説明してくれたものに加えて、慈姑が探し出した本の記述も書かれていた。
「今まで、ウィキペディアにかぶきり小僧の項目は存在しなくて、『狢』の項目で解説されていただけだった。でもつい最近、この記事ができている。そして参考文献として、この本を使っている。最も恐れていたことが起きた――」
まるでこの世の終わりのようなトーンで、慈姑は肩を落とす。なぜ慈姑がここまで絶望するのか――三月にはまだわからない。それでも、十塚の話を鑑みればこの状況が危険なものだということは察しがつく。
慈姑は自暴自棄になったように、矢継ぎ早に言葉を並び立てる。
「前に話した通り、書籍という形態に載った情報とインターネット上の情報の信憑性には大きな差がある。ところがある一つのサイトに限れば、インターネットのほうに軍配が上がる。ウィキペディア――その影響力は、あまねくインターネット世界の頂点に立つ。本に書かれた情報は全て本当だと信じる人間が多いのと同様に、ウィキペディアに書かれた情報は全て本当だと信じる人間は、圧倒的に多い。集合知という言葉があるように、多くの人間によって峻別され、検証された情報は、確かに価値のあるものかもしれない。コンテンツ人口が圧倒的に多い分野では、それが有効に働くこともあるのは認める。でも、こと妖怪に関しては、ウィキペディアは最悪の鬼門と言っていい」
慈姑の言葉の奔流は止まらない。完全にブチギレてるな――三月は水を差さないように口を噤んだ。
「妖怪という文化は、はっきり言ってサブカルチャー以下の地位しかない。妖怪そのものを研究している人の数は、恐ろしく少ない。妖怪に関連した研究者というのは、あくまで日本の文化や民俗学を研究しているのであって、妖怪はその分野の中に含まれているにすぎない。妖怪自体の地位というのは本当に信じられないくらい低いんだ。それでも、妖怪はサブカルチャーの中に頻繁に顔を出す。そこで妖怪の名前を知った人間が最初に辿り着くのは――間違いなくウィキペディアなんだ」
例え話をしよう――死んだような目を爛々と輝かせ、慈姑は続ける。
「ウィキペディアがどの文献にも載っていない、新しい妖怪をでっち上げたとする。それが広まったあとでまともな人たちが訂正、あるいは削除しようと議論を始める。ところが、その妖怪についての参考文献が提示される。ウィキペディアも所詮インターネット上の存在。書籍にはびっくりするほど弱いんだ。書籍に載っている情報で記事を補強することが正義とされているから、どんな嘘でも書籍上の情報という出典さえあれば残しておくことができる。そしてその参考文献は、ウィキペディアをソースに書かれていたというオチがつく。ウィキペディアと悪書はこうして相互に補完しあって、地獄を作り上げるんだ」
書籍とインターネットの信憑性の格差――その例外としてのウィキペディア。そしてウィキペディアにおける出典の重要性。そこに加えて、妖怪という分野の特異性と、不安定さ。
「その地獄の一端が、この項目。明らかに間違った情報を載せた本をソースに項目を作っている。それでも、出典を明記されたウィキペディアの項目の信憑性は凄まじく高くなる。かぶきり小僧を検索した人間が辿り着くこの項目、そこに書かれた間違った情報――かぶきり小僧という妖怪は、歪められていく」
三月は背筋が冷える思いを味わった。それは十塚の見解においての、この事態の危険性という危機感もあったが、それよりも慈姑が好きだと言っていた妖怪という存在が、こうも簡単に別のものにすげ変わってしまうのかという恐怖だった。
「妖怪なんてそんなものなんだよ。たった一つの言葉が添えられるだけで、全く違う性質に変わってしまう。そうして今日の妖怪ができ上がってきた。でも――これは許せない。確かな情報が存在しているにも関わらず、でまかせを書いて妖怪を破壊している。もう、取り返しはつかないのかもしれないけど――」
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