汚れた台所
三日後、リストに載った人物全員に確認を取り、「牛の首に殺される」という文言を知っている人間がいないことを十塚に報告すべく、神保町駅を出た三月の携帯電話に着信があった。
画面に表示される相手の名前を見て三月はわずかに驚く。
「もしもし? どうしたの? 慈姑が電話なんて珍しい」
「店にきてほしい。捜査はまだ続いてるよね」
「うーん。今から署で報告が終われば打ち切りだと思うけど」
「じゃあすぐにこっちにきて。どうしても話しておかなきゃならないことがある」
それで電話は切れた。三月は隣で訝しげにこちらを見ている大嶽に頭を下げ、捜査に関係のあるかもしれない情報があることを説明し、すぐに戻るから署に戻らずに待っていてほしいと頼み込んだ。
「鬼島さんが、捜査情報を打ち明けている人物がいるんですね」
咎めるのではなく、理解を示すような口調で大嶽は言う。今の電話越しの会話、三月の部分だけでも聞いていれば、容易に想像できることだった。自分の失態に気づいた三月は周章しかけるが、大嶽は小さく笑って腕時計を見た。
「この前の喫茶店、メニューに載っていたナポリタンに惹かれていたんですよね。一人なら、気兼ねなく頼めます」
三月は勢いよく頭を下げる。顔を上げると、大嶽はもう神田署とは違う方向に向かっていた。
樹木書店。訪れるのは四日ぶりになる。幸也への挨拶もそこそこに、三月は慈姑がいつも陣取っている店の奥に突き進む。
「やられた」
慈姑は一冊の、それなりの厚さはあるが装丁の簡素な本を三月に手渡した。
本のタイトルは『全部本物! 超解読! 日本の妖怪』。著者は
「二十五ページ。見て」
言われた通りのページを開き、そこに書かれた項目を見て、三月はあっと声を上げた。
おどろおどろしく描かれた牛の生首が人を襲っている挿絵があり、そこにはこんな説明が記されていた。
恐怖の怪物! 牛の首
牛の首という都市伝説を聞くと死んでしまうという噂があるが、それは実はこの妖怪が話を聞いた人を襲いに現れるからである。助かるには巻末付録の護符(三)を家に貼っておくしかない。
「これって――」
「雑にもほどがある」
慈姑は明らかに苛立った様子で、三月から本を受け取った。
「いわゆるコンビニ本。資料としての価値はゼロどころかマイナス――むしろそこにある種の価値すらあるんだけど。とにかく、これが『牛の首に殺される』の出典だと思う」
安藤ほかのメンバーが所属していたインターネットサークルに投稿された「牛の首」の、本来の出どころ。
「最初は全く念頭になかったんだ。そもそも僕はコンビニ本をほとんど読んだことがなくて、悪評だけしか知らなかった。だからネット上で同じ噂が広まっていないかだけ監視してたんだけど、全く見当たらなかった。ネットで広まっていないということは、そのサークル内の人間が怖がらせるためのでまかせを書き込んだだけかとも思ったんだけど、ふと思ったんだ。伝播する力がインターネットよりはるかに劣るのに、信憑性があるように見せかけるのが何よりも上手な媒体――それがこういった形式の本だって」
よく見れば慈姑の後ろに、同じような装丁の本が山と積み上げられている。この中からこの一冊を見つけ出したということか。
「コンビニ本は、まず重版されない。市場に出回って、出た分がなくなればそれまで。だから、情報が残り続けるインターネットより、情報が広まる力は圧倒的に劣る。回線を契約すれば無料でいくらでも閲覧できるネットと、金を払って買って読まなきゃならない本の違いでもある。でも、人は出版された本という形式に何より弱い。本に書かれた情報は全て本当なのだと信じ込んでしまう。求心力は、まだインターネットより本のほうが圧倒的に強い。ネットではデマが広がるという話も多いから、これからもそれは変わらないと思う」
そこで慈姑は心底いやだとでも言いたげに溜め息を吐く。
「そして最悪なのが、こと妖怪に関してだ。妖怪は存在しないんだから、本当に正確な情報というものはありえない。でも妖怪の情報はきちんと初出の資料があることがほとんどだし、今日に至るまで多くの研究者が必死に発見し整理し著述してきた歴史がある。でもこの本はそうしたことを完全に無視し、読者の不安を煽り、あまつさえ付録の護符とやらで釣って本を買わせようということしか考えていない。そしてそんな情報でも、妖怪という大義名分を掲げれば簡単に信じ込ませてしまえる。だって、妖怪は存在しないんだから。どんな嘘を吐いても、たとえそれが学術的に間違っていても、本という媒体で出てしまえば充分信じ込ませる力がある」
三月は黙って慈姑の言葉を受け止めていた。今日の慈姑はよく喋る。それは興が乗っての早口というより、怒りに任せてまくし立てているようだった。
「今回この本の情報はネットの閉じたサークルでしか広がらなかったみたいだけど、これはいわば不発弾だ。いつ買って手元に置いておいた人間が、そのことを広めるかわからない。この懸念だけは、きちんと伝えておいてほしいと思って」
慈姑に、大嶽から聞いた十塚の目的については話していない。それでもまるで十塚がどういう目的で行動しているのかが全てわかっているような言動だ。
慈姑が察しがいいのは身をもって知っている。昔から三月が己の弱音を吐き出し、それを理解してくれる唯一の存在が慈姑だった。時には顔を見ただけで三月の悩みを言い当てたこともある。それでも、ここまで全てを見通すような見解を述べたことはかつて一度もなかった。
なぜか今回の事件に関してだけ、慈姑は最初から全て知っていたかのように行動している。
「慈姑――」
三月が口を開くと、それまで話し続けたのが恥ずかしいとでもいうように、慈姑は少し小さくなる。
「うん……今回だけは、僕の領域の問題なんだ」
三月のわずかな不安を読み取り、なんとか言い訳をしようとしている。それでもまともな言い訳になっていないのが、なんとも慈姑らしい。
気づくと三月は笑みをこぼしていた。
「わかったわかった。そういうことなら私も慈姑に情報全部流すから。その代わり、言いたいことがあるなら全部私に言ってよ?」
慈姑は頷くと、三月にもう一度問題の本を手渡した。
大嶽に連絡と謝罪を入れて神田署の前で合流する。よく見るとワイシャツの首元にケチャップの飛んだ跡があり、本当にナポリタンを食べに行っていたのかと笑ってしまった。
応接室に入ると、まず大嶽が「牛の首に殺される」という言葉を知っている者はリスト上にはいなかったことを報告する。
十塚は満足げにその報告を聞き、口を開こうとするが、その前に三月は手に持った本を目の前に叩きつけた。
二十五ページの「牛の首」を実際に目にすると、十塚は目に見えて狼狽した。
三月は、逆に面食らった。十塚はいつでも余裕綽々の超然とした態度を崩さずに三月と口を利いてきた。その十塚が慌てるほどの――慈姑の言う不発弾。
いや――しかし――口の中で繰り返しながら、十塚は食い入るように本を見つめる。
「対象は消滅――情報共有者の
一人で呟く――というよりは混乱のあまり思考が口に出てしまっている十塚を、大嶽が落ち着かせようと声をかける。
「十塚さん。どうやら万事解決というわけではなくなったようですね。この際です、私たちに全てを説明してはくれませんか」
十塚は大嶽の声を無視し、今度は黙考を始める。大嶽は冷静に、自分の見解を述べていく。
「このリストに載っているのは、あなた方の言う『見鬼』でしょう。その中で今回の『牛の首』の情報を得た人物を捜し出し、『牛の首』の消去、及びその見鬼の処断があなたの目的だった。当初の予見では局所的な情報の拡散だと踏んでいたのでしょう。実際、インターネット上の弱小コミュニティ内でしか『牛の首』は広まらなかった。あなたのことですから、そのコミュニティのメンバーは全員調べ上げ、見鬼が含まれていたなら安藤勇作と同じ末路を辿らせたのでしょう。それで、『牛の首』は二度と生まれないはずだった。だが――」
そこに、不発弾。
「これがもし広まれば、『牛の首』は猛威を振るう。今回は『七の月』の時とは違う。タイムリミットはないんでしょう?」
「これは――宮内庁に持ち帰ります」
「建前は不要ですよ。鬼島さんも、とうにあなたが陰陽師だと気づいています」
大嶽は追い打ちをかけようとしたのだろうが、それを聞くと十塚は若干落ち着きを取り戻した。少し愉快げに微笑を浮かべるだけの余裕を見せている。よく正解に辿り着いたと、三月――本当は慈姑なのだが――の聡明さに心が休まったかのようだった。
「陰陽寮に持ち帰るということは、我々はもう用済み――いや、手出しできない状況になったということですか」
「大嶽さんには『七の月』の時の実績があります。そこは陰陽寮も高く評価しています。鬼島さんには、無論、大きな利用価値があります」
三月はかっと腹の中から熱が込み上げるのを感じた。
「あの人への、人質ですか」
「その通り。鬼島警察庁長官官房総括審議官のご息女――あなたをいち早くこちらに引き込んでおいたことは、これから大いに意味を持つでしょう」
「あの人と私は関係ない!」
「そう言いながら、あなたは入庁時になんと啖呵を切りました」
そこまで調べていたのか。三月はほとほと自分の立場というものに嫌悪を覚えた。
十塚の言う通り、三月の父親は警察庁長官官房総括審議官――警視監であり、警察官僚の中でも上から数えればすぐに辿り着く重要ポストに就く人物である。
だがその実態は、汚職にまみれにまみれ、権力闘争で血で血を洗い、その地位を手に入れた最低の人間だ。三月はそのさまを目にしてきたし、警察官になるこれまでの人生でいやというほどその影に触れてきた。
三月がノンキャリアで警察に入庁したのも、ひとえに父親への反感にほかならない。そして三月は入庁日の飲み会で、大声でこう喚き立てた。
――鬼島総括審議官を、絶対にしょっ引いてやる。
酔ってはいない。なにせ最初の乾杯の音頭の直後である。そして三月は尋常ならざるザルだった。生ビールをジョッキで十杯以上飲んだあとに焼酎をロックで一升瓶を一本空けるほど飲んだが、お開きになった時も澄ました顔でしゃんと立っていた。さらに翌日平気な顔で出庁したことで昨夜のメンバーを震え上がらせたほどだ。
とにかく、これが三月の最大にして、至上の目標である。父親の悪事を全て白日の下に晒し、二度と権力を握らせないように逮捕する。
結果、ただでさえ総括審議官の娘ということで腫れ物扱いされる予定だった三月は、それに輪をかけて白眼視されることになった。失礼があれば首が飛ぶかもしれない上に、近寄れば危険思想の持ち主だとみなされる。最悪の立ち位置を得たが、三月は最初からそのつもりだったし、望むところだった。
三月自身は父親と自分は無関係だと主張している。だがその実、三月は父親に強い執着を見せている。そして何より、血という覆しがたく旧弊的な社会では未だ強い力を持つ繋がりを持っている。これで無関係を叫ぶのは土台無理な話である。
その三月を手元に置いておくことは、十塚の考えでは有利な手札になるのだろう。父親がどう思うのか、三月にはわからないしわかりたいとも思わない。どうせろくに家族らしい会話もしたことのない間柄だ。
「――いいですよ。乗りかかったなんとやらです。付き合わせてもらいます。私の存在が必要ならいつでも好きに使えばいい」
「そう言っていただけるとありがたいですね。でしたら今後の活動に支障のないよう、恥ずかしながら国家陰陽師として、今回の事件の全容をお話しします」
それまで立って話していた三月と大嶽は、十塚に促されソファーに腰かけた。文字通り、腰を据えて話すことなのだろう。
「おおよその流れは、大嶽さんの見立て通りです。大嶽さんは二十年前の事件で、同様の事態を体験されていますから、この考えに辿り着くのは当然でしょう。しかし鬼島さんの手前、一から話させてもらいます」
十塚は少し間を置いて、こう切り出した。
「妖怪は存在します」
声を出しそうになるのを、三月はぐっとこらえる。十塚は大真面目だ。水を差すのは上策ではない。
「妖怪を始めとしたこの世ならざるものを視ることができる人間を、我々は『見鬼』と呼んでいます。ですが彼らは不安定です。己の視るものを、己自身で規定してしまう場合さえある。そして一度規定された非存在は、存在するものとして影響を及ぼし始めます。それが外部に漏れ出したものを、我々は妖怪と呼ぶのです」
例を挙げましょう――まるで授業をする教師のように、十塚は理路整然と続ける。
「河童はもちろんご存知ですね。この河童を、見鬼の誰かが自分の中で規定し、幻視します。その見鬼から漏れ出したこの河童をほかの見鬼が視ることによって、これは河童であると規定されていきます。それを繰り返すことによって、河童は現在、強固とした存在を得ているのです」
十塚はそこで、なぜか全く関係のない部屋の隅に目をやった。
「私たち陰陽寮は、そうしたわけで見鬼を監視しています。危険な妖怪が規定されてしまった場合、それを速やかに駆除し、見鬼にカウンセリングを行い、拡散を防止します。ですが、こうしたことはほとんど起こりません。現代の妖怪は一定の姿を保ち、人間に危害を加えることもほぼありません。あったとしても、陰陽寮が動くほどの大事ではない――いえ、なかったのです」
ここまでは前提知識。三月に理解させるための説明。ここからが――今回の事件の全容。
「中田恵子、遠藤佳穂の死。彼女たち二人は、陰陽寮のデータベースに登録された見鬼でした。そこに残されたダイイングメッセージ、『牛の首に殺される』――ここから、我々はなんらかの要因で規定された殺傷力を持つ妖怪が見鬼を殺害していると判断しました。私の目的は先ほど説明した通り、早急にこの妖怪を駆除し、拡散を防ぐことでした。結果的に、お二人に見つけていただいた安藤勇作を囮にすることで、『牛の首』の駆除には成功しました。その際に安藤勇作を『牛の首』に殺されてしまったことは残念でなりません」
大嶽はそれを聞いて、表情こそ変えないものの拳を白くなるほど強く握りしめていた。確かに『牛の首』の拡散を防ぐなら、安藤を殺してしまうのが一番手っ取り早い。『牛の首』に殺されてしまったという部分に関しては本当かどうか疑わしい。
「本来ならここで、この事件は終わりです。『牛の首』を規定する見鬼は全員が『牛の首』によって殺され、また『牛の首』も私が駆除しました。『牛の首』の発生源と見られたインターネットコミュニティのメンバーは大嶽さんの仰った通り全員調査し、その中にもう見鬼が含まれていないことは確定しています。『牛の首』は二度と生まれない――そう、思っていたのですが」
発生源は、インターネットコミュニティではなかった。十塚の手に渡り、未だに強く握りしめている本こそが、「牛の首に殺される」という言葉の出どころ。
「奥付を読んだところ、この本が出版されたのは去年の六月。私はこうした形式の本に詳しくないのですが、これは今はもう売られていないと考えていいのですね?」
三月は頷く。コンビニ本はまず重版されない。売れればそれまで。慈姑から聞いたことをそのまま伝えた。
「情報が拡散する恐れは今のところ少ない――現に広まったのは閉じた小さなコミュニティ内だけでした。しかし――」
そう、これは不発弾なのだ。いつ手に取った誰かが、この本の内容を信じないとも限らない。それが見鬼だった場合、「牛の首」が再び発生するかもしれない。
「その、陰陽寮のデータベースですか? そこに載ってる見鬼全員に連絡を取って、この本を持っていないか訊くっていうのはどうですか?」
十塚は苦い顔をする。
「陰陽寮のほうから見鬼に干渉してはならないのです。そもそも陰陽寮自体が公式には存在しない扱いになっている組織ですから、存在を悟られるのは非常にまずい。データベースというのも、各地に自治的に発生した見鬼の管理者から情報を流してもらっているにすぎないのです。当然、漏れは多分にあります」
十塚の見解を根拠に、陰陽寮以外の組織を動かすことは不可能だ。十塚が警察に介入できたのはあくまで共同捜査の申し出を提示したからであって、当然そこには宮内庁からの圧力もあったのだろうが、建前があったからこそこうして署の中で自由に動けている。
しかし、いくらなんでも本を所持している人間の捜索に組織を動かせるとは思えない。一歩間違えなくとも言論弾圧であるし、そんな馬鹿げた行為に付き合う人間はいない。
「ひとまず、この本を陰陽寮に持ち帰り、今後の方針を検討します。この捜査本部は存続するように進言しますので、お二人は待機を」
そう言って十塚は立ち上がり、部屋を出ていった。
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