5.鳥たちの道を往く
3-5-01
女の子が歌ってる。
ららららら。ららららら。
歌詞もなく、たどたどしいスキャットで。
ららららら。らら。ららららら。
三か月前、大切なものをどこかに置き忘れて、途方に暮れて泣いていた女の子。
どうやら忘れものは見つかったみたいだ。
駅前のコンコース。
今にも降り出しそうな鉛色の空の下。
歌う彼女の前には、ちょっとした人だかりができている。
ぽろろん、ぽろろん。
彼女の手元から音がこぼれ落ちる。
木の板に張った三本の弦。
一本づつ、彼女は弦をつま弾く。
突然、歌が止む。
人だかりの中から、ひとりの青年が彼女の方に歩み寄る。
ふたことみこと言葉を交わすと、彼女は青年に楽器を手渡す。
そのシンプルな手製の楽器は、まるで長年使い慣れた道具のように、青年の腕の中にすっぽりと収まる。
じゃららん。
コードが鳴る。
青年が歌い始める。
女の子にうなずきかける。
女の子も歌い始める。
クラップ・ユア・ハンズ!
青年が呼びかける。
誰かが手拍子を鳴らす。
歌と手拍子が人々の間に広がっていく。
音楽が始まった。
彼らの歌声を背後に聴きながら、スーツケースを転がして俺とほたるはエスカレーターで地上へと降りた。
駅前のターミナルに停まっていたワゴン車の脇にカレヴァが立っている。
俺たちが近づいていくと、カレヴァはうなずき、助手席の窓をノックすると後部へまわった。カレヴァに手伝ってもらいながら、俺とほたるは後部ドアからスーツケースを車内に入れた。
カレヴァが助手席に、俺とほたるは後部座席に乗り込む。
「ごくろうさん」
運転席の大吾が俺たちを振り返った。
「悪いな、せっかくの休みなのに」
「すみません、大吾さん」
俺とほたるの言葉に大吾が笑う。
「どうせ暇やから気にせんでええよ。それに」大吾が助手席のカレヴァを指さす。「たぶんこいつに引っ張り出されることになったやろうから」
「なぜ、わかル」
「ほんま、お前は相変わらずおもろいやっちゃなぁ」
キョトンとしているカレヴァを見る大吾は楽しそうだ。
「ほな、いこか」
「――つまり、東洋思想や東洋哲学を理解するには、中国、インド、日本さらにはイスラムの思想や哲学をもカバーしなければならないということカ」
「まあ、そういうことや」ハンドルを握りながら、カレヴァの質問に大吾が答えている。「しかも、日本だけでも仏教、儒教、さらに日本古来の神道が混在して宗教思想が形成されてきたんや」
「仏教にしても、シャカの教えだけでなく、ヴェーダなどインド古来の思想体系が影響しているのだろウ」
「その通りや。もしかして、昨日図書館で借りた本、もう読んでもうたんか」
「読んダ。あとでまた有益な本を教えてもらえるカ」
「はいはい。なあ、右京」大吾はルームミラー越しに俺と視線を合わせた。「こいつの知識の吸収量と速度、半端ないで」
「カレヴァも読む速度はメサと同じだったということか」
「そうダ。ただし、記憶することはできないガ」
「メサちゃんみたいに完コピできんでも、とんでもない記憶力やけどな。なんせ、すんなりと特待生枠でうちの大学に入学するくらいやから」
「アイティの指示でフィンランドの大学入学資格試験を受けて合格していたからナ」
「でも、どうして東洋哲学を専攻しようと思ったの?」
ほたるの問いにカレヴァが答える。
「キミたち東洋人の思考形態や認識力に興味があル。特にライトノベルやジャパニメーションを生み出した日本独自の文化形態や思想体系を解き明かしたイ。そのバックボーンには東洋思想や東洋哲学があるはずダ」
助けを求めるように、ほたるが俺を見たので、俺はいった。
「確かに日本のサブカルチャーには独特のものがあったけど、東洋人全般となると話が大きすぎないか」
「例えば、西洋人と東洋人とでは、空間のとらえ方に明らかに差異があル。東洋人は一点透視図法による遠近法を取り入れることがなかなかできなかっタ。どちらが優れているとか、正しいということではなイ。東洋人の方が三次元を二次元に変換する能力、つまり次元を一段階畳む能力に秀でているとボクたちは推測していタ。その特性は何に起因するものなのカ。それが知りたイ」
「確か、平沢先生の本にも似たような記述があったな」
「『二次元と三次元とのはざまで』やな」
「なんだ、大吾も読んでたのか」
「こいつに読ませられたんや。ただし、俺にはもう、昔見たアニメとかラノベとかの記憶はなくなってもうたから、ピンとこんところがあるけどな」
「いつかまた思い出すときが来るかもしれない」駅前の光景を思い出して、俺はいった。
「ならええねんけど」
「学術書が残ってるだけでもよかったですよね」ほたるがいった。
「そうやな。それに、メサちゃんがアウトプットした四百冊のラノベはネット上にちゃんと残ってるしな」
「カレヴァのおかげで冬休みも退屈しなくて済みそうですね」
「いやいや。毎日図書館に付き合わされる身にもなってくれや」
そういいながらも大吾は楽しそうだ。
「なんか、いいコンビに見えますけど」
「ほたるちゃん、今、むっちゃ他人事やと思てるやろ」
「ええと……まあ、はい」
「ま、教えるこっちも考えが整理できるし、勉強になるからええねんけどな」
フロントガラスにぽつぽつと雨粒が落ちてきた。
「予報通りやな」
大吾は空を見上げて、ワイパーを動かした。
やがて雨は本格的に降り始めた。
「ダイゴ」唐突に、カレヴァがカーナビの画面を指さした。「次の角を左ニ」
「ん? ちょっと遠回りになるけど……」
ルームミラー越しの大吾に、俺はうなずいた。カレヴァの言葉には何か意味があるはずだ。
「まあ、時間はたっぷりあるから、ええけど」
車はカレヴァの指示に従って、近隣で最も賑やかな繁華街に出た。道行く人々は傘をさして歩いている。そういえば、前もこうやって大吾の車で雨の町を走ったことがあったな。あのときは確かメサの具合が悪くなって――。
「大吾」俺は運転席に身を乗り出した。「悪い。ちょっと止めてくれ」
車が完全に停止する直前にドアを開けて歩道に飛び出すと、俺は雨のなか、とある人影を追って走り出した。
傘をさして歩くふたりに追い付いたのは、地下街への入り口の手前だった。
彼らの前に回り込むと、俺は少年に語り掛けた。
「青山春彦くんと、ナオミちゃんだよね」
少年は怪訝な表情を浮かべると、とっさに後ろにいる妹をかばうようにして、半歩後ろにさがった。
「びっくりさせて、ごめん」
中学生の春彦さんは、仮想空間で会った成人したときの面影が色濃くあって、俺にはすぐにわかった。春彦さんのうしろに隠れてじっとこちらを見上げているナオミちゃんは、なんとなく似ている感じがするくらいで、さすがに彼女だけだと気がつかなかっただろう。
「怪しいものじゃない」俺は必死に言葉を探した。「君たちはこれから地下街に行くんだよね。春彦君、周りに気を付けて。ナオミちゃんの前を歩くようにするんだ。絶対に目を離さないで」
明らかに怪しい人物を見る眼差しを俺に向けながら、春彦さんはいった。
「あなたは、誰ですか?」
春彦さんらしい、聡明な質問だった。
でも、俺は答えることができない。
雨が俺の髪や肩を濡らしていく。
春彦さんたちの背後に、人が立った。
「大丈夫ダ。タイミングは十分ずれタ。すでに未来は変わっていル」
カレヴァはモッズコートのフードをかぶり、雨をしのいでいる。
「そうか」俺はうなずいて、立ち上がった。「怖がらせてごめん」
春彦さんはまだ不信感の残る視線を俺に向けていたが、俺が道をあけると、ナオミちゃんの手を取って俺のそばを通り過ぎた。
ナオミちゃんが振り返り、不思議そうな顔で俺を見た。
俺がそっと手を振ると、ナオミちゃんはさしていた赤い傘を左右に振った。
やがてふたりが地下街の入り口に消えていくと、俺はカレヴァを振り返った。
すでにカレヴァは俺に背を向けて、車の方に歩き出している。エンジニアリングブーツが小さな水滴を跳ね上げる。
俺もその背中を追って、足を踏み出した。
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