3-4-03
小説の冒頭、最初の一行目――いわゆる書き出しは、書き手にとっていつも悩ましい部分のひとつだ。
でも、世の中には、安易で稚拙で、手っ取り早い書き出しもある。
――俺の名前は〇〇〇〇。
ただし、こんな表現は、普通誰もやらない。
ラノベ以外で、俺はこんな表現を見たことがない。
まともな小説家は、どうやって自然に登場人物の名前を出すか、知恵を絞る。
自分で自分の名前を名乗る登場人物なんて、考えもしない。
それは最悪の書き出しだ。
それをわかった上で、俺も自分の小説で使った。
できればこんな表現は使いたくなかったけど、仕方ない。
こんな部分に力を入れる必要は、ラノベの場合、一切ないからだ。
ラノベにはもっと力を入れなければならない、別の部分がある。
だから共通化できるところはテンプレートを使う。
誰にでもできる書き出し。
まさに、テンプレートだ。
テンプレート中のテンプレート。
でも今、そのテンプレートが、たくさんの物語の扉を開こうとしている。
「わかった」
俺の書いた画面を見ると、リーリンは手を伸ばして俺の席のキーボードを叩き、データを転送しながらオペレーターたちに指示を飛ばす。
「トップページに入れて。これをフォーマット化して、誰でもすぐに小説を書き始められるようにデザインして。それから、徹底的な拡散をお願い」
管制室の中が再び動き出した。
「あらゆる方法を使いなさい! 感想もどんどんアップして! それと、みんな!」リーリンが正面の大型モニターの下に立ち、オペレーターたちを見渡した。「自分の物語を書いて!」
誰にでも一冊は小説が書ける――よくいわれることだ。
自分自身のことを書けばいいからだ。
自分の物語。
ある程度の年齢を重ねれば、誰だって物語のひとつくらいは書ける。
確かに、その通りだ。
この世界には、今、七十億個もの物語が存在しているのだ。
ライトノベルの隣で、ほたるも文章を打ちこみ始めた。
『私の名前は、ほたる。
十七歳の女子高校生だ。
私はいたって普通の家庭に生まれた。
お父さんとお母さん。
でも、私が小学校の時、お母さんが事故で命を落とした』
ダオたちも、自分たちの小説とは別に、自分たちの物語をアップし始めた。
『俺の名前は、ダオ。
タイのアニメショップで働きながら、小説を書いている。
俺たちの国の本屋に並ぶ漫画やラノベは日本のものばかりだ。
でもいつか、俺達が書いた漫画やラノベが俺たちの国の本屋に並ぶ日が来ると信じてる。
これは、そんな俺たちの物語だ』
『私の名前はフィフィ。
五番目に生まれた子供だから、ファイブと名付けられた。
みんなからはフィフィと呼ばれている。
今日も私はジャカルタの夜の町を、ひとりバイクで疾走する。
どうして私がそんなことをするようになったのか。
私の物語をこれからはじめよう』
『私の名前はリエン。
ベトナムのホーチミン市で夫と息子の三人で暮らしている。
普段は、日本語の通訳や翻訳の仕事をしている。
でも、私には子供の頃からずっと持ち続けている夢がある。
これはそんな私の物語だ』
画面には、次々といろんな人たちの――小説家でも、作家でもなんでもない人たちの物語がアップされていった。
『俺の名前はヤマダ・タロウ。
三十五歳。
しがない、いっかいのサラリーマンだ。
今日も代わり映えのしない一日が終わる。
でも、思い返してみたら、昔はそんなことはなかった。
子供の頃。
俺は自分の物語を綴ってみることにする』
『私の名前はジョン。
アメリカのシカゴにある法律事務所で働いている――』
『私の名前はサビナ。
インドのムンバイで――』
『僕の名前は――』
『あたしの名前は――』
『トゥオネラ』の人間たちは、たぶん理解できなかったのだろう。
こちらの世界の住人は、たったひとつしか可能性を選ぶことができない。
たくさんある可能性の中から、たったひとつを選択する。
その選択の連続が、人の人生を形作っていく。
そうやって俺たちは、自分の人生を選び取っていく。
そしてそれが、その人の物語となる。
物語を作るということは、この世界で生きていくということと同じことなのだ。
この世界に人間が存在する限り――『トゥオネラ』は直接人間の命を奪うことができない――物語をなくすことは、そもそもできないのだ。
世界地図の赤い点が急速に増えていく。
やがてそれは世界各地を赤い色に塗りつぶしていった。
絶え間なく鳴り響くキーボードを叩く音に囲まれながら、俺も『R⇔W』に文章を打ちこみ始めた。
『俺の名前は右京。
駆け出しのライトノベル作家だ。
ある日を境に、俺はとんでもない事件に巻き込まれていった。
あの日。
あの冬の日の早朝。
アルバイトからの帰り道。
俺は、緑の髪のエルフを拾った』
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