2.それぞれの場所
2-2-01
タイの首都バンコクにマーブンクロンセンター――略してMBKセンターができたのはダオが生まれるずっと前、一九八五年のことだった。その当時、MBKセンターは最先端のモールだった。
その後、一九九七年に起きたアジア通貨危機を除けば、タイの経済は順調に成長を続け、バンコクのあちこちに欧米の一流ブランドが軒を並べる最先端のショッピングモールが建つようになった。バンコク市内は今やアジア有数の大都会といっていい様相を呈している。MBKセンターは、今ではすっかり時代遅れの古いモールとなっていた。
でも、ダオはきらびやかだけど面白みに欠ける新しいショッピングモールよりも、建物は古いけど乱雑で、不思議な活力に満ちているMBKセンターの方が好きだった。
そのMBKセンターに、日本のアニメ関連商品や漫画の専門店、アニメルトのタイ支店が開店したのは二〇一六年のことだった。
開店当時まだ高校生だったダオは毎日のように店に通った。
そこはまさに天国だった。
父親の仕事の関係で、ダオは小さい頃から日本の文化に触れる機会が多かった。特にダオを夢中にさせたのは日本のマンガとアニメだった。
高校を卒業すると、ダオはアニメルトの店員として雇われた。店員たちは皆、日本のアニメや漫画に詳しい者たちばかりだったが、その中でもダオの知識に勝る者はいなかった。
アニメルトバンコク支店の奥まった一角に、普段は使われていないイベントスペースがある。パーテーションで仕切られた部屋の真ん中にぽつんと置かれた簡易テーブル。そこがダオの主な執筆場所だった。なぜかそこが一番落ち着いて小説を書くことができた。
「またサボってる」
ノートパソコンのキーボードを叩く手を止めて、ダオは声のした方を見た。
パーテーションの隙間から、ムーが顔をのぞかせている。
「そっちこそ、店は?」
「昼休み」アニメルトと同じフロアにあるメイド喫茶の制服を着たムーが、パーテーションを開けて、部屋に入ってきた。
「閉めろよ」とダオはいって、またキーボードを叩き始める。
ムーはパーテーションを閉めて、部屋を見渡した。部屋の隅には、以前イベントで使った日本のアニメのキャラクターが描かれた等身大の販促グッズが立てかけられている。
「はい、これ差し入れ」
テーブルの空いたスペースに、ムーはカオマンガイの入った器を置いた。
「ん」
相変わらずカタカタカタとキーボードを叩き続けるダオに、ムーがいった。
「食べなきゃダメだよ」
「ん」カタカタ。
「おばさんに頼まれてるんだから」
「ん」カタカタ。
「じゃあ、食べたくなるように、おまじないしてあげる」ムーは胸の前で両手をハートの形にした。「おいしく――」
ダオはため息をついて、キーボードを叩く手を止めた。
「わかったよ」
テーブルに置かれたカオマンガイに手を伸ばし、ダオはスプーンで食べ始めた。
「また新しいの書いてるの?」
ダオはご飯をほおばりながらうなずいた。「うん」
「イセカイもの?」
「うん」
「それも『R⇔W』に出すの」
「出す。編集の人にも随時意見をもらってる」
「増えたよね。『R⇔W』に書いてる人」
ダオは、最近始まったばかりの『R⇔W』インターナショナルバージョンのHPを立ち上げた。
「タイだけだと、今ようやく百人くらいだな。日本と比べたら、ぜんぜんだ」
「そうだね」うなずいて、ムーはダオの足元に積まれている本を見下ろした。「やっぱり、だめだった?」
「ああ。店には置けないって、本社からメールが来てた。店長も粘ってくれたんだけど」
「しょうがないよ」
ムーの言葉に、ダオは食べ終わって空になったプラスチックの容器をテーブルの上に置いて、いった。
「うちの店だけじゃない。どこの店も、売ってる漫画やライトノベルは、すべて日本のものだ。確かに、日本の漫画やライトノベルは面白い。俺たちが書いているものとは、やっぱりレベルが違う。でも」
ダオは足元に積まれている本を一冊手に取った。
「こうやって、地道に自費出版している奴らもいる。一般的には全く知られていないけど、真面目に真摯に、自分たちの世界を貫き通している。少しずつだけど、レベルも上がってる。いつかこの店に、いや、この国のすべての本屋に、俺たちの書いた漫画やライトノベルが並ぶ日がきっとくる」
「うん。そうだね」ムーがうなずく。「そのための第一歩、もうすぐだね、日本」
「あー。はやく行きてー」椅子の上で伸びをするダオ。
ムーはノートパソコンの画面に映っているHPのバナーを見た。
これまで何度も見て、もうすっかり覚えてしまったそのバナーの文字。
そこにはこう書かれていた。
――特別開催! 『R⇔W』インターナショナルとコミックバンケットのコラボレーション企画。アジア注目の新人作家たちがTOKYOに終結! ワールドワイドで展開するイセカイストーリーズの最前線を目撃せよ!
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