2-1-07

 職業柄、平沢は若い学生たちと食事をする機会が多い。若い子の食欲は押しなべて旺盛で、彼らの食べっぷりを見るのは気持ちよかった。しかし、リーリンの食欲はこれまで見てきた若者たちのなかでも、大きく抜きんでていた。

 リーリンが「お勧めのお店があるので、お連れします」と、平沢を伴って訪れたのは、ダウンタウンの南側にある中華料理店だった。どうやらリーリンは店の人間とは顔見知りらしく、店主らしき恰幅のいい中年男性と中国語で言葉を交わしながらテーブルに着いた。

「先生、好き嫌いはないですか」

 リーリンの問いに、「特にないよ」と平沢が答えると、リーリンは店主にふた言み言話し掛けた。やがて、ふたりのテーブルに料理がどんどんと運ばれてきた。

 鶏のささ身とグリーンピースの炒め物、カブとトマトの和え物、高菜とそぼろ豚肉とイカの炒め物、きくらげと鶏肉の炒飯、茄子とひき肉トマトソース和え、エビの揚げ団子、カモ肉の燻製揚げ、そして、鶏がらスープの麺。

 リーリンはこれらをほとんどひとりでぺろりと平らげ、紹興酒のボトルを一本空にして、二本目に取り掛かった。

「このお店は雲南省出身の人が開きました。私の一族も同じ土地の出身なんです」

「君たちの一族は、みんな君みたいな能力を持っているのか」

「いいえ」リーリンは平沢と自分のグラスに酒を注いだ。「ほぼ、ひと世代に一人現れるみたいです。私の前は、私の伯父でした」

「二十数年前にリックを助けた人だね」

「はい」

「伯父さんは、今は?」

「ある一定の年齢を過ぎると能力がなくなるみたいです。『鳥撃ち』は引退して、今は台湾でお茶のお店をやっています」

「あのカラスたちはいったい何なんだ」平沢の開いたグラスに酒を注ごうとするリーリンに、平沢はグラスに手でふたをして首を振った。「その『トゥオネラ』というもうひとつの世界と関係があるのか」

「あのカラスたちは『トゥオネラ』の影響下にあるものたちです。向こうの世界の意志によって動かされています。私たちの世界と『トゥオネラ』とを結ぶ連結装置のようなものが壊れそうになったとき、その元凶となる存在を消すことが奴らに与えられた使命なのです」リーリンは自分のグラスに酒を注いだ。「私たちの一族の中には、この鳥たちの動きを予知する能力を持った者たちもいるのです。その者たちが鳥たちの動きを『鳥撃ち』に知らせて、『鳥撃ち』ができる限り先回りして事態を収拾してきました」

「日本で起こっている失踪事件は、奴らが起こしているんだな」

 リーリンがうなずく。

「それで警察は鳥のことを聞いたのか」平沢がつぶやくようにいった。「じゃあ、日本の事件に関しては、君たちは間に合わなかったということなのか」

「はい。今回は向こうの動きがあまりにも速くて、対応できていません。おそらく、『トゥオネラ』の生命体が直接関与しているためだと思います」

「『トゥオネラ』の生命体?」

「私たちと同じ姿形をしている人間です。過去に何人かこちらの世界に来ています」リーリンは意味ありげな表情を浮かべた。「リアル異世界転移ですね」

「奴らの狙いは何なんだ」

 グラスに残っていた紹興酒の最後の一杯をくいっと飲み干し、リーリンはグラスをコン、とテーブルの上に置いた。

「先ほど、私は『トゥオネラ』を安定して存続させるために私たちの世界が創られたといいました。でも、初めてではないのです。私たちの世界が創られる前に、いくつもの世界が創られて、でもいずれも長くは存在できずに消滅していきました」

 リーリンは平沢の空のグラスを自分のグラスの隣に置いた。

「そもそも、負の感情の受け皿である世界が存続し続けることは困難なのです。人間同士の争いによって必ず滅びの道を歩む。いくつもの世界が創られては滅び、それが繰り返されました。でも、私たちがいるこの世界はこれまでで最も長く存続し続けています。これまでの世界と私たちの世界との違い。それは何だと思いますか?」

 平沢のグラスをもてあそびながら、リーリンは尋ねた。

「これまでの世界になかったものが、僕たちの世界にあるのか」

 満足げに大きくうなずきながら、リーリンはいった。「その通りです」

 リーリンが店の奥に合図を送ると、新しい酒のボトルがテーブルに置かれた。

「先生が今、いちばん欲しいものはなんですか」

「欲しいもの?」平沢は戸惑いながら答えた。「そうだな。新しい自転車が欲しい」

「新しい自転車が欲しいとき、先生はどうします?」

「どうするって……買いに行く」

「お金を払って」

 平沢がうなずく。

「私たちはたくさん仕組みを作りました。欲しいものがあれば対価を支払って手に入れます。そのための通貨と流通も作り上げました。そして、その仕組みを逸脱したら――例えばお金を払わずにほしいものを手に入れようとしたら、法律で罰せられます」

 リーリンは二つのグラスに酒を注いだ。

「なぜ私たちは法を守ることができるのでしょう。法律だけではありません。世の中には様々な社会的規範やルールがあります。特に罰則もないのに、それらをきちんと順守できるのはなぜだと思いますか」

「それは……自分達が社会生活をスムーズに送るためだろう」

「そう思えるのはなぜですか」

「それは、人間に備わっている知恵のようなものじゃないのか」

「そうです。その知恵のようなものを私たちはこう呼んでいます」リーリンはグラスを目の前に掲げた。「想像力。法律を守れるのも、社会的規範やルールを守れるのも、私たちに想像力があるからです」

 リーリンはグラスの酒を飲み干すとテーブルの上に置いた。平沢を真っ直ぐに見つめるリーリンの表情からは、酔った様子がまったくうかがえなかった。

「ヒラサワ先生。この世界には善意や良心といったのものは存在しません。私たちにそのようなものがあると思っているのはただの幻想です。私たちが負の感情――むき出しの悪意や欲望を制御しているのはあくまでも想像力です。己の欲望のみに従って行動したらどのような結果になるのか、それが想像できるから行動を制御しているにすぎません。なぜ私たちの世界だけがこのようなシステムを持ちえたのか、それはわかりません。今や、この想像力が『トゥオネラ』と私たちの世界を結ぶ大きな力となっています。先ほど私がいった、私たちの世界と『トゥオネラ』とを結ぶ連結装置のようなもの、それが想像力なのです」

「リーリン。さっき、君はその連結装置のようなものが壊れそうになったとき、それを防ぐためにカラスたちが現れるといったな。その元凶となる存在を消すことが奴らに与えられた使命だと」

「その通りです」

「ということは、日本のライトノベル作家たちやリックは連結装置――つまり想像力を脅かす存在とみなされたということなのか」

「『トゥオネラ』と私たちの世界をつないでいる想像力の中で最も強固なもの、それは物語を想像する力、もっと具体的にいうと別の世界のことを想像する力です。それがこれから徐々に失われていってしまう――『トゥオネラ』の住人たちはそのような未来を予測しているようです。そして、そのきっかけとなるのが――」

「ライトノベル」

 平沢の言葉にリーリンがうなずく。「先生が今日の授業で使ったライトノベル、日本版のタイトルは『異世界転生しても俺は妹から逃げられない』、ですよね」

 平沢はうなずく。「そうだ」

「作者の右京さんは、今回の連続失踪事件の最初の失踪者です」

「そうなのか」

「はい。そして、彼は今回の一連の事件において非常に重要な役割を担っていると思われます」

「でも、リックは? 彼は直接ライトノベルとは関連がないように思えるが」

「店を始めた当時、彼はコミックだけではなく小説も販売していました。それも一般の書籍だけでなく、同人誌も積極的に扱っていたのです。当時はちょっとしたファンタジーブームで、彼の元には全米からファンタジーを題材にした同人誌やファンジンが集まってきました。やがて彼の店はそのようなアマチュア作家たちの拠点となりつつあったのです。つまり、アメリカでも昔、ライトノベルのような動きが発生する可能性があって、その中心にリックさんがいたわけです」

「初めて聞いたよ」

「リックさんはあの事件のあと、一時期店をたたんでいました。数年後に再開したときにはファンタジーブームは盛りを過ぎていて、彼はコミックのみを扱うことにしたのです。ヒラサワ先生」

 リーリンは空のグラスを脇にどけて、テーブルに身を乗り出した。

「一緒に日本に来てください」

 突然の申し出に、平沢はたじろいだ。

「いきなりだな。まあ、今年の夏は日本に帰るつもりでいたが」

「よかった」

「それで、日本に何があるんだ」

「先生、日本の夏といえば、なんですか?」

「日本の夏?」平沢がつぶやく。「日本の夏といえば……」

「日本の夏といえば、先生」

 リーリンは、こくんと首をかしげた。

「コミケでしょ?」

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