2-1-06

 結局、平沢はフェンスをぐるりと回り、小学校の裏口でリーリンと落ち合った。

 リーリンのいう通り、学校の中はひっそりとして人の気配が全くない。授業は終わっているはずだが、それにしも静か過ぎた。まるで、時間が止まっているみたいだと、平沢は思った。

 平沢を後部シートに乗せて、リーリンがバイクをスタートさせた。数ブロック行くと、時間が再び動き始めたような感覚に、平沢は襲われた。それまで見かけなかった人や車が、普通に姿を見せるようになった。

 やがてふたりは大学構内の平沢の研究室に腰をおちつけた。


 ローテーブルの上にヘルメットを置き、ソファに姿勢よく座っているリーリンに、平沢はいった。

「君はただの学生じゃないんだな」

「『鳥撃ち』」リーリンはヘルメットを見つめながら、いった。

 自分のデスクの椅子に腰かけていた平沢は、リーリンの方に身を乗り出した。「え?」

「私たちの一族が持っている能力のことです。私たちの一族には代々、向こう側からやってきた鳥たちを打ち落とす能力が受け継がれてきました」リーリンは平沢を見た。「その能力を『鳥撃ち』と呼んでいます」

「向こう側って……」

「今、先生にすべてをお話しても、たぶん受け入れてもらえないと思います」

「そうでもないかもしれないよ。実は、知り合いに、昔似たような経験をした人間がいるんだ」

「リチャード・ラッセル。Future Visions Books & Comicsの店主。五十五歳」

 平沢はうなずいた。「昔、リックを助けたのは……」

「私の伯父です」

「いったい何が起こって――」平沢は、顔を上げた。「まさか。日本で起こっている失踪事件と、これは関連があるのか」

「あります」

「長い話になるんだろうね」

 リーリンはうなずいた。


「この世界とは違う、別の世界がある――といわれたら、先生はどう思われますか」

 リーリンの言葉に、平沢は少し考えて答えた。「もし、それがキミの説明の大前提として必須の条件なのであれば、とりあえずの仮定としてそれを受け入れるよ」

「先生は、私がこれまで会ったオーバーフォーティのなかで、最も柔軟な思考回路をお持ちのようです」

「お褒めにあずかり光栄だね」平沢は肩をすくめた。「それで、その別世界というのはどういう世界なんだい」

「『トゥオネラ』、私たちはその世界のことをそう呼んでいます」

「『トゥオネラ』……聞いたことのない言葉だ」

「かつては別の名前が付けられていました。時代によってその名称は変わっていきます。ここ数年はその名で呼ばれています。フィンランド神話に出てくる死者の国のことです」

「フィンランド語か」

「はい。でも、どこの国の言葉かに、大きな意味はありません」

「あの世、ということか」

「いいえ。そうではありません」リーリンは首を振った。「あの世どころか、『トゥオネラ』こそが世界なのです」

「『トゥオネラ』こそが世界……」

「『トゥオネラ』は私たちの世界とは根本的にその在り方が異なっています。『トゥオネラ』では、あらゆる可能性、あらゆる時間が同時に並列して存在しているのです」

 そこでいったんリーリンは言葉を切って、平沢の頭の中にそれが浸透するまで待った。

「あらゆる可能性が並行して存在している……まるで量子論の世界だ」

 平沢の言葉に、リーリンは大きくうなずいた。

「その通りです。先生はシュレディンガーの猫と呼ばれる思考実験について聞かれたことがありますか」

「なぜか、日本のライトノベルやライトなSFを書く人間の間では、シュレディンガーの猫が人気でね。ことあるごとに取り上げられているよ。正直いって、もういい加減聞き飽きた感じなんだけど」平沢は首を軽く振った。「まあ、それはいいとして。ええと……ある条件下で、箱の中の猫が生きているのか、死んでいるのかわからない状態になっている。箱を開けるまで、猫は生きている状態と死んでいる状態が重なっていることになる。確かそういう内容だったと思うが」

 リーリンがうなずいた。「箱を開ける、つまり、観測者が観測する――量子力学では波動関数が収縮するともいいますが――そうやって結果が確定するまでは、箱の中で二つの可能性が重なり合っていることになります。『トゥオネラ』はこのように、あらゆる可能性が重なり合っている世界です。波動関数は収縮せず、常にありとあらゆる可能性が同時に存在しています。しかも、事象だけでなく、時間さえも過去から未来へと一方向に流れるのではなく、あらゆる時間が同時に存在しているのです」

「ちょっと想像できないな」

「根本的に私たちの世界のありようとは異なっていますから、想像できなくて当然です。でも、『トゥオネラ』のような世界が本来の世界の姿なんです。私たちのいる世界が特殊なんです」

「この世界が特殊?」

「最初、世界というものは『トゥオネラ』しかありませんでした。私たちの世界は存在していなかったんです。

 すべての可能性が存在するということは、良い面ばかりじゃない、悪い結果も同時に存在するということです。『トゥオネラ』にも知的生命体は存在しました。彼らは可能性の中に常に一定数存在する負の可能性について、ずっと危惧していました。もしも、何か不測の事態によって、負の可能性が収縮してしまったら。それも、取り返しのつかないような重大な危機が確定されてしまったら。

 その危機を回避するために、彼らはもうひとつの世界を創りました。そして、その世界に、負の可能性の元となるあらゆる要素、主に負の感情を転化しました。『トゥオネラ』の人々に負の感情が発生すれば、それらは即座に切り離され、私たちの世界に持ち込まれました。

 ですから、『トゥオネラ』には負の感情というものはありません。怒りや悲しみ、妬み、憎しみ、そういったものは一切存在しません。そもそもあらゆる可能性が同時に存在しますから、利己的な欲求や欲望も希薄です。その代り、私たちの世界が、彼らの負の感情の受け皿となっているのです」

 そこでリーリンは言葉を切って、平沢を見つめた。

「大丈夫ですか、先生。ついてこれていますか」

 平沢は椅子の背に体をもたれさせた。

「職業柄、僕はいろんな小説を読んできた。特に最近はエンターテイメント系を読むことが多いんだ。中にはSFもあるし、ファンタジーもある。それで、今の話なんだけど、フィクションとして聞くと、それほどびっくりするような話じゃない。量子論を扱っているSFは決して珍しくはない。世の中には、こちらの想像の範疇を大きく逸脱するような、荒唐無稽な物語がたくさんあって、それが読書の楽しみのひとつといっていいと僕は思うんだけど……とにかく、まあそうだな、ついてこれているよ、今のところ。ただ、変な感じはするね。今の話がフィクションじゃなく、現実の話だと認識することはなかなか難しいかもしれない」

「今のお話が現実だと証明することはできます。でも、その前に」

 リーリンは、こくんと首をかしげた。

「お腹が減りませんか、先生」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る