2-1-05

 左手の高さ三メートルほどのフェンスの上には、数メートルにわたってぎっしりとカラスがとまり、じっと平沢の方を見ている。歩道だけでなく、車道にも、一羽、また一羽と、カラスたちが降り立ってくる。

 平沢の周囲は、あっという間に黒く光沢のある羽根で埋め尽くされていった。

 同じだ。

 平沢はリックから聞いた話を思い出していた。

 すぐにここから立ち去るべきだ。そう思う一方で、これから何が起こるのか、この目で確かめたい欲求が平沢の心を侵食し始めていた。恐怖と好奇心がないまぜになっていた。

 平沢の視界の隅で、カラス以外に動くものがあった。

 エンジン音が聞こえてくる。

 小学校のグラウンドを、土煙を上げて、一台のバイクが平沢の方へ猛烈なスピードで疾走してきた。

 平沢の視線につられるように、カラスたちがいっせいにグラウンドの方を向いた。

 バイクの乗り手はフェンスの手前でハンドルを切り、シートに両足を乗せると、フェンスの手前で跳躍した。

 横向きにフェンスに激突したバイクの衝撃で、フェンスの上にいたカラスたちが飛び立ち、すぐさままた、フェンスの上に降り立つ。

 と同時に、平沢の目の前に、バイクの乗り手がすとん、と着地して膝をついた。

 バイクの乗り手は、すっと立ち上がると、ヘルメットを脱いだ。

 長い黒髪が、背中にこぼれ落ちる。

 ヤン・リーリンは、その黒髪をわずかに揺らすと、平沢の方を振り返らずにいった。

「私から離れないで。先生」

 いつのまにかリーリンは左手で、ページが開かれた本を掲げていた。

 リーリンは本に書かれている内容を、声に出して読み上げ始めた。中国語だった。

 周囲のカラスたちがいっせいにたじろいだのが、平沢にも感じられた。

 リーリンの左腕には、皮のベルトがらせん状に巻かれていて、そのベルトには金属製の太い針のようなものがずらりと装着されていた。

 リーリンが腰を落とすのと、フェンスの上のカラスたちがリーリンに襲いかかるのが同時だった。

 しかし、リーリンが右腕をひとなぎすると、カラスたちは次々と路上に落下していった。苦しそうに翼をばたつかせている。カラスたちの体には、リーリンの腕のベルトに付けられていた針が刺さっていた。

 リーリンの動きがあまりにも速かったため、平沢には認識できなかったが、どうやら彼女は左腕のベルトに刺さっている針を抜き、続けざまにカラスに向けてそれを放ったようだ。その間、なおも本を読み上げている。

 今度は、地面にいたカラスたちがいっせいに飛び立った。何十羽といるカラスたちが平沢とリーリンの周りをぐるぐると回り始めた。

 ときおり、黒い群れの中から飛び出してきたカラスが、平沢たちめがけて飛んできた。そのたびに平沢は、リーリンにしがみつくようにして、必死にそれをかわした。

「少しくらいなら、奴らに触れても大丈夫です」本から顔を上げずに、リーリンはいった。

 少しくらいなら、ということは、少しじゃなければ大丈夫じゃないということだよな、と平沢は独りごちたが、リーリンにそれをいう余裕はなかった。なぜなら、カラスたちは二人の周りをまわりながら、徐々にその輪を小さくしていたからだ。

 このままでは――と、平沢が背中合わせに立っているリーリンの方を向いたとき、リーリンの右手が再び動いた。リーリンの放った針に射抜かれて、ばたばたとカラスたちが地面に落下する。数回それを繰り返すと、カラスたちの量は半分ほどになった。

 カチン、という音とともに、リーリンが左腕のベルトの金具を外した。腕に巻き付けられていたベルトが解かれると、それはまるで鞭のようにしなった。リーリンは右手に握ったその鞭でバシン、と地面を打つと、カラスたちの動きとは逆向きに、その群れを薙ぎ払った。

 平沢の体を中心にしてぐるりと回りながら、リーリンはカラスたちの群れを鞭で引き裂いていく。一周すると、カラスたちの数はかなり減っていた。ついにカラスたちは四方八方から平沢たちに襲いかかってきた。

 リーリンの操る鞭が複雑な軌道を描き、次々にカラスたちを打ち落としていく。その間も、リーリンはずっと本を読み上げ続けている。

 平沢の目では、鞭の動きをほとんど追うことができなかった。カラスたちは、リーリンの鞭にことごとく打ち据えられて、やがてすべてのカラスが地面に横たわった。

 リーリンは右手に持っている鞭を片手でくるくると回転させると、それはまるで革製のブレスレットのように右手首に巻き付いた。器用に金具を歯でカチンと止め、左手に持っていた本をぱたんと閉じるとジーンズの後ろのポケットに入れた。

  平沢は、道路に横たわる無数のカラスたちを呆然と見渡した。

「これは……これは、いったい何なんだ」

 その質問には答えず、リーリンは平沢に告げた。「長居は無用です。行きましょう」

 平沢は一瞬、躊躇した。

「このまま放っておくしかありません。騒ぎにはなるでしょうけど、私たちに害は及びません」リーリンは足元のヘルメットを拾うと、バイザーを上げて腕を通し、フェンスに手をかけた。「今この周辺の空間は、私たちのいる世界とは位相がずれています。しばらすると元に戻りますが、それまでは誰にも見られることはないでしょう」

 あっという間にフェンスを登って上部に手をかけたリーリンは、そのまま体をひねって軽々とフェンスを飛び越えると、すとんとグラウンドに着地した。

 バイクを起こして、リーリンは平沢の方を振り返った。

 平沢は足元のカラスを踏まないよう、恐る恐るフェンスに近づき、手をかけた。次に足をフェンスにかけようとしたが、腰が引けて、ずるずると滑り落ちた。足に力が入らなかった。

 リーリンはフェンスの向こうで、大きく腕を広げると、平沢を抱きとめるポーズを取った。

 平沢がためらっていると、リーリンは腕を広げたまま、真顔でこくんと首をかしげた。

 平沢はため息をついて首を振った。

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