2-1-04
リックにひとこと声をかけて、平沢は『Future Visions Books & Comics』を後にした。バス停の前で、耕平の実家にもう一度電話を入れてみたが、まだ留守番電話だった。次のバスまで少し時間がある。平沢はダウンタウンの方に向けて歩き出した。
このままバーンサイドストリートを西に歩けば、四十分ほどでダウンタウンに着く。しかし、平沢は途中でわき道にそれた。平沢はそうやって道順を考えずに、よく街を歩いた。歩くたびに、新たな発見があった。
バーンサイドストリートの南側は整然と区画整理された住宅地が広がっている。背の高い街路樹が歩道に影を作り、夏の暑さを和らげていた。
小学校の脇の道を歩いているときだった。左手にはグラウンドのフェンスが続いている。平沢の数歩先のフェンスの上に、一羽のカラスが降り立った。
ポートランドでカラスを見かけるのは珍しい。平沢が覚えている限り、カラスを見たのは初めてリックと会ったファーマーズマーケットの時を含めて数回しかない。
フェンスの上のカラスはまるで目的を持っているかのような、揺るぎない視線で平沢を見つめた。思わず、平沢は足を止めた。背後で羽の音がして振り返ると、もう一羽、カラスが平沢の後方数メートルのところに降り立ったところだった。さらに、道路を挟んで反対側の歩道にも、二羽のカラスが降り立った。鳥たちは身じろぎもせず、じっと平沢を見ている。
平沢の脳裏に、リックの言葉が蘇った。
「カラスたちに気を付けろ」
リックが自分の足のことを平沢に語ったのは、ふたりが知り合って二年が経った頃だった。
いつものようにふたりは地元のコーヒーショップで最新のコミックスの話をしていた。古い工場を改装した店舗で、高い天井と大きなガラス張りの壁面が特徴だった。ふたりは窓際のカウンター席に並んで、外を眺めていた。
店の外の歩道に、一羽のカラスが降り立った。
平沢は思わず隣のリックの顔を見た。
リックは少し緊張した表情を見せたが、大丈夫だというように手を上げた。
「いつもじゃないが、たまにどうしようもなく怖くなっちまうんだ」
カラスは歩道に落ちていた小さなごみをついばむと、飛び立っていった。
「そういや、センセイと知り合えたのは、あいつのおかげなんだよな」リックはコーヒーをひと口飲んだ。
「なあ、センセイ。あんたは、自分でも信じられないような不思議な出来事に出くわしたことはあるかい」
平沢は首を振った。
「普通はそうだよな。だが、俺はあるんだ」
平沢がうなずくと、リックは話し始めた。
「あれは、俺が店を出してようやく数年が経った頃だ。今からもう二十年近く前になる。その日、俺はビールをしこたま飲んでいた。あんたも知っての通り、ここのクラフトビールも絶品だからな。俺はもう酒は飲まなくなっちまったが。
夜の九時くらいだった。
ダウンタウンのエースホテルの裏手の路地を歩いていた。その頃、俺はダウンタウンに部屋を借りていてな。俺のほかに人通りはなく、あたりはひっそりと静まり返っていた。当時のあの辺りは今と違って、夜になるとめっきり人通りが絶えてしまったんだ。
突然、俺の背後で音がした。
振り返ると、一羽のカラスがダストボックスの上にいた。
どうやらそいつが降り立った音らしい。
やがてその隣にもう一羽降りてきた。
少し離れた路上にも一羽。
シャッターの閉まった店の軒先に一羽。
そうやってどんどんカラスたちは増えていき、気がつくと俺は大量のカラスに囲まれていた。
突然、カラスたちは羽を広げると、俺の周りをぐるぐると回り始めた。たくさんのカラスが俺を中心にして飛び回っているんだ。
最初、俺はただ呆然と立ち尽くしていた。やがて気味が悪くなった俺は、なんとかカラスたちの群れから外に出ようと足を踏み出した。
すると、カラスたちは、いっせいに俺の足元に殺到した。
さすがに俺は焦りはじめた。酔いはすっかりさめた。
俺の両足は、膝のあたりまで大量のカラスで埋もれていた。
足が動かなかった。
パニックになった俺の耳に、突然男の声が飛び込んできた。
振り返ると、暗闇の中から男がこちらに近づいてきた。
黒いロングコートを着た、アジア系の若い男だった。
男は片手に本を持ち、もう片方の手に鞭のようなものを持っていた。
どうやら、片手に持った本を読み上げているようだった。
たぶん中国語だろう。俺には何をいっているのかわからなかった。
一瞬男は顔を上げると、俺にうなずいた。
彼は味方だ。
とっさに俺は思った。
男がこちらに向かって跳躍するのと、俺の左脚にまとわりついていたカラスたちが飛び立つのが同時だった。
カラスたちはバサバサと音を立てて、男に向かっていった。
男は片手に持っていた鞭をしならせて、カラスたちを次々と叩き落していった。その間、男はずっと本から目を離さず、朗読も止めなかった。
不思議な光景だった。
まるで魔法使いが呪文書を読み上げながら、戦っているみたいな感じだった。
すべてのカラスを叩き落とすと、男はコートのポケットから携帯電話を――ブラックベリーだったよ――取り出すと、電話をかけ始めた。
どうやら救急車を呼んでいるらしい。流ちょうな英語だった。
電話をかけながら男が俺の方に近づいてくると、俺の右足にまとわりついていたカラスたちはいっせいに飛び立っていった。
俺の体がぐらりと揺れて、俺は道路に倒れ込んだ。
その時初めて気がついた。
俺の右足首がなくなっていることに。
それに気がついた瞬間、俺の足首から大量の血が流れだした。
そこから先のことはあまり覚えていない。
男がそのあと、どこへ行ったのかも。
病院に着いたときは俺ひとりだったから、どこかへ立ち去ったんだろう」
リックはカウンターに立てかけてある杖に手をやった。
「実は、ここまで話したのはあんたが初めてなんだよ、センセイ」
平沢はなんと答えていいかわからず、無言でうなずくしかなかった。
「あんたには、なんとなく話しておかなきゃいけないような気がしたんだ。老人の世迷言だと思ってもらっても構わないがね」
確かに信じられないような話だったが、平沢にはリックの言葉に不思議な説得力があることを感じていた。
「根拠はないけど」平沢はいった。「僕はその話、信じるよ、リック」
リックは杖から手を離し、マグカップをそっと両手で包み込むと、平沢を見てこういった。
「センセイ。カラスたちに気を付けろ」
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