2-1-03

 平沢は、大学のあるダウンタウンからバスで十五分ほどの、イースト・バーンサイド・ストリート沿いのバス停に降り立った。そのすぐそばのビルの一階の窓に、『Future Visions Books & Comics』と書かれた色あせたステッカーが貼ってある。平沢はそのビルに入っていった。

 ビルの一階は空きテナントで薄暗かった。もうすっかり慣れてしまった埃っぽい匂いと、ひんやりとした空気を平沢は吸い込んだ。廊下の突き当りにある小さな階段を下りていくと、地下には外からは想像できないくらい広い空間が広がっている。その空間は、古今東西のコミックで埋め尽くされていた。

 平沢が店に足を踏み入れると、五十年代のアメコミの山から中年の男がひょっこりと顔をのぞかせた。

「やあ、リック」平沢が男に声をかける。

「来たね、センセイ」リックと呼ばれた男はセンセイを日本語で発音した。「ちょっと待ってな」

 リックがまた本の山の奥に姿を消した。平沢は新刊コーナーのバンデシネを物色し始めた。

 数分後、カツカツと何かが床を叩く音が近づいてきて、平沢は手にした本を棚に戻すと、振り返った。右手に杖、左手に大判の本を持ってリックが立っている。

「こいつだろ」

 リックが差し出した本は、ベトナムの新人作家のコミックス最新刊だった。

「そうそう、これだよ。よくわかったな」本を受け取り、代金を払いながら平沢がいった。

「何年この商売やってると思ってるんだ」眼鏡の奥のリックの目が細められ、髭に覆われた口元が緩んだ。「そういえば、昨日あんたんとこの生徒が来てたよ。アジア人の女の子だ。台湾から来たっていってたな。名前は確か……」

「ヤン・リーリン?」

「そうそう、その子だ」リックは腕を組んだ。「若いのに、なかなか見どころがある子だよ」

「あんたがそこまでいうのは珍しいな」

「そうかい?」リックは肩をすくめた。「じゃあ、ゆっくりしてってくれ」

 コツコツと杖を突きながら、店の奥へ歩いていくリックの後ろ姿を見ながら、平沢はリックに初めて会った時のことを思い出していた。そんな昔のことを突然思い出したのは、電話で刑事がいった「田井中さんは、鳥を飼っていましたか?」という言葉がひっかかっているからだろう、と平沢は思った。


     ※ 


 平沢が初めて『Future Visions Books & Comics』の店主、リチャード・ラッセルに会ったのは、今から十年前、平沢がオレゴン州ポートランドにあるスタンプタウン大学に赴任して間もなくのことだった。

 全米で最もヴィーガンに優しい街といわれているポートランドでは、毎週日曜日にあちこちでファーマーズマーケットが開催されている。その日、平沢は、ポートランドで最も大きなキャンパスを有しているポートランド州立大学で開かれているファーマーズマーケットにいた。

 そこでは、地元でとれた新鮮や野菜、ソーセージやサラミ、塩、果物、ジャム、香辛料、さらには魚介類など様々な食材を売る出店が所狭しと並んでいる。平沢は、料理に使う食材を買い込むと、大学の中を散策した。建物の中も自由に入れるようになっている。人気のない中庭を横切ろうとしたとき、人の悲鳴のような声が聞こえた。

 ここは日本じゃない。まず、そう自分にいい聞かせて、平沢は声のした方へ近づいていった。時間と場所を考えると、それほど大きな危険があるとは考えにくかったが、平沢はいつでも通報できるようスマートフォンを握りしめた。

 校舎の入り口の近くに男がひとり頭を抱えてうずくまっているのが目に入った。さっと周りをうかがったが、誰もいない。男は体を震わせながら、ときおり手に持った杖をむやみに振り回していた。まるで何者かが自分に近づかないようにしているみたいだった。

「あの、大丈夫ですか」平沢はためらいがちに、男に声をかけた。

 男は、ゆっくりと顔を上げた。五十歳前後、と平沢は見当をつけた。眼鏡をかけ、ひげをたくわえている。男の怯えた視線に、平沢は反射的に両手を広げた。

 やがて男は震える手で、平沢の左手の方を指さした。

「すまんが、あいつを追い払ってくれんか」

 平沢が男の指さした方を見ると、一羽の大きなカラスがじっとこちらを見ていた。

 状況から判断すると、どうやら男はこのカラスに怯えているらしい。しかし、平沢が見る限り、なんの変哲もないカラスだった。

 平沢はカラスに近づいていくと、カラスはとっ、とっ、と数歩進んでからおもむろに翼を広げて空に飛び立った。

 平沢が男のそばに戻ると、男は杖を突いてゆっくりと起き上がろうとしていた。平沢は男の腕に手を添えて、男が立ち上がるのを助けた。

「ありがとう」男はほぼ落ち着きを取り戻しているようだった。平沢が手にしている買い物袋に目をやると、男はいった。「もし急いでいなければ、お礼にコーヒーでもどうかね」


「うまい」

 大学構内のベンチに腰掛け、男に手渡された紙コップに入ったコーヒーをひと口飲んで、平沢は思わずつぶやいた。そんな平沢を見て、隣に座っている男がにやりと笑った。

「この街にはうまい自家焙煎のコーヒーショップがたくさんある」そういって、男はファーマーズマーケットに出店しているコーヒースタンドを指さした。ジョエルズコーヒーロースターズという看板が掲げられている。「特に、あそこは俺のお気に入りでね」

 平沢は、隣の州にあるシアトルが本拠地の、世界的なコーヒーチェーン店の名前を挙げた。「僕はコーヒーには詳しくないけど、全然違いますね」

「比べ物にならないよ。俺にいわせれば、あんなのはコーヒーとは呼べないね」男は首を振った。「あんた、旅行者には見えないが、ここは長くないのかい?」

「実は、引っ越してきたばかりなんです」

「そうか」男は手を差し出した。「リックだ。リチャード・ラッセル。イースト・バーンサイドで本屋をやってる」

 平沢は手を握った。「コウイチ・ヒラサワです。スタンプタウン大学で講師をしています」

「へえ。大学の先生だったか」

「まだ駆け出しですけど」

「立派なもんだ。ちなみに、何を教えてるんだい」

「日本の文学、特に現代文学です。でも、本来の研究テーマは、日本のポップカルチャーやサブカルチャーで、将来はその研究成果をもとにした講義をやりたいと思っています」

「なるほど」リックはうなずいた。「パウエル・ブックストアにはもう行ったかい」

 リックは街で最も大きな本屋の名前を挙げた。 

「もちろん」平沢はうなずいた。「あそこは素晴らしいです。何時間いても飽きませんね」

「じゃあ、今度はこちらもよろしく」

 そういって、リックは平沢に名刺を差し出した。名刺には、ドラゴンに乗った女の子のイラストと『Future Visions Books & Comics』という店名が書かれていた。

「日本のマンガも置いてるよ。世界中のコミックを扱っている。品ぞろえには自信があるんだ。一度覗きに来てくれよ、センセイ」

 リックは、センセイを日本語で発音して、にやりと笑った。

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