2-1-02
講義のあと、何人かの生徒の質問に答えてから教室を後にした平沢は、背後から呼びかけられた。
「ヒラサワ先生」
振り返ると、ヤン・リーリンが立っていた。
「授業に参加させていただいて、ありがとうございました。ほんとは来学期からなのに」
「ダグの頼みじゃ、断れないよ」平沢はにやりと笑った。「彼には、ゴルフでしこたま借りがあるからね」
「父が羨ましがっていました。ここには素晴らしいコースがたくさんあるって」
「お父さんのいう通りだよ。君もやるの?」
「たまに。父はシングルです」
「すごいな。ちなみに、ダグもシングルの腕前だよ。今年で六十五歳なのに、元気なものだよ」
「父が、よくいってました。ゴルフに年齢は関係ないと」
「なるほど。じゃあ逆にいうと、ダグより二十五歳も年下の僕でも、彼のハンディをひっくり返せるということかな」
「そういうことになりますね。ところで」リーリンは、ちらっと廊下の左右に視線を走らせた。「ご存知ですか。最近日本で起こってる事件のこと」
「もしかして、日本の小説家が相次いで行方不明になっているっていう?」
リーリンはうなずいた。「はい」
「あれはただの噂だと思ってたよ」
「事実です」リーリンはちらっと、平沢が手に持っているライトノベルに視線を移した。「実は、先日台湾でも一人、失踪者が出ました」
「台湾で? それも小説家?」
「はい。まだ詳細な情報は伏せられていますし、日本の事件との関連を示す具体的な証拠も出てきていません」
「リーリン、君は――」
「父が捜査関係者なんです」
「ああ……」平沢はうなずいた。
「先生、お知り合いに小説家は?」
「いるよ。でも、まあ、彼はたぶん大丈夫だろう。知っているかもしれないけど、噂では、行方不明になっている小説家はみんな――」
「ヒラサワ先生!」と、廊下の向こうから声を掛けられ、平沢の言葉は遮られた。総務課の男性職員が平沢とリーリンの方へ急ぎ足で歩いてくる。
「日本から、お電話です」男性職員が告げた。「日本の警察の方から」
電話口の男性は、平沢の友人、田井中耕平が住んでいる県の警察本部刑事部の人間だと名乗った。
「田井中耕平さんの行方が一週間前からわからなくなっています」と、刑事はいった。
刑事は、耕平のスマートフォンの記録によると、最後に電話をかけた相手が平沢だということを告げ、その時になにか気がついたことはなかったか、と尋ねた。
平沢は、一週間ほど前に耕平とインターネット電話で話をしたことは覚えていた。確か、今年の夏休みは帰ってくるのか、帰ってくるのなら久し振りに会おう。そんな内容だった。とりたてて変わった様子は感じなかった。平沢は刑事にそう答えた。
「そうですか」と刑事はいった。
「耕平は、スマートフォンを置いて姿を消した、ということなんですか」
「そうです」
「書き置きなどは」
「今のところ、見つかっていません」
「あの、これって一連の事件と関係あるんでしょうか。日本の小説家が何人か行方不明になっているって聞いたんですけど」
「今のところ、それについてお答えすることはできません」
それからいくつか、最近の耕平の様子について質問を受けたあと、平沢は刑事にこう尋ねられた。
「田井中さんは、鳥を飼っていましたか?」
「鳥、ですか」
「ええ」
「いや。僕の知る限りでは、飼っていませんでした。あの、鳥ってどんな――」
「それなら、結構です」
そのあとは、何か思い出したらいつでも連絡してほしいというお決まりの言葉を残して、刑事は電話を切った。平沢は、総務課のデスクに置いてある電話機に受話器を置いた。
「日本で何かあったのかい?」平沢を呼びに来た総務課の男性が声をかけた。
「いや。なんでもないんだ。ありがとう」
平沢は、総務課を出て自分の研究室に戻り、スマートフォンを取り出した。耕平の実家には、中学高校と毎日のように電話していたから、今でも番号は暗記していた。時刻表示は十五時二十分。サマータイムだから、向こうはまだ朝の七時だ。場合が場合だから構わないだろう、と平沢は判断して通話ボタンを押した。
結局、耕平の実家の電話には誰も出なかった。名前と、あとでかけなおす旨を留守番電話に吹き込んで、平沢は電話を切った。
落ち着かなかった。
リーリンと、事件の話をした直後だったことが妙に気にかかった。
今あれこれと考えても仕方がない。今日は特に予定がないことをアプリで確かめて、研究室のドアの鍵を閉めたときに、用事があったことを平沢は思い出した。
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