第二章

1.オレゴン州ポートランド

2-1-01

「さて、少し早いけど今日はここまでにしよう。来週から夏休みということで、そわそわしている人もいるみたいだからね」

 平沢は、最前列に座っているハワードに微笑んだ。

「ヒラサワ先生、一番そわそわしてるのはアンディですよ」

 ハワードは隣の席の赤いTシャツの生徒を指さした。

「ぬかせ、ハワード。お前、来週からのキャンプで頭がいっぱいなの知ってるぞ」

「うるせ」ハワードがペンを投げつけるふりをすると、アンディは両手で顔を庇った。

「あんたたち、ほんと仲いいわねー」後ろの席のジェシカが呆れた顔でいうと、ハワードとアンディは振り返って肩をすくめる。

「まったく、400番代のクラスとは思えないわね、ここは。まあ、いつものことだけど」ジェシカの隣の席のリズがため息をつく。

「あー、浮かれているところ悪いんだけどね」平沢が腰かけていた教壇から降りて、十数人の生徒たちを見渡した。「実は、課題のお知らせがあるんだ。君たちは全員、次年度も引き続きこの授業を取っているからね」

 生徒たちが、「あー」「やっぱりな」と口々に声を上げる。

「そんなにヘヴィなものじゃないから安心していいよ。ここにいるほとんどの人は、ケネス教授の比較文学のレポートで苦しめられてるだろうから」

 そこかしこで、今度は苦痛を伴った同意の声が上がる。

「君たちはこれまで様々な時代の日本文学を、様々な切り口で学んできたと思う。僕の講義では主に、日本の現代文学について学んでもらった。特にここしばらくは日本のエンターテイメント系の小説を紹介してきたよね」

 平沢は、教壇に置かれている本を手にした。

「次年度から取り上げようと思っているのが、ライトノベルというジャンルなんだ。聞いたことがある人はいるかな」

 女性の生徒がふたり手を挙げた。平沢はそのうちのひとり、全身黒づくめで鼻と頬にピアスをつけ、タンクトップから覗く左肩に大きな黒いバラの入れ墨をしている生徒を指さした。小ぶりの青いリンゴをかじっている。

「ジェニファー、君はたまに『Future Visions Books & Comics』で見かけるよね」

 ジェニファーが、ほおばっていたリンゴを飲み下して、うなずいた。「私は日本のサブカルチャー全般に興味があります」

「うん。そいつは頼もしい。今度ぜひ、意見交換しよう」平沢は、もうひとりの生徒に目を向けた。一番後ろの列で、少しみんなから離れて座っている。ジェニファーとは正反対に、Tシャツにデニムのシンプルないで立ちだった。

「君は確か、特別プログラムの留学生だったね」

「はい。本当は次年度からなんですけど、学部長のロス先生が雰囲気を見ておくといいとおっしゃっていただいたので、参加させていただきました」

「うん。ダグから話は聞いているよ。ちょうどいい。自己紹介してもらえるかな」

 その生徒は、うなずいて立ち上がった。「台湾から来ました、ヤン・リーリンです。リーリンと呼んでください。この特別プログラムに参加した最も大きな理由が、ヒラサワ先生の講義です。ヒラサワ先生の書かれた本は全部読みました」

 おおーっという声が上がる。

「ライバル登場だな、ケン」

 最前列に座っている眼鏡をかけたアジア系の生徒に平沢が語りかけた。

「ちなみに、どれがいちばんよかった?」ケンがリーリンの方を振り返って、尋ねた。

「どれも素晴らしかったけど、いちばん感銘を受けたのは、『二次元と三次元とのはざまで』かな」

「ああ。あれは僕も好きだ」ケンがうなずく。「絶版で入手困難なのが残念でならないよ」

「この教室の中で、その絶版を最も残念がっているのは間違いなく僕だけどね」

 平沢の言葉に、笑い声が起こる。

「夏休みはどうするの?」ジェシカがリーリンに尋ねた。

「出版関係のボランティアと、夏期講習を受けるつもりです」リーリンが答えた。

「あれ、結構ハードだよ」ジェシカがいった。

 リーリンは肩をすくめる。「噂は聞いてます。でも、先ほどのみなさんの反応を見ると、ケネス教授の比較文学のレポートよりはなんとかなりそう」

 そこかしこで、同意と否定と笑いが起こった。

「ありがとう、リーリン」平沢が手を差し出し、リーリンは席に座った。

「さて。話を戻そう」平沢は手に持った本を掲げた。「休みの間に、みんなにはライトノベルを読んでもらおうと思ってる。もちろん、英訳版だ」

 平沢が掲げた本の表紙には、いかにもジャパニメーションに出てきそうな女の子のイラストが描かれていた。

「イントラにPDFを置いておくから、各自ダウンロードして。一応、教材に使うということで、出版社の許可は取っているけど、みんな取り扱いには十分注意するように」

 生徒たちがうなずく。

「先生」ジェシカが手を上げる。「ライトノベルって、ジュヴナイル・ノベルみたいなものなんですか?」

「ジュヴナイル・ノベルよりも、もう少し対象年齢は上のイメージを僕は持っている。どちらかというと、ヤングアダルト・フィクションが近いかもしれない。でも、実はライトノベルの明確な定義はないんだ」平沢はふたたび教壇の上によっこらしょ、と腰かけた。「漫画やアニメーションと比べるとまだあまり海外では知られていないけど、日本でのマーケットはかなり大きなものになっている。ちなみに、一年間に出版されるライトノベルのタイトル数は、約三千点」

 ヒューっと、口笛が上がる。

「これは恐らくライトノベルの定義を広く捉えているからだと思うけどね。細かな説明はまた今度にするけど、一般文芸に近いライト文芸やキャラクター小説というのも入っていると思う。ただ、これは数年前の数字だから、今はもっと増えている可能性が高い。二〇〇七年から二〇一七年までの十年間で二倍に増加したというデータもある」

「確か……」タブレットを操作しながら、リズが発言する。「先生は以前、日本の『文学』の出版点数は年間一万三千点くらいだとおっしゃってましたよね」

「その通り」平沢がうなずく。「日本の総務省統計局が出している『日本の統計』によると、二〇一六年の数字がそれくらいだったはずだ」

「ってことは」ハワードがリズを振り返る。「『文学』の年間出版点数の四分の一がそのライトノベルってことになるぞ」

 リズが手のひらを上に向ける。

「その二つの数字は出所が違うから、単純に比較はできない可能性があるけどね」平沢がいった。

「先生、そのライトノベルって、日本の文学の中でどのような位置づけなんですか」と質問したジェシカを、平沢は指さした。

「ジェシカ、まさにそれをみんなで議論して推測してほしいんだ。そうだな。じゃあ、今日は少しだけ実際に読んでみることにしよう」

 平沢は本のページを開いて読みはじめた。

「俺の名前は黒崎健吾。外見、学力とも平均値の、どこにでもいる高校二年生だ――」

 やがて冒頭の数ページを読み終えると、平沢はパタンと本を閉じて、生徒たちの反応を待った。

 教室内は静まり返っている。

「あー」ためらいがちに、アンディが口を開く。「訳の問題なのかな。なんていうか、小学生の作文みたいな文章に聞こえたけど」

「俺も」「私も」と、そこかしこで同意の声が上がる。

「いや、訳は正確だよ」平沢が答える。

「じゃあ、何か意図があるのかも」と、リズ。

「たぶん読んでもらえるとわかると思うけど、この文体に、内容と密接にかかわるような意味や仕掛け、伏線などは込められていない」平沢が説明する。「最初から最後まで一貫してこの調子なんだ」

「これってもしかしてインディペンデント・レーベルなんですか?」男性の生徒が質問し、平沢が答える。

「いいや。自費出版でも、同人誌でも、ジンでもない。ちゃんと大手の出版社から出ている書籍だよ」

 にわかに教室内がざわつき始めた。

 生徒たちは「どういうこと?」「日本の小説のレベルは――」「ちょっと考えられない――」「やっぱり何か意図があるんじゃ――」などと、議論を始めている。

 ぱん、と平沢は手を叩いた。

「議論は休み明けまで取っておこう。まずは、一冊読んでみること。すぐに読めると思う。興味がある人は、何冊かタイトルを挙げておくから、買ってみるといい。最近は英訳されたものも増えているからね」

 平沢は腰かけていた教壇から降り立った。

「今日はここまでにしよう。では、みんな、いい夏休みを」

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