ヴィーンでの勉強と苦難の日々12

 私が青年時代に社会民主党について知っていたことは、非常に少なく正しくなかった。


 私は社会民主党が無記名普通選挙のために戦ってきたことを内心で喜んでいた。当時、私はこれこそが非常に憎いハプスブルク統治を弱体化させるに違いないと思っていたからである。


 ドーナウ国家はドイツ人を犠牲にしなければ決して維持することはできないし、さらにドイツを徐々にスラブ化するという代償すら――スラブ人の国家の維持力はこの上もなく疑問なので――実際に生命力のある国家を保証することは決してないという確信を持っていた。


 そこで私はこのとうてい国家になりえない、一千万人ものドイツ人に死刑判決を下すようなことをしている国家を、崩壊に導くに違いないと確信しているすべてを歓迎していたのである。


 言語の混乱が議会を腐食し分裂させればさせるほど、このバビロンのような国家は滅亡に近づき、それとともに我がドイツ系オーストリア民族の解放に近づくに違いなかった。だから私はこのような社会民主党の活動は気に入らないものではなかったのである。


 この運動は結局、労働者の生活向上を目指しており――当時の私の無邪気な心はまだこれを信じるほど馬鹿であった――やはりこれは労働者にとって不利ではなく、むしろ有利なのではないかと思った。


 私がもっとも反発したことは、ドイツ主義を維持するための闘争に対して彼らが敵意ある態度をとっていることと、スラブの「同胞」の好意を求めるという哀れなことであった。


 スラブ人たちはこの求愛をそれが実際の譲歩と結びついている限りは確かに受け入れるが、そうでない場合は思いあがって高慢ちきに引きこもり、こうしてうるさい乞食にふさわしい金しか与えないのである。


 十七歳の頃、私は「社会民主主義」と「社会主義」を同一の概念で捉えていたし、「マルクシズム」という言葉もほとんど知らなかった。ここでも私の目を開かせるためには運命の鉄槌が必要だった。


 そのころまでの私は社会民主主義をただ二、三の大衆デモの傍観者として知っていただけで、その支持者の思想や本質については一切見識がなかった。そこで私は社会民主党の教育とその思想を造り出すものに触れるようになったのだ。


 おそらく二、三十年後に現れてくるだろうものを、この二、三か月の間に受け取った。すなわち、社会道徳や隣人愛の仮面のもとにさまよっているペストであり、人類はこれをできるだけ早く地上から追放するべきであり、さもなくば人類が地上から追い払われてしまうだろう。

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