ヴィーンでの勉強と苦難の日々7

 私はすでにこの状況を改善するためには二つの道しか残されていないことを知っていた。すなわち、よりよい社会を作るため、社会的責任を得る基礎を作るか、改善しがたい怪物を倒す決意をするか、である。


 自然において現状維持ではなく、種の担い手である若い規律ほど重要なものはない。同様に人間生活においてもまた、現存している悪を教科するよりも、これは人間の素質からしても九十九パーセント不可能なのだが、むしろ将来の発展により健全な道をはじめから確保することが肝要である。


 ヴィーンでの生存闘争の間に、次のことがわかった。


 社会的活動は無意味な福祉を夢見ることを目標にしてはならない。むしろ人を堕落に導いたり、あるいは誤りを導くような、我々の経済や文化生活の仕組みの中にある根本的な欠陥を除去することを目標にしなければならないのだ。


 国家的犯罪に対して仮借なく立ち向かう難しさというのは、こうした時代の内面的な動機や原因の判断が難しいということにある。この難しさは自分がこういう堕落の悲劇に対して責任があると感じるところに根拠があるのだ。


 しかし、それはしっかりした決意を麻痺させ、自己保存に必要なことすらも中途半端にしてしまう。自分の責任であるという意識がなくなったとき初めて、内心の落ち着きとともに雑草を引き抜くような外面的な力を持つようになるのだ。


 オーストリアは社会的な司法や立法をまったく知らなかったし、悪習を制圧することにおいてさえ弱点を露呈した。


 実際、この時代ほど私を驚かせたものはない。


 私の仲間の経済的な惨めさ、風紀、道徳上の下品さ、精神的な文化の低さがそう感じさせたのだ。


 惨めな浮浪者の口から、「ドイツ人であろうがなかろうが同じことだ。ただ必要な収入さえあればどこでも同じように満足だ」と聞いて、何度義憤を感じたことだろうか。


 この場合、『国民的誇り』が欠けていることが嘆かれるのであり、強い嫌悪の声が投げかけられた。しかし、その中に自分自身にその考えをさせてくれる原因が何であるか問うてみたものがどれだけいるだろうか。


 文化的、芸術的生活のすべての領域における祖国や国民の偉大さを思い出すことが、結果として恵まれた民族の一員であるという当然の誇りを彼らに持たせているのだが、それをどれだけ多くのものが理解していることだろうか。


 祖国への誇りとは祖国の偉大さを知ることにかかっていると少しでも感じているものがどれほどいるだろうか。


 祖国の誇りとなる前提が人々にまったく伝わっていないということを、ブルジョワ階級の人々は考えているだろうか。


 ある人は言うだろう。



「他の国でも事情は同じだ」



 しかし、その国の労働者は自分の国民性に立脚しているのだと人々は言い逃れることはできない。たとえそうだとしても自分の怠慢の口実にはなりえないのだ。


 だが、実際はそうではない。


 例えば私たちはいつもフランス民族の「偏狭な愛国主義」教育と称されているものが、やはり文化の、フランス人の言葉で言えば「文明」の全分野におけるフランスの偉大さを極度に引き立てっているのだから。


 若いフランス人は祖国の政治的、あるいは文化的な偉材差を問題にする限り、客観性を持つことはなく、むしろ主観的観点に立つように教育される。その際、この教育は常に一般的で、きわめて大きな観点に制限されるべきであり、必要ならば何度も繰り返して民族の記憶と間隔に刻まれるべきである。


 しかし、私たちは学校で学ぶという個人が持っているはずの幸せをも積極的に破壊しているのである。


 わが民族を毒そうというネズミは大衆の心の中に、これらのわずかに残っているものをも貪り食ってしまうのだ。

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