ヴィーンでの勉強と苦難の日々4

 ヴィーンは世紀が変わってから、社会的に不安定な都市になっていた。富と貧困が互いに交差していたのだ。


 中心部では多民族国家の危険な魅力が確実に感じられた。目くるめく華やかさを持った宮廷は、磁石のように他国の富と知性を引き寄せた。その上、ハプスブルク家は強力な中央集権が行われていたのだ。


 その中で、多民族の形を維持していく一つの可能性が示されていた。それは高級官庁を首都に極度に集中するということだった。しかし、ヴィーンは政治的、精神的に古いドーナウ王国の中心であったばかりではなく、経済の中心でもあった。


 高級士官、官吏、芸術家や学者に対して労働者が対立しており、貴族主義と商業主義に血のにじむような貧困が対立していた。


 宮殿前の道路には幾千もの失業者がたむろしており、旧オーストリアの凱旋道路の下には浮浪者が住み着いていた。


 社会問題を研究するのに、ヴィーンほどよい都市は、ドイツでは他になかっただろう。


 しかし、騙されてはいけない。この『研究』は上から眺めていたのではできないのだ。


 死にそうな蛇の羽交い絞めを経験したことのないものは、その毒牙を知ることはない。


 そうではない場合、表面的な雑談、もしくは感傷以上のものでもない。両方ともに害がある。一つは問題の核心にまで到達できないからであり、もう一つはその上を通り過ぎてしまうからであった。


 幸運に恵まれているものや自分の稼ぎで成り上がったものに見られるような、高慢で出しゃばりで、しかも『民情に通じようとしている』慈悲深い腰の低さのような、社会的困窮への無関心ほどひどいものを私は知らない。


 とにかく、これらの人々は彼らの直観力に欠けた理解力ではつかみきれないほど、はるかに罪深いのである。だから彼らによって実行された社会的政策の結果が、いつも何にもならなかったり、場合によってはひどい拒否にあったりして、驚かざるを得ない。


 社会的活動はそれとはまったく関係がなく、恩に着せる権利もない。社会的活動というものは慈悲を分け与えるものではなく、権利を回復してやるものであるということを、そういう人々は認めようとしないのだ。


 私はこのような方法で社会問題を学ぶことを逃れた。


 この社会問題は私を苦しい生活に引き込んだが、それは学ぶためではなく、試されているのだと感じた。モルモットが手術を持ちこたえて快復し、健康になったのは、手術の功績ではなかったのだ。


 私はそのころ感じたことを再現しようと思うが、それは決して完全なものとは言えないだろう。ただ、最も本質的で、そして私にとってはショッキングなことを多少の教訓とともに話そうと思う。

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