5-7話 山にいる

『……うるさい……』


 ヨナルの喉の奥から声がした。

 最悪なほど不機嫌な声だった。聞いた者すべてを呪い、始原の恐怖を呼び覚ますような声だった。


『こっちはもう少しでカンストだったのだぞ……。それを……それを……』


 耳から脳へと直接入り込んでくるような声が、およそ意味のわからない事を言った。

 それを単純に「ゲームの邪魔をされた」と理解できるのはこの世で一人だけだ。

 だが、瑠璃の他に人の姿はどこにもない。炎に照らされ、壁に映った影だけが人の形をとっている。


『あと一戦だったのだ――こんなしょうもない事で我を呼び出すな、小娘……!』


 声を聞くたびに、瑠璃の目の焦点が合っていく。

 そして、ぱちっ、と瞬きをした。


「……ブラッド君!」


 目の前にいたのがヨナルだけだったため、キョロキョロとあたりを見回した。

 そうして壁に映った影に気がつくと、もう一度目を瞬かせた。先ほどの事など無かったかのようだ。完全に精神は安定していたし、何かに影響されている事もなかった。


「なんかぶち切れじゃん」

『ぶち切れにもなるわ、たわけが! あともう少しで伝説の中の伝説のあるばいたーとやらになれるところだったのだぞ』

「めっちゃゲームやりこんでる!!!」


 さすがにゲームの片手間みたいな空気で来られると衝撃もひとしおだ。

 こっちは生きるか死ぬかの瀬戸際だというのに。


『……ふむ。しかしそれほど弄られてはいなかったようだな』

「どういうこと? そりゃこんな状況見たらパニックにもなるでしょ」

『そう思うのならばそう思っていれば良い』


 ブラッドガルドは素っ気なく言う。


『それに、うるさかったのは貴様だけではないからな』


 影が、忌々しげに呟いた。

 瑠璃がどういうことだろうと考えている間もなく、ブラッドガルドはどうでも良さそうに言い放った。影だけだというのに、どうでも良さそうな顔がはっきりと幻視してしまうくらいに。


『まあ良い、帰るぞ。我は貴様を回収しに来ただけだからな』

「えっ。ちょ、ちょっと待って! まだここに私の友達がいるんだよ!」

『そんなものは知らん』

「っていうかこの……何? この何かをどうにかしないと!」


 守手様という名前なのは知っているが、もはや手なのかどうかも定かではない。

 そもそもオレンジ色はひどく鮮やかだ。


「っていうか今どこにいるの!? 実際このオレンジ見えてんのか!? 見てみればしょうもないとか思わないから!!」

『……なるほど。前言撤回しよう』

「お!?」

『こんな下らん事で呼び出すな』

「むがぁああ!」


 瑠璃は両腕を大きく上下させながら吼えた。

 その動きは一体なんなんだ、と言いたげにヨナルと影だけのブラッドガルドが見つめた。


「じゃあせめてなんとかしてよ!! なんとかできるだろ!」

『ふん。こんな中途半端なもの、我の足元にも及ばぬわ』

「じゃあ!」

『だがな、これまで積み上げられてきたものというのは無視できん』

「は!? どういうこと?」


 ずずず、とオレンジ色の触手が動き、どこかで中年の男らしきうめき声がした。

 一瞬びくりとする。

 その動いたオレンジ色を、影のままのブラッドガルドが指さした。


『つまり、こいつは紛いなりにも神だという事だ』

「それって……」


 ブラッドガルドの言葉はどことなく予想外でもあり、同時に予測できた事でもあった。

 瑠璃の嫌な予感が当たっているということなのか。


『……どれほど末端であれど、神として祀られたのであれば神は神。そいつをどうにかしようなどと言うのならば、それに並ぶほどの――それこそ信仰に等しいほどの強い願いと対価が必要だ』

「対価……」

『対価を払おうという見所のある奴はいたがな』

「え?」

『そいつがうるさくて仕方がなかったからこうして影だけでも来てやったのだ。だが残念ながら、そいつは――我に支払うだけの対価を持っていなかった』


 壁に映った影が、どこかを指さした。瑠璃の目線が吸い込まれるようにその方向を見る。頬を風が撫でていった。多分そっちが出口なのだろうと瑠璃は直感した。それでも灯りのない場所は暗い。オレンジ色の触手を生やした住人たちの間に、彼女は立っていた。

 オレンジ色の触手など意に介さず。

 倒れている人々の事も意に介さず。

 そこに突っ立っている。


「あ、あれ。きみ、夜に見た……」


 瑠璃には見覚えがあった。真っ白な着物を着た女の子だった。

 炎に照らされているわけでもないのに、彼女の姿だけははっきりと見えた。彼女が、顔をあげた。本来、眼球が入っているはずのその場所には、どこまでも続く暗闇だけがあった。


「ボアーー!!」

『うるさい』


 奇声をあげてヨナルに抱きつく瑠璃に、無慈悲な一言が落ちた。


「なにっ……、なん、何!!?」

『奴はな。貴様を通じて我のところまで直訴しに来たのだ。だが奴はもう死んだ身。我に払う対価を持ってはいない』

「ごめんいま途中で変な事言わなかった?」

『その意気だけは認めてやるがな。だが、我が求める対価は既に失われて等しい』

「ねえいまさあ」

『――命の炎という対価がな』


 真顔で尋ね続ける瑠璃をブラッドガルドは普通に無視した。


「……なら、僕の……、命でも、いいかな……」


 突然割り込んできた声に、瑠璃はギョッとした。

 暢気にここでブラッドガルドと話していたが、ここにはまだ生きている人間がいたのだ。しかもこの声は、聞いた事がある。何度もだ。

 少女の後ろから、ぬっ、と人が入ってきた。炎に照らされたその姿に、瑠璃は目を見張った。


「ひっ」

『……ほう?』

「蛭川先輩……そ、それは」


 照らされたのは、蛭川庸一だった。

 ほとんど四つん這いになりながら、時折ごほごほと咳き込んでいる。その片手は左目を押さえていた。その手の隙間からは、オレンジ色の触手が飛び出し、いまなお動きながら伸びようとしていた。


『その状態でまだ精神を保つか』


 ブラッドガルドが小さく笑った。

 どうやら感心しているらしい。


「そこに……いるのか。いるんだな、萩野……」

「は、はい」

「……。高木が、言ってた、んだ……」


 蛭川はつっかえながら言った。まるでいまにも喉の奥から出てくるものを抑え込むような声だった。実際にそうだったのかもしれない。


「あの、猿を、退けたのが、きみの、守護霊、みたいな、ものだった、って」

「……」


 瑠璃は黙った。

 瑠璃が後から聞いたところによると、あのコテージでの一件のあと、猿に取り憑かれていると最初に指摘したのは高木の叔母だったという。他のメンバーを連れてこいと言ったのもその叔母の指示だったらしい。なんでも、もともと霊感のようなものがある人で、あのコテージを買うのにも反対していたとだけ聞いた。瑠璃が聞いたのはそれだけだった。だがその「叔母」は。瑠璃があの場所で何をしたのか、あるいは正体不明ながらも何か強いものを連れているのだと、ある程度把握していたのだろう。

 高木はそれ以上何も言わなかったが、そのせいで、どうやら瑠璃には強い守護霊が憑いている――ということになっていたらしい。

 そして蛭川はそれを聞いたのだ。


「信じては、……なかった。でも、本当に、そんなものが、いれば……、なんとか、なると、思った。あいつを、殺せるんじゃ、ないか、って」


 結果的に、それは守護霊なんかではなかった。

 だが同じ事だった。


「……でも、居るんだな。どうにか、できる、だれかが」


 蛭川のまだある方の目も、既にどこを見ているのかわからなかった。

 それでも、その目には希望のようなものが宿っていた。薄い笑いを浮かべて、この先に起きるであろうことを期待している。


「先輩。……あいつは、なんなんですか」

「わからない」


 蛭川はそれだけはっきり言った。


「神……。僕たちは、神と呼んできた……。神でないなら、なんなのか……。サビ菌の一種じゃないかと、言った人も、いた。でも、結局……、わからない」

『ふん。こんなローパーもどきが神になるなど、相変わらず妙な世界だ』


 瑠璃はなんとも言えない表情で蛭川に目を向けた。

 あの幽霊めいた少女が、蛭川の肩を支えるように寄り添っているのが視界に入った。


「僕たちは……、守手様の、生贄の、ために……、よそから、人を、連れてくるのが、役目、だった」


 少女の目のない目が、こっちを見ている。


「そうしないと、自分の、知る、人が、贄になる、から……」


 少女の手が、ぎゅっと蛭川を抱きしめようとしていた。

 だが実体の無いその手を、果たして蛭川は気付いているのだろうか。


「巻き込んだ、のは、すまない……。だから、僕の、残りの、命を、使って……が、あっ!」


 蛭川が押さえた目から、オレンジ色の触手が勢いよく飛び出してきた。痛みに耐えているのか、その体がびくびくと跳ねる。地面を暴れ回り、やがてひゅーひゅーと息をしながら止まる。その口の端から、オレンジ色が飛び出してきていた。

 少女は覆い被さるように蛭川にしがみついている。


「……頼む。この村ごと、あいつを、殺してくれ! きみやっ、巻き込んだ人たちだけは……どうか……助けて……くれ」


 じわじわと押さえた手の隙間からオレンジ色が噴き出してきた。

 瑠璃は眉間に皺を寄せ、ブラッドガルドの影を見た。


「……ブラッド君。先輩が助かる道は無いの?」

『あれは既に生きているのが不思議なくらいだ。中も食い破られているからな。それを気力だけで保っている。もって十分もあるかわからん』

「そんな」

「……」

『まあ良い。無いよりマシだ。貴様の残りの命の炎、我がもらい受けるぞ』


 その言葉とともに、洞窟の中に妙な気配が渦巻きはじめた。

 何が変わったというわけではないが、オレンジ色の触手が反応したのか、うごうごとうごめきはじめた。


『だが後の事は知らん。回収は貴様と影蛇どもでやれ』

「……わかった。でも、ブラッド君はどうやってこっちに来るの?」


 ブラッドガルドの影から、何匹もの蛇が現れた。壁だけに映ったそれが、地面を伝って移動してきた。それらは実体も無いのに、瑠璃の周囲に集う。瑠璃に巻き付いていたヨナルがするりとその拘束を緩め、その体を縮めた。首元から顔だけを出し、ちろちろと舌を出す。


『小娘。貴様は我の名を呼ぶだけでいい――こんなまがい物ではない、本物の神降を見せてくれる』

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