3-4話 やまわろ

 瑠璃は指定の日時に指定の場所へ行くと、ユズとヒメが既に待っていた。

 待ち合わせは大通りに面した道路で、二人の後ろの路肩には黒いバンがとまっている。


「あっ、瑠璃! 瑠璃は大丈夫!?」

「う、うん」


 ユズとヒメが瑠璃に飛びつくようにして近寄った。


「それより、これはいったい……」


 尋ねようとするよりも先に、黒いバンの運転席が開いて、人が降りてきた。


「これで全員だな」


 降りてきたのは蛭川だった。

 以前に見たときよりも目線は鋭く、最後にやってきた瑠璃を見つめた。瑠璃は思わずドキリとする。一気に緊張感が走った気がした。そんな瑠璃の心情を知ってか知らずか、彼は車のドアを開けた。とにかく乗ってくれ、と言った彼に促されるように、二人に続いて瑠璃も車に乗る。そうして車はどこかへ向かって動き出した。車内に重苦しい空気が漂っていた。助手席に乗ったユズは険しい表情で車の外をじっと見ていたし、隣のヒメもどこか居心地悪そうだった。瑠璃だけが少し困惑したような顔で椅子に座っていた。

 わけがわからなかった。

 それに、高木と翔太、そして七海先輩もいなかった。全員という話だったのに、どうして足りていないんだろうか。

 蛭川も――運転しているから、というのを差し置いても――どこか緊張感のあるぴりついた空気があった。

 どこへ向かっているのか。

 なんとなく、コテージに行った時の道をたどっているような気がした。そういえば、着替えは持ってくるように言われていたのはそういうことなのか。


「あ、あの、蛭川先輩。他の三人は……」


 瑠璃がそろそろと声をあげる。

 蛭川はしばらく黙り込んでいたが、ゆっくりと口を開いた。


「あの三人は、ひときわ症状が酷くてね。高木の叔父さんと一緒に、別々の車で向かってる」

「酷い?」


 電話で聞いた七海先輩の声がこだまする。


 ――『聞こえないの、あの猿の声が!』


 あのコテージで聞いた猿の声は、生物の声じゃなかったのか。

 ヨナルが退けたものは、二回とも猿のようだった。

 だがブラッドガルドは、「おもしろいもの」と言った。


「高木と一宮はすぐ近くでずっと猿の声がしてるらしい。大音量でね。二宮は――怯えきって話にならなかった」

「七海先輩……大丈夫かな~?」


 ヒメが不安そうに言った。


「だけど、きみたちは無事みたいだね」


 瑠璃は視線を逸らした。

 それはたぶん、瑠璃だけ守られたからだ。ヨナルに。

 ユズとヒメもその近くにいたから、その恩恵を受けたのかもしれない。

 瑠璃はずっしりと肩が重くなるのを感じた。影の中にブラッドガルドがいるからだ。いったい何を考えているのか、人の姿に変化したかと思えばそのまま瑠璃の影の中に入り込んで「運べ」ときたものだ。ただまあ、本体が出てきてくれるということはそれほどの事なんだろうと思う。


 車は相変わらず重苦しい空気のまま高速に乗り込み、そして例のコテージのあるところまで走った。着いた時にはもう五時近くになっていて、夏とはいえ夕暮れが迫ってきていた。

 車はコテージ村には行かず、近くの集落へと向かった。神社のような場所に着くと、三人は降りるように促された。

 神社はバタバタと人が走り回っていた。四人の姿など見えてもいないようだった。


「『やまわろ』だって?」

「『やまわろ』が出たんだと。境界に入り込んだんじゃろ」

「可哀想になあ」

「あんなとこ、入るんが悪いわ。あのコテージだかなんだかいうのができた時もそうだった」

「境界の近くにあんなもん建てるから、こんなことになるんや」

「マッさんには、連絡したんか」

「もう来とるぞ」

「そうかあ」


 ただごとではない事態が起きているのだけは、わかった。

 蛭川がそのうちの一人を捕まえた。男に何事か言うと、今度はすぐに男の案内で神社の建物の中に連れて行かれた。瑠璃は相変わらず流されるまま中に入り込んだ。

 案内人がすぐにまたどこかへ行ってしまいそうになるのを、ユズが引き留めた。


「あの、七海先ぱ……二宮さんたちは、どこに?」


 その男は少しだけ言いにくそうに、隣の部屋にいる、とだけ言った。礼を言う間もなく、男は行ってしまった。

 ユズはそのまま、隣の部屋の扉を開けた。


「七海先輩! ……」


 そのままユズは黙り込んでしまった。

 部屋の中には、高木が耳を塞いで怯えていた。翔太は、死んだように横たわってただひたすら泣いている。時折、びくっびくっと体が震える。

 七海先輩はというと、泣きながら何人かに取り押さえられていた。さっきまで暴れていたのか、ぜぇぜぇと肩で息をして、口からは涎が垂れている。その頭の上では、二人の祈祷師のような老婆が一生懸命に念仏だか祝詞だかのようなものを唱えていた。

 ユズもヒメも固まってしまった。


 結局、話ができる状態ではなかった。

 あれから、蛭川はずっと眉間に皺を寄せたまま座っている。彼にも猿の声が聞こえているのだろうか、と瑠璃は思った。

 ユズとヒメは三人のあの光景にすっかり困惑しているのか、それとも参ってしまったのか、瑠璃と一緒にぴったりとくっついて何も言えずにいた。


 相変わらず、外ではバタバタと忙しく準備が進められている。


 ――『やまわろ』って言ってたけど、なんなんだろう、それ……。


 そのとき、がらりと部屋の扉が開いた。

 老婆がいた。

 彼女もまた巫女のような、祈祷師のような格好をしていた。ちらりと部屋の中を見回す。


「あんた。そこのあんた。ちょっといいかい」

「えっ」


 声をかけられ、瑠璃は硬直した。自分を指さして確認すると、老婆は頷く。そうだよあんただ、と続けて言った。

 ユズとヒメの二人が、困惑したまま立ち上がる瑠璃を不安そうに見上げた。蛭川もだった。

 促されるように廊下に出た。他にもまだ人が走り回っている廊下で、じっと見つめられる。


「な、なんでしょう」

「……あんた、猿の声が聞こえてないだろ」


 その通りだった。


「は――、はい」


 嘘をついてもしょうがない。思わず頷いた。


「たぶん、あんた、守護霊様が強いんだね。すごく強いよ。あんたが来てから、ちょっと向こうさんが警戒しとるんよ」


 守護霊というより邪神じゃないかと思う。

 だがあまりびっくりした様子はない。ブラッドガルドが人の形をしているからだろうか。人間態だと、そのへんにいる人間とあまり変わらない気配になる、というようなことを言っていた気がする。ただ、ヨナル一匹よりも本体が入っているから、すごく強い、なんて言葉になったんだと思った。

 影の中から何か引っ張られるような気がした。

 なにがしかの合図だった。


「あ、あの、それなら、なにか私にできることはないですか」

「……」


 老婆はじっと瑠璃を見つめていた。


「怖い目にあうかもしれないよ」

「だ、大丈夫です。みなさんを元に戻してあげたいし」

「……」

「でも、そうだね。もしかしたら、あんただったら――」

「マッさん。いたいた」


 廊下の向こうから老人が声をかけてきた。


「あー、トクちゃん。ちょっと変更だよ。この子にみんな集める」

「えっ!?」

「残りのやつらは、いつも通りにやるからね」

「えー。だいじょうぶかい、マッさん」

「うん。たぶん、なんとかなるよ。ほら、お嬢ちゃん、ぼさっと立ってないで、ついておいで」


 マッさんと呼ばれた老婆は、それだけ言うと歩き出した。怪訝そうな老人の視線を受けながら、瑠璃はついていくしかなかった。

 通された部屋は、それまで使っていなかったのであろう別室だった。小さな祭壇だけが設置されている。だが、マッさんの指示でてきぱきと祭壇周りに果物や酒が置かれ、いかにもな祭壇に変わった。その中には、仏教で見るりんのようなものまで置かれている。

 なんで神社でりんなんだろう、と少しだけ思った。


 何度か部屋にバタバタと何人かがやってきて、準備を進めていった。瑠璃は完全に放置されたような状態だった。何かすべきなのか、と思ったが、結局何もわからなかった。おばさんのような人が、一言「がんばってね」と声をかけていった。

 着いた時にはもう夕方が近いと思っていたのに、再び部屋にマッさんが来た時には夜の帳が落ちていた。


「いいかい。何が起きても怖がっちゃだめだ。守護霊様に祈るんだよ」


 マッさんは部屋に木片を六つ、置いていった。祭壇の炎をつけて、電気を消すと、瑠璃の背中を軽く叩いていった。

 そういえば、あたりは静かになっていた。

 マッさんが持ってきた木片に目線を向ける。人型をしていた。それが六体。それぞれ布を巻いて、服を着せられていた。何か見覚えがある。なんだろうこれ、と思ったとき、どこからかどーんと太鼓の音がした。


 どん、どん、どん、どん……


 ――わ、私、ここに一人でいいの?


 何もかもがわからないまま、ろうそくの灯りだけを頼りに目線を動かす。

 微かに、きぃきぃと声がした。

 久しぶりに聞く、猿の声だった。


「さ、猿の声……」

『じっとしてろ、小娘。動くな』

「え」


 影の中からブラッドガルドの声がした。

 猿の声が、一瞬怯んだようだった。

 だが、すぐにあちこちから猿の声が聞こえてくる。その声はだんだんと大きくなり、すぐそばまで迫っているようだった。まるで部屋全体を囲まれているようだった。いや、実際に囲まれているのだと心の底から思った。声は四方八方から聞こえてくる。もしもこれがずっと続いていたのなら、おかしくなっても仕方が無い。

 きぃきぃという鳴き声に混じって、人の言葉が混じっているように思えた。


 きぃきぃ。ぎゃっぎっ。

 ――……どせ――

 きぃーっ。

 ――われら……――

 ぎゃぎゃぎゃぎゃ。

 ――……すがた――


「……なに?」

『耳を貸すな。じっとしてろと言っただろうが』

「う……」


 なんとか、荷物を抱えて縮こまる。

 しゅるしゅると指先を上がってくるものがあった。いちばんちびの影蛇が、指先に上がってきて、にょろにょろと瑠璃の前に顔を出した。瑠璃があからさまにほっとしたような顔をすると、ちろちろと舌を出した。

 がたん、どたどたどた、と何かが部屋に一斉に入り込んでくる音がした。

 思わず逃げ腰になったそのとき。

 ろうそくに照らされた瑠璃の影の中から、巨大な蛇が何匹も勢いよく飛び出した。影蛇だった。

 八岐大蛇のようにそれぞれの首がぐおんと体をうねらせ、部屋の隅へとあぎとを伸ばす。

 猿たちの悲鳴が轟いた。


 ぎゃああああ。ぎゃあああ。ぎゃああああああ。


 人の叫び声のようだった。

 影蛇たちがその叫び声を追い、何もかもを喰い尽くしていく。


 あああああ。あああ。ああああ。


 声にならない声は、猿のものではなかった。

 瑠璃は呆然としたまま、その声を聞いていた。


「ね、ねえ! こ、この、この猿たち……、まさか、人間なの?」


 思わず聞いた。

 ぴたりと猿の声がやんだ。その瞬間、影蛇たちがすべてを飲み込んだ。

 そうしてすべてが終わった。

 静かな空間が戻ってきていた。遠くでは、どん、どん、という太鼓の音が小さく響いていた。


「……あれは、なんだったの?」

『さあな』


 そうだった。

 ブラッドガルドに聞いても、まったく興味を持つわけがなかった。







 マッさんが瑠璃のいる部屋に戻ってきたあと、白い紙のついたお祓い棒を何度か降った。それから祭壇に向かって礼をしたり、祝詞を唱えたりした。

 なんとも言い様のない時間が流れる。


「あの、あれは、神様だったんですか?」


 瑠璃は思い切って聞いてみた。

 知っているのは古い村があったこと。神社があったこと。やまわろと呼ばれていたこと。たったそれだけだ。マッさんは顔をあげた。


「あれは、神さんじゃない。『やまわろ』だ」

「やまわろって、なんなんですか。猿みたいだったけど……でも、人間みたいで……」


 老婆は無言で、祭壇にあった鈴を手に取った。ちりぃぃん、と高い音がした。鈴を置くと、今度は手をすり合わせて拝む。


「昔な、このあたりは病がたびたび流行ったんよ。乾癬やハンセン病。わかるか。そうした病人を、当時の村人は山に追い立てた。そんで――猿と。やまわろと呼んだんだ」

「あ……」

「やまわろは自分達のために、旅人や村人を襲ったんだ。そうして殺されていった。それで終わるはずだった……。だけどね、やまわろは、死してなお、その仕打ちを忘れんかった。あそこにだんだんと集っていって……。だからあの社は、神さんのためのものじゃない」


 元々はただの病人だった人。人間だったものが怪異になった。そうしたのは生きた人間。


 ――ああ、それで。


 姿を戻せ、と聞こえたような気がしたのだ。それに、社に行った時に、石の上に置かれていた手。あれは確かに人間のものだった。皮膚病に侵された人間の手。食われる前に、彼らは人の姿に戻ったのだろうか。それとも。

 瑠璃はなんとも言えない表情のまま、手を合わせた。仏教式だったから、果たして合っているのかどうかわからなかったが。

 老婆は何も言わずに祭壇に手をやった。供えてあった酒瓶を一つ取る。


「あんたの守護霊様が、何をしてくれたのかはわからんけど。ずっとあそこに留まってるよりゃあ、マシな最後をくれたんだろうよ」


 そうして、手に持った酒瓶を差し出した。


「はいよ。それを供えておきな。そのあとは、飲むなり料理に入れるなりして。そんで、守護霊様に感謝するんだ。いいね」


 瑠璃は何も言えなかったが、続けて、酒を押しつけられて「いいね」と念押しをされる。


「は、はい」


 なんとかそう答えるだけで精一杯だった。

 部屋を出て廊下を歩いていると、向こうの部屋から親しい顔が二人、あっ、と顔を出してきた。


「瑠璃!」

「大丈夫だった~!?」

「二人とも」


 ユズとヒメの顔を見るとほっとした。互いに歩み寄り、廊下の真ん中で立ち止まる。

 だが、来た時と服装が違う。それどころか、なんだかセンスがちぐはぐだ。


「っていうか、何その服?」

「着てた服はみんな取り上げられちゃって……」

「においがついた服は『やまわろ』の目印になってるからって、着替えさせられたんだよ。向こうで処分するらしい」

「それで着替えでこれ貰ったんだけど……」


 正直、こんなの着たくない、と言いたげだった。

 そういえば、部屋に置かれた木片の人型。あれはみんな、それぞれの服の端切れから作られたものだったのだ。


「他の人たちは?」

「みんなぐっすり寝てるよ。これでお祓いは済んだって」

「そうかあ……」


 影蛇が喰い尽くしたのはあれで全部だったのかな――瑠璃はそんなことを思った。







「……っ!」


 ブラッドガルドはコップをたたき付けるようにテーブルに置くと、震えた。

 ここは瑠璃の部屋である。

 下を向いたブラッドガルドは、震えながら笑い出した。


「……ふ、ふふ。くくくくっ……、人間風情が……ずいぶんと上等なものを作るではないか……」

「その感想なんなの……」


 あきれかえったような声で言ってしまった。

 日本酒を飲みながら言う台詞ではない。認めているというのは理解できるが。ブラッドガルドは、貰ってきたお供えの日本酒をひと瓶そのまま飲み尽くしてしまいそうな勢いだった。


「じゃあなんだ、独特の柔らかさととろみがあって、米の甘みの中に少々スパイシーなところを感じるとでも言えばいいのか」

「急にまともな感想になるなよ!?」


 びっくりするからやめてほしい。


「貴様は黙って我に感謝し、崇めろ。チョコレートはどうした」

「はいはい」


 瑠璃はテーブルの上のチョコレートの箱を開けた。

 あの『やまわろ』の件から数日経ち、すっかりあの時のメンバーも落ち着きを取り戻しつつあった。高木と翔太はおそらく、二度も社に行ったからあんな状態になったのだ。そして七海先輩は単にあの声に絶えられなかったのだろう、という結論になった。きっと蛭川も七海先輩と同じくらい聞こえていたに違いない。瑠璃と一緒にいたユズとヒメは、比較的無事だった。

 翔太と七海先輩の傷は深そうだったが、言葉は少なくてもSNSに返事をしてくれるようにはなった。


「……でもあの影蛇の中にブラッド君いたっけ?」

「影蛇を指示したのは我だぞ。我のおかげだ。すべてな」

「ふうん」


 瑠璃は気の無い返事をした。

 影の中から、影蛇たちがアオダイショウサイズで群がってくる。瑠璃は彼らの口の中に、一つずつチョコボールを放り込んだ。

 そこへ、瑠璃のスマホが鳴った。

 電話だった。


 誰からだろう、と画面を見る。

 そこには、「西崎さん(さんさんハウス)」と書かれていた――。

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