3-3話 やまわろ

 その日は、朝から霧がかかっていた。そのせいかずいぶんと冷えていて、瑠璃たちは持ってきた上着に感謝することになった。山の天気は変わりやすい。とはいうものの、高木は大丈夫だろうと踏んで釣り道具を借りにいった。近くに川があり、コテージの宿泊客たちは皆そこへ釣りにいくという。持ってきたイクラを餌として、きゃあきゃあ騒ぎながら川に竿を投げ入れる。

 森の奥からは時々、キィキィという鳴き声が聞こえていた。

 午後になってくると急激に空の機嫌は最悪になり、七人は慌ててコテージに帰ることになった。帰りついた頃にはすっかりびしょ濡れだったが、それでも笑っていられたのは雰囲気のせいだろう。ただ、これ以上外に出るのは憚られた。

 雨の降りしきる窓を眺めながら、七海先輩が言う。


「コテージで良かったあ。テントだったら大変な事になってたもの」

「残念だな。今日の夜は肝試しのつもりだったんだが」

「よし中止で」


 瑠璃は即刻言った。

 ばっちり脅かそうとしていたメンバーは残念そうで、余計に瑠璃が憤慨する事態になった。


「しかし、凄いなぁ、翔太」

「そうっすね、ここまで聞こえてきますもんね」

「猿の声って、こんなに聞こえるもんなんだな……」


 結局、夕方を過ぎるまでコテージの中でカードゲームに夢中になった。数人用のカードゲームやパーティゲームを大量に持ち込んできたらしいので、ずいぶんと楽しめた。肝試しのこともすっかり忘れかけていたが、夜になってだいぶ雨も小やみになってきた。


「おっ、こりゃ行けそうか!?」

「行けそうだな」

「行けそう」

「やだーーーー!!!」


 瑠璃の絶叫がコテージに虚しく響いた。

 夜になってから、全員がコテージの外に出た。山の天気は変わりやすく、いまは曇ってはいるがちらちらと星が見えた。それぞれ懐中電灯と簡易地図を持つ。足がぬかるんで危ない、ということもあって、高木と翔太、そして蛭川と七海先輩、残った瑠璃たち三人がコンビになってそれぞれ向かうことになった。先に向かった高木ペアが社に目印を置いてくるから、残りの二組はそれを持ち帰ってくることになった。

 高木ペアはすぐに戻ってきた。

 道がわかっているのもあったのだろう。高木が持っていた袋が無かったので、ちゃんと置いてきたことが確認できた。

 それからすぐに蛭川ペアが向かった。

 高木たちより少し時間は掛かったが、二人ともちゃんと戻ってきた。手にはそれぞれ目印になった紙切れを持っている。赤い字で「封」と書かれた紙だ。本物の封印ではなく、高木が適当な紙に書いた目印である。雨のせいか少し濡れてしまっていた。


「おかえりなさーい」


 ユズが二人を出迎える。


「どうでした?」

「途中で猿の声がしてね。別の意味で怖かったわよ」

「だよねえ。猿の多い山とはいうけど、これはちょっと」


 七海先輩はため息をつき、蛭川も同じように苦笑していた。どうやらこの雨にも構わず、まだ猿がいるらしい。


「……あれ、瑠璃は? どこ行ったの?」

「ここにいます!!!!」


 その声はユズの後ろからだった。

 長身のユズに後ろから抱きついたまま、完全に隠れていた。


「そろそろ離れた方がいいよお」

「せめて横で歩かないとあぶないよ~」


 ユズとヒメの双方からツッコミを喰らい、結局、二人の間に挟まれて行くことになった。二人が懐中電灯を持ち、真ん中の瑠璃が示された地図を持つ。


「ううう。おねがいだから二人とも絶対に腕離さないでね……」

「そっちの方がむしろ怖いんじゃないか?」

「ハイヒールはじめて履く子、こんなんだった~」


 瑠璃はユズとヒメの間で縮こまりながら、出発することになった。

 夜行性の鳥の声くらい聞こえてきてもいいはずだろうが、妙に静かだった。雨に濡れた草が、時折体を撫でていく。呻く瑠璃を、左右から励ましながら山道を進む。足下はぬかるみ、確かにこれは危険だった。晴れていたら脅かし役が出たかもしれないので、それはそれで瑠璃にとっては助かったが。


「ええと、確か古い立て札のところを……どっちだ?」

「うー」


 うー、とかあー、としか言えなくなった瑠璃の手元を、懐中電灯が照らす。


「平気平気~。ほら、私たちがついてるから~」


 確かにその通りだった。というのも道は比較的単純で、案内通りに行けばすぐにたどり着いたからだ。それほど離れていなかったらしい。社は小さいもので、祠に近かった。


「お、たぶんここだな」

「意外に小さいとこだねえ~」


 鳥居もあるが、大きなものではない。


「うううう」

「ほら瑠璃、目開けろ。危ないから」

「ひ、開いてるから大丈夫……」


 僅かばかりの石段を登る。鳥居もあったが、ユズの身長で少し頭を気にするほどの大きさしかない。どうやら本当に小さなものらしかった。かつて村があったとはいえ、少々淋しい気がする。少し奥まったスペースに、「封」の書かれた紙が石を載せられて留めてあった。


「……これ、だよね?」


 瑠璃は恐る恐る、その紙に近づいた。

 ユズもヒメも違う方向を見ていた。早くこの紙だけ持って帰りたい。ポケットに突っ込んであった懐中電灯をつけた。石はたぶんそのへんから拝借したものだから、このまま置いておけばいいだろう。石をどけようとした、そのときだった。


 ――え。


 石の上に、手が乗せられているのに気付いた。

 手は奥から。いまにも崩れそうな社の中からだった。伸ばそうとした手が、止まる。ここでは小さすぎて、人間が隠れるスペースなど無い。

 猿の手にしては、奇妙に思えた。ガサガサで、かさぶたのように見える。指先は人間じみていた。

 ぞっとした。瑠璃は固まったまま、二人を呼ぼうとした。だが二人とも何か話していて、こっちに気がつかない。全身を恐怖が包んで、動けなくなってしまった。石の上にある手は、じっと待つようにそこにある。

 あたりから猿の声がしていた。どこからともなく見られている気がする。声は、雨の降った森の中から異様なほどに聞こえてきた気がした。

 石の上の手が、僅かに動いた。

 そのときだった。

 しゃっ、と真横から声がした。ヨナルがその顎を開き、勢いよく石の上の手に向かって威嚇音を立てた。


「ヨナル君」


 小さく呟くように言うと、急に体が楽になった。

 ヨナルは更に威嚇音を立てながら、もう一度牙を立てた。今度は噛みつく寸前のところまで頭を伸ばす。石の上に乗った手が、びくりとしたように引っ込んだ。もう何もいなかった。猿の声がやんだ。ヨナルが社の中をじろじろと舐めるように見ると、呆れたように石をぐいぐいと押した。そうして石がごろんと転がると、少しだけ濡れた紙をくわえて瑠璃の前に差し出した。

 ありがとう、と小さく呟いて紙を受け取る。


「あ……」

「聞こえなくなったな」


 二人の声にハッとして振り向くと、目が合った。


「ふ、二人とも。早く戻ろうよ」


 二人もどこか呆然としたように、瑠璃が持っている紙を見た。


「ああ、うん、そうだな。それ、目印だよな」

「そうだね、戻ろう~」


 そうして三人は、そそくさと山を下りた。

 コテージまで戻ってくると、四人が微妙な顔をして待っていた。

 あれだけ怖い思いをしたのだ。せめて笑いながら迎え入れてほしかった。どうだった、と聞いてほしかった。だが瑠璃たち以外の四人全員が、どこか作業的にコテージに戻ると、さっさと風呂に入って寝てしまったのである。仕方なく三人もそれにならってベッドに入った。そうして瑠璃は、首筋に巻き付いてきたヨナルを撫でて眠った。


 翌日、七人は帰り支度をしていた。最終日なのも惜しかったが、やっぱり昨日の四人はそそくさと帰り支度をしていた。瑠璃たち三人は互いに顔を見合わせる。高木は早々に駐車場へと赴くと、さっさと借りたアウトドア用品を返して帰ってきた。布団はどうすればいいか聞いたが、上の空だった。

 たぶんこのままでいいだろうとあたりをつけて、せめて畳んでおいた。


 帰りの車のなかでも、妙なことがあった。

 きゃあきゃあと騒ぐ瑠璃たち三人に対して、七海先輩はどこかぎこちなく、山の上から早く降りようとしているようだった。運転は僅かに荒く、途中で飛び上がりそうになった。

 まるで、逃げているみたいに。







「ただいまー」


 部屋に帰ると、静かなものだった。

 影蛇たちもいない。ブラッドガルドはまだ向こうの世界にいるらしかった。リビングに入ってしばらくすると、開けっぱなしの鏡の扉から、音がした。鏡の向こう側からブラッドガルドがのっそりと抜けてきた。


「ただいま」


 返事が無いのはいつものことだ。だが、ブラッドガルドは荷物を片手にバタバタと走り回る瑠璃を見つめたあと、無言でその姿を揺らめかせた。長身が僅かに縮み、人間の姿になる。


「どしたの、急に?」

「……いや。貴様、なかなか面白いものに目を付けられたな」

「え? な、なんのこと?」


 ブラッドガルドは疑問には答えず、代わりに視線を巡らせた。


「ふうん……。まあ気にするな。ちょっと遊んでやろうと思ったが」


 そう言って、元の姿へと戻る。


「我に気付いて遠ざかったようだな。残念だ」


 ぞわ、と瑠璃は総毛立った。


「きゅ、急に怖いこと言うなよぉ!!」

「なにがだ。しっかり言ってやっただろうが。面白いものに目を付けられたと」

「やだーーー!!!」


 半泣きになりながら、瑠璃は耳を塞いだ。慌てて出てきた影蛇たちが瑠璃の周りで宥める。だがブラッドガルドはそれを尻目にさっさとゲーム機の準備をし始めた。

 結局、なにが「いた」のかは瑠璃も聞かなかったし、ブラッドガルドも言わなかった。


 それで終わるはずだった。

 キャンプのメンバーにSNSで軽くお礼を言ってから、一週間も経たないうちに、平穏は乱されることになる。ちょうどゲームの生配信を撮ろうと、ブラッドガルドとゲーム機の前に座った時だった。挨拶が終わったタイミングで、瑠璃の携帯電話が鳴った。SNSの通知ではなく電話だった。立ち上がり、画面に表示された相手を確認する。


「ごめんね、先輩からだ。ちょっと出てきますー」


 配信画面の前から離れ、キッチンで電話を耳に当てた。

 配信の方は、ゲーム音以外では、ブラッドガルド一人がお菓子を口にする音だけが微かに聞こえるだけの謎の配信になったが、もはや慣れたものである。


「はい、もしもし!」

『瑠璃!? あんた、大丈夫!?』

「あっ、先輩。どうしたんですか?」

『あんたは無事なの!?』

「な、なにがですか」


 瑠璃は思わず面食らってしまった。

 後ろではまだゲーム実況が続いている。どうせブラッドガルドは無言のままだろうが、ちらりと見てから、急いで自分の寝室に入った。これで少し静かになる。


『瑠璃は聞こえないの。あの猿の声が!』

「猿の声……?」


 なんのことだろう、と首を傾ぐ。ピンと来なかった。


「あの、どういうことですか」

『わかんない……、高木は、『やまわろ』に憑かれたって言ってた』

「やまわろ……?」


 ますますわけがわからない。


『あたしだってわかんないわよ! いまも聞こえてくるのよ、あの猿の声が! あんたは聞こえないのよね、どうしてあんたは平気なの、猿の声がしないの!?』

「えっ。ええ?」


 パニックになったようにまくしたてる七海先輩に、瑠璃は動揺する。

 いったいなんのことなのか、瑠璃本人がパニックになりそうだった。にゅるっと横からヨナルが出てきて、首をかしげる。


「そういえば、あのコテージ……」


 管理人の老人が、猿に気をつけろと言っていた。それに、夜にあれほど動いてくる猿が果たして日本の山の上にいるだろうか。そもそもよくいるニホンザルは昼行性だ。あんな所にいる猿が、夜行性の猿のはずがない。


『いい、とにかくお祓いに行く日時だけ伝えるから、来るなら来て』


 そう言って、七海先輩は勝手に話し出した。瑠璃は慌ててペンとノートを探し出して、言われた日時をメモした。そして、言うだけ言って電話は切れてしまった。日時だけで、何をするのか、どこに行くのかさっぱりわからない。何もかもがわからない。

 猿の声が聞こえる、と言っていた。

 あの慌てようからして、他のメンバーも皆、猿の声がいまだに聞こえているのかもしれない。はたと気付いてSNSを見る。今回の旅行用に作ったメンバーだけが入れられたトーク画面が、通知で埋まっている。あの電話があってから、次々会話がされている。

 全員、猿の声を聞いているようだった。


 ――で、でも、なんで私だけ?

 ――私だけ。……私、だけ?


 瑠璃はにょろにょろと揺れているヨナルを見る。それから扉を開け、いましがたゲームの中でやられて不機嫌の極みのような顔をしたブラッドガルドを。


「もしかして……」


 瑠璃は早々にゲーム配信を切る事にした。

 緊急事態が起きたといえば、配信に来ていた人々はやや興味を示した。だが大体は理解を示して、また今度と言ってくれた。一気にやり遂げた瑠璃を、ブラッドガルドがどことなく笑うような目線で見た。


「……ブラッド君」

「なんだ」

「……ま、前に、遠ざかった何かって……なに?」


 すぐには答えなかった。


「……そ、それって、なにかの神様?」

「何を言っとるんだ、貴様は」


 ブラッドガルドは鼻を鳴らした。


「それで、いつだ? そいつを食えるのは」

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