2-4話 桐咲邸調査録
かの老婆が、堰を切ったように話し出したのは、こんな話だった。
――最初のお嫁さんね。拓也君が東京のほうで知り合った子でねえ。お母さんの、和子さんのほうはあんまり気に入ってなかったんだわあ。和子さんは本当は近くの幼馴染みの……、なんていったかな。そうだ、瞳ちゃんと結婚させたかったみたいでねえ。なのに、ぜんぜん気に入らんかったみたいで。
――結婚式もいつあげたのかわからんでよう。妹の、さっちゃんも、お兄ちゃんはほんとは瞳ちゃんと結婚するはずやったんにって、怒ってさあ。あんなやつ知らんゆうて。碌なご飯もあげずに、二階に閉じ込めちゃったんだわ。
――ほら、あの二階。あそこ、奥に部屋があるでよ。見るたびに痩せてってねえ。可哀想だったわあ。体が弱かったで病死だって言っとったけど、ありゃあ、きっと餓死かなんかだわ。いじめ殺されたんだわ。
――いつあげたのかわからんのは、葬式もだわ。ここらじゃ葬式出したら、家の前に提灯出すのにさあ。それも無くて。気がついたら瞳ちゃんと盛大に結婚式あげよったわ。ようやる、ゆうて。
――そのくせ、瞳ちゃんやさっちゃんの葬儀の時は、ちゃあんと提灯出したんにな。
――だけど、桐咲はここらへんの元地主だで、みぃんな変なことも言えんでよう。何か言ったら、こっちが何されるかわからんもん。
――でも、あれからだわ。あの家の人達、みぃんなおかしくなっていなくなっちまった。人様を殺したりなんかするもんで、バチが当たったんだわ。こんな事知っとるのは、もう古い人たちばっかでさあ。
ブラッドガルドは家にとってかえすと、迷いなく扉を開け放った。
瑠璃が帰ってくる前に。
瑠璃に憑いたモノが帰ってくる前に。
ブラッドガルドは首を持ったまま、にんまりと目を歪ませる。
「ふむ。貴様のせいで面白いものも見れたが、危うく台無しになるところだったな。こいつに、こんな場所に行かされているとばれるわけにはいかんのでな」
瑠璃は膝に覆い被さって、ぐっすりと眠ったままだ。その髪を軽く撫でる。
「貴様が二階を認識させなかったのは、無視したかったからでもあったのだな」
和子という名の中年女が狼狽したのは、本音を突かれたからではなかった。
間違いなく人間である瑠璃が助けを求めた存在が、自分の思っていたようなものとはまったく違うと気付いたからだった。腕を振りほどこうともがくが、ブラッドガルドの手はぴくりともしなかった。
何かを喚いている。
あの女が悪いのよ、拓也を誘惑して!
拓也は瞳ちゃんと結婚するはずだったの。それをいきなりしゃしゃり出てきて!
拓也だってあの女に騙されてたに違いないのよ。だから私がちゃんと引き離してあげたの。わかる!?
死んでせいせいしたわ!
至近距離に近づき、くわっ、と見開いたその目の奥も、口の奥も、ただ暗闇が広がっていた。
だがブラッドガルドにとっては、そんなことは些事に過ぎない。
「貴様の主張などどうでもいいわ。我は先客の獲物を分捕るほど飢えていないだけでな」
面倒臭そうに言うと、首にかけた手を離す。
「そら。よく踊れよ」
中年女は、一瞬呆気にとられたような顔をした。
「あ」
床だった場所に、巨大な女の顔が現れた。瑠璃を追いかけたあの女の顔だった。
その口元ががばりと開くと、横だけではなく顔を横断して縦に割れた。飢えた獣のような声がする。
落ちたのは中年女だけだった。その顔が恐怖と絶望に歪んだ。
ブラッドガルドは暗闇で出来た椅子に座ったまま、その目元をうっすらと笑わせた。
「裁きによって、良き者は極楽へ、悪しき者は地獄へ……。では、食われたものはどこへ行くのだろうな?」
その言葉ももはや届いていなかっただろう。
顔を歪ませたままどこまでも続く闇の中へと落ちていく。
「……ふふ。ははは。クハハハハハ!!」
ブラッドガルドは声をあげて笑い出した。
「ああああああ。あああああああ」
ばくんと口が閉じてもくぐもった声がしていた。床一面に広がった女の顔は、どこか満足げに床の中へと消えていく。そこは現世に開いた穴だ。喰らってもろともに地獄へと落ちたのだ。裁きなど受けさせる猶予すら無く。巨大な女の顔が闇の中に消えていくと、どことも知れぬ穴の闇は、次第に晴れていった。そこには薄汚れた床だけが残っていた。
「ふん。どうやら食い損ねたようだ。……まあいい。なにしろ、この家には……」
ブラッドガルドは視線を向けた。
既にその場にいた雑念たちは、腰を抜かして大ぶりに手を振って逃げだそうとしていた。それを、壁の中から抜け出してきた巨大な影蛇たちが追う。
壁際に追い詰めた一人を、その巨大な顎が食らいつく。
ここには二人の女、両方の念に引き寄せられてきた雑念たちがうようよとしていた。おそらくここの元の家族もいたのだろう。だが、誰が誰なのかなどブラッドガルドには関係なかった。いまや誰も彼もが影蛇たちに追われて逃げだそうとしている。名前を失い、有象無象のひとつとなって、ひいい、ひいいい、と悲鳴にならぬ声をあげるだけのものになってしまった。
ブラッドガルドは瑠璃の体を抱え上げると、ゆっくりと歩き出した。
部屋を出て、廊下を悠々と歩くその背後からは、次々と影蛇たちが現れ、雑念たちに次々と食ってかかった。
阿鼻叫喚の、ささやかな宴が始まったのだ。
*
「……ん」
瑠璃が目を覚ますと、すぐ近くで音が鳴っていた。
それが聞き慣れたゲーム音だということに気付くと、自分が眠っていたことにも気付いた。
感触が戻ってくる。頭の下にぷにぷにとした感触があった。手で触ってみると、黒い鱗があった。鱗の先にあった黒い頭が、ちろちろと舌を出している。どうやらヨナルが枕代わりになっていたようだ。ヨナルの頭に向けて、指先を動かす。少しだけ獲物を狙うような間があってから、じゃれるような甘噛みが返ってきた。
「……。なんかすごい変な夢見た気がする……」
夢、だっただろうか。
現実だったのではないか。
「え、……夢?」
「どうせ貴様の事だから、下らん夢だろう」
「だって私、帰ってきて……」
ブラッドガルドは冷めたような目で瑠璃を見下ろした。
その姿は既に普段通りの、ボロボロのローブを着た、角の生えた男が座っていた。投げ出された足を組み、その手にはゲーム機が握られている。コンビニの袋はテーブルの上に置きっぱなしのままだ。
はっとして起き上がり、周囲を確認する。だがここには瑠璃とブラッドガルド――と、その使い魔――以外は誰もいなかった。外からも見えない部屋だ。
「まだ混乱しとるのか。間抜けめ」
他の影蛇たちも出てきて、瑠璃を気遣うように眺めてはちろちろと舌を出した。影蛇のなかで一番小さな、ちびの個体が指先の影から出てきて巻き付く。
頭のほうでは、カメラアイたちが目をうるませながらこっちを見ていた。
「おわわわ。どしたの」
「貴様が魘されていたせいで勝手に出てきよった。なんとかしろ」
「なんとかって。……え?」
あれは、夢だったのか。
それにしてはずいぶんとリアルで、そして曖昧だ。
最後はどうなったのかも思い出せない。ということは、やっぱり夢だったのだろうか。
「前にも言ったが、わけのわからんものが居れば我がとっくに気付いておるわ。悪い夢ごときで騒ぐな」
「……。そう……。そっか」
ブラッドガルドが言うならそうなのだろう。
少しだけぼんやりと、遠くを見る。耳からは相変わらず現状をぶち壊すようなゲーム音が聞こえてくる。振り返ると、こっちを見もしないブラッドガルドへ視線を向けた。ネットが繋がらないせいか、対戦ゲームの一人用モードを延々と繰り返しているようだった。瑠璃はのそのそと近寄ると、ぼろぼろのローブを掴んだ。そのまま自分の体にかけて横たわる。寝袋を出すのも面倒だったからだ。体を縮こませ、ローブの下に無理矢理入り込んで、ぴったりと横にくっついた。ゆらゆらと影蛇たちがその様子を見ていた。
「邪魔だ。出ろ」
「……服もうちょっと長くならない?」
「ならんわ、殺すぞ。貴様はさっさと二階を撮影してこい」
「後でね」
瑠璃の目はあっさりと閉じられた。明らかに聞かせる目的の舌打ちが聞こえたが、追い出されはしなかった。
本格的に目を覚ましたのは、それから一時間後。
空腹になったブラッドガルドがたたき起こしたせいだった。
*
日の照りつける坂を、男は汗をかきながら歩いていた。
夏の明るい日差しに対して、男は憂鬱だった。
男の足を緩慢にしているのは、この暑さのせいだけではない。男は以前もここに来たことがあった。そのときも、微妙に気乗りしなかった。なんらかの予感があるときは絶対にそうだった。案の定、家を見ただけで寒気がした。寒気どころではない。自分では対処できないと心底感じてしまった。結果的に、逃げるように帰ってしまったことは、少しだけ後ろめたく思っている。せめて、自分よりも大丈夫そうな人を紹介できれば良かったのだが。
それにしても、坂沿いの区域も少し景色が変わった気がする。
何故だろうか。
近くの古い家では大掃除が行われているようで、ボランティアらしきスタッフが忙しそうに出たり入ったりをしている。
「それじゃ、こっちも片付けてしまいますね」
「はいよう、ありがとさんねえ」
ちらりと目線をやる。
この家は、前に来た時は乱雑に並べられた鉢まみれで鬱蒼としていた家だった。片付けが入ったせいか、いまは綺麗なものだ。住人とおぼしき老婆は、にこにこしながら手伝っている。
少し空気が変わったように思えたのは、そのせいもあるのか。
別の方向に視線をやれば、玄関先で回覧板片手に話している女性たちが見えた。
「あそこのおばあちゃん、急にシャンとしちゃってどうしたのかしらね」
「もしかしたら、いい薬でも出してもらえたのかも」
「でも良かったわ。前は虫がこっちにまで入ってきてたし」
「後はあそこの大きなお屋敷よね。桐咲さんのとこが片付けばねえ」
その名が出ると、ドキリとした。
片付けば、だと?
まったく、気楽なものだ。
あそこが実際にはどんな風に見えるのか、考えたこともないのだろう。人ではないものが、人であったときのように徘徊し、それにつられた雑念がうようよと引き寄せられているあの場所が。
何より恐ろしいのは二階だ。あそこがすべての元凶だ。
この家に留まり続ける一家を、何よりも呪い続ける存在。
この近辺である程度聞き込みはしたが、みな口をつぐんでいた。それほどまでに恐ろしい何かがいたのだろうか。
「……え?」
目の前に現れた家を見たとき、場所を間違えたかと思った。だが間違いではなかった。同じ家だ。少しだけ枯れた草が撤去され、玄関先も少し清掃されている。誰かが入った形跡があった。それだけだ。それ以外は同じであるはずなのに。
――これが同じ家か!?
まったく違う家に見えた。
正確には、この家に宿った深い念がすべて取っ払われていた。俗な言葉で言えば、この家にとりついていた幽霊の類がすべていなくなっているのだ。
ここに来た目的を思い出す。
お祓いのようなものをしてもらったから、本当に何もいなくなったのか視てほしい、と。
期待はしていなかった。だがあまりに綺麗すぎた。狼狽のあまり、まるで不審者のように小さな声をあげてしまう。誰かに見られないうちに、門扉を開けて中へと入り込んだ。
庭を見ても、何もいない。
はやる気持ちをおさえ、玄関先まで小走りに歩く。
――何もいない。
――まさか、二階も!?
視線だけで二階部分を見る。
何もいなかった。ただその事実だけが目の前にある。
――ほ、本当に。この家をどうにかできる人物が……。
男は震える手で携帯電話を取り出すと、何度も失敗しながら電話を繋げた。
恐ろしさで、ではない。興奮でだ。
電話をした先は、この家の管理を請け負っている不動産会社の担当者だった。支店長でもある藤井という男は、彼に今回の依頼をしてきた人物でもある。何度かのコールのあとで、相手は出た。
「もしもしっ。私です。……ええ。はい。見てきました。綺麗なものでした。いったいどうしたんですか……あ、いえ、いったい誰に依頼したんですか。……お、教えられないって、どうして……。そ、そうですか」
おそらく民間の、まだ知られていないような者が除霊したのだろう。ごく稀にそういう「本物」がいる。だが、それにしたってここは不思議だった。何の気配も無い。空っぽだ。祈りも願いも、ある種の信仰の気配と言えばいいのか、そうしたものが一切無い。いったい誰がどんな手段で除霊をしたのか、それとも追い出したのか、とんと見当がつかない。いったいどんな心と技の持ち主であれば、こんな芸当ができるのか。
――まるで、綺麗に平らげられた皿のようだ。
男は呆然と、家を見上げるしかなかった。
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