2-3話 桐咲邸調査録
気がつくと、瑠璃は家の中を歩いていた。
家の中には埃は落ちておらず、タンスや椅子などの家具がちゃんと配置されていた。生活感があり、大型の家具だけではなく家電の類もちゃんとあった。トイレにはちゃんとタオルがかけられていたし、キッチンの食器棚には皿やカップが並べられ、調味料もテーブルの片隅に置いてある。瑠璃が片手に持っている籠の中には、洗濯物が入っていた。見てはいないが理解していた。これを干さないといけなかった。庭に出ると、綺麗に整理されている。荒れてはいない。片隅に物干し竿があり、中身を干しはじめる。まるでいつものことのようで、瑠璃は何も思わなかった。何人かがこの家に確実に住んでいた。
キッチンで調理をして、昼食を作る。病人に持っていくような食事を作ると、それを増築された一階の和室へと持っていった。中には二十代くらいの若い女性がひとり居て、震えている。
ほら、おかゆを作ってきたから。食べてよ。
だめです。たべられないです。
でもここのところずっとそうじゃない。
だめです。だめなんです。
女性は何かに怯えているようだった。なんだか可哀想になってきて、気遣うように肩に手をやろうとする。この人は誰だっただろう。知らないけど、知っている気がする。でも知らない。けれど今の瑠璃は、知っていた。
いい、聞いて。そんなものは居ないの。誰に何を吹き込まれたかわからないけど、そんなのは気の持ちようなのよ。あなたはただ、惑わされているだけ。
だめです。居るんです。いまもそうなんです。あの人が、見ているから。あの人が、見ているんです。あの人がずっと私のことを見ていて、出してって言ってるんです。私、こんなのもう耐えられない。あの人がずっと私の事を見てる!
そのとき、ガリガリと何かひっかくような音がした。女性が悲鳴をあげはじめ、怯えて暴れ出す。トレイの食事がひっくり返る。なんとかその体をおさえようとしたが、暴れ狂う女性をとりおさえるのは容易ではなかった。目の前の女性は、自分よりずっと若いからだ。
そのあいだ、二階からはずっと音が続いていた。閉じ込められて、飢えた獣が部屋から出ようとひっかいている。バンバンと叩く音が聞こえる。声は聞こえないが、喚いているようだとすら思った。
いったいあれはなんなんだ。なにかが二階にいる。なにがいるのか、知っている気がする。
あれは――。
そこで、はっと目を覚ました。
部屋の中を見回したが、そこは来た時と同じように、生活感の無い部屋だった。瑠璃が持ち込んだもの以外は衣服やタオルの類は無い。
「なんだ。辛気くさい顔だな」
「……ブラッド君」
そういえばブラッドガルドが居たんだった、ということを思い出す。夢の中の自分はどうして助けを求めなかったんだろう。だが、ブラッドガルドが自分の辛気くさい顔とやらを面白がって見ていることに気付くと、夢の内容などほとんど吹っ飛んでしまった。
「絶対面白がってるでしょ……。昨日、家の中ずっとうろついてたじゃん。夢の中でもうろついてたような気がするんだよ」
「ふん。仕事熱心なことだ。掃除でもしていたか」
「掃除はしてないけど……、寝込んでる女の人のお世話もした気がする。これはもう、一度外行かないと駄目かも」
瑠璃はそう言うと、ひとまず朝の準備を済ませてしまうことにした。コンビニで買ってきた朝食を食べ、朝のうちに周辺施設の調査も済ませてしまうことにした。ブラッドガルドに留守を任せることにして、さっさと外へと向かう。
ブラッドガルドはそれを見送ってから、ふむ、と首を傾いだ。
――やはり、二階の事は抜け落ちているな。
それから立ち上がる。周囲を見回すと、視界の隅を中年の男が歩いていった。
寝込んでいる女の世話をしていたとも言っていた。ブラッドガルドは廊下に出ると、増設部分の和室を開け放った。たぶんこいつのことだな、と片隅で座り込んでいる女を見て思う。この家で現状見ているのは、女が二人に、三十代くらいの男が一人。それから、と目線を向けると、中年――正確には六十代くらいの老人が一人、徘徊しているのが見えた。目立っているのはその四人。
ブラッドガルドは和室から出ると、その隣にある階段に視線を向けた。
おもむろに階段を上がる。
二階は洋風の作りになっていて、三部屋あった。
音が聞こえてきたのはどの部屋からかわからない。だがひとついえることは、映画やドラマでよく見るような、これみよがしな札や封印の類は見つからなかった。
ブラッドガルドは諦めて一階へ戻ってくると、鍵を手にして玄関へと歩き出した。
家の中の気配を感じなくなるところまですたすたと歩くと、ブラッドガルドは一瞬、坂沿いの電柱の影に隠れた。再び日差しの下に出てきた時には、その衣服が変化していた。黒ずくめだった格好は、首元のリボンタイはそのままに、ネイビーの三つ揃いのスーツになっていた。
その足で近所の適当な家へ向かう。表札を視界に入れた。柿崎と書いてあったが、読めなかったので諦めた。呼び鈴を押す。
「はあい……、あら」
出てきたのは白髪交じりの六十代半ば頃の女だった。水色に、犬の柄のエプロンをしている。
怪訝そうだった表情が、ブラッドガルドの整った相貌を見つめた途端に和らいだ。少しだけ口元に笑みを浮かべてやると、ますます警戒心が削がれた。適当な言葉の書かれた紙片を取り出すと、名刺のように渡す。
「へえ、「さんさんハウス」の?」
「ああ。そこの家の調査で来ている」
ブラッドガルドの口調はそのままだったが、柿崎は気にしなくなった。
「ずいぶんと長い間、人がいなかったようだが。何かあったのか?」
「あの家ねえ。可哀想にねえ」
「可哀想?」
「あそこの家ね、いま誰もいないでしょ。息子さんのお嫁さんが亡くなってから、次々おかしくなっちゃって」
ほう、とブラッドガルドは続きを促す。
「あそこね、拓也君って子がいて。子っていっても、私がお嫁に来た当時はもう三十近かったから立派な大人よ? 近所の幼馴染みと結婚したんだけど、そのお嫁さん。結婚してしばらくしてから、どうも精神的に参っちゃったみたいで。子供もできないうちに、頭のほうの病院に入っちゃったのよ。そっからよ~、拓也君の妹さんも続いておかしくなっちゃって。ガリガリになってねぇ。病院行く時も可哀想だったわよぉ。もう「わわわわー!」ってわけのわかんないこと叫びながら家から出されて、車に乗り込んで。何があったのかと思って。妹さんの名前、なんだったかしらねえ。前にほら、テレビによく出てた人の名前と一緒だったんだけど。誰だったかしら。そういえばあの子も最近テレビで見ないけどどうしたのかしら」
いい加減、機関銃のような口撃にくらくらしてきて、ブラッドガルドは適当な所で話を打ち切った。
他の家にも何件か尋ねたが、似たようなものばかりだった。
「あそこの家ね、昔はここら一帯の地主さんだったんですって。結構大きな家でしょ? おじいさんの代かなんかには、もう土地を売っちゃったらしいけど。それでもあんな大きな家が残ってるし」
と、新しい家に住む女は言った。
「あの家、早くどうにかならないんですか? 管理者の人もめったにこないみたいだし。せめて庭の木だけでもなんとかしてくれるといいんですけど」
と、若い男は言った。
「あそこの人たちねえ、いつの間にか居なくなっちゃったのよ。やっぱりあそこの娘さんがおかしくなってからかなあ。それからお父さんも交通事故で亡くなったあとは、いつの間にか居なくなってて、引っ越したのかしらって思ってたんだけど」
と、中年の女は言った。
新築と旧世帯が入り交じるこの地域では、正確な事を把握しているのはもうあまりいないらしい。
だが、それなりに情報は手に入った。
――嫁が病死した後、やがて旦那の妹が発狂して病院に入ったがその後死んだ。爺が何事か叫びながら飛び出して、交通事故で死亡。旦那の方は行方知れずで、婆はあるとき親戚がやってきて引き取り、死んだらしい……と。なるほど……。
嫁はともかくとして、家では死ななかった連中もここに戻ってきている。そしていままでと同じように生活している。自分たちに気付いているかは謎だが、少なくともかつてと同じような生活をしているのは確かだ。だが、それだけか。結局、あの二階の音の原因がわからない。
――決定打に欠けるな。
だんだんと面倒になってくる。こんな回り道をせずとも、そのまま食えば早いのではないか。理由などどうでもいいじゃないか。そもそもどうしてこんなことをしているのだったか。
いい加減諦めようかと思ったその足が、ふと止まる。
古い家だった。外は無造作に並べられた鉢植えだらけで、あちこち虫が飛んでいる。中も整頓されていないようだった。ブラッドガルドは呼び鈴すら鳴らさず、開けっぱなしの玄関のガラス戸を開いた。つんとした臭いが鼻をつく。中はゴミなのか持ち物なのかわからないものが散乱している。家の現状など意に介さず、ブラッドガルドは奥へと進んだ。大音量でテレビの音がしている。
居間では、散らかった中で、老婆が一人、ぼうっとテレビを見ていた。テーブルの上も散らかっていて、明らかに正気ではない。
「おい。ちょっと現実に戻ってきてもらうぞ」
ブラッドガルドが目の前で指先を動かすと、目の焦点が合った。
老婆はハッとして、まるで昼寝から起きたかのようにびっくりしたような目をした。惨状を見て驚いているようにも見えた。ブラッドガルドは適当な紙を差し出して名刺の代わりにすると、先ほどまでと同じ問いをした。
「あの家のお嫁さんねぇ……、可哀想だったわねえ」
ブラッドガルドの顔が渋くなる。指先が、落胆したようにゆっくりと再び老婆に向けられる。
「特にね、拓也君の最初のお嫁さん……」
人差し指が、ぴくりと止まった。
テーブルのものをすべてどかしてしまうと、開いたスペースにどっかりと腰を下ろした。長い足を組んで老婆を見る。
「その話、詳しく聞かせてもらおうか」
*
天気予報は晴れだったが、昼近くになると唐突に暗くなってきた。
雨が降りそうだと誰もが思った頃には、その予想は現実のものとなった。近年の異常気象の影響をもろに受け、集中豪雨が降り注いだ。
瑠璃は日傘を手に、足早に坂をのぼることになった。
急いで家の中に戻ると、ガラスの玄関を開ける。
「うわああ! ただいま!」
中に入り込むと、靴の形に土間が色づいた。ぐっしょりと濡れた体を震わせ、日傘を置く。
「もおおお、最悪だよ! こんな急に雨が降るとかさあ!」
日傘が晴雨兼用だったのが幸いだ。
靴の中もじんわりとしていて、濡れているのがわかる。ひとまず明日までに乾いてくれればなんとかなる。せめてサンダルにすれば良かったと今更ながら思う。脱いだ靴下は冷たく、どこかに引っかけておける場所は無かったかと考える。あっても洗濯ばさみやそれに代わるものが無い。ビニール袋に突っ込んでおいた方が良さそうだった。
タオルハンカチで軽く濡れた足を拭いたあと、素足のままスリッパに足を突っ込む。
「ブラッドくーん。お昼買ってきたよー!」
そう言いながら根城にしている和室へと向かう。
玄関を上がった先の廊下で左に曲がり、縁側の廊下へと進む。だがそこに突っ立っていたのは、ブラッドガルドではなかった。裸足の足と、ジャージのような灰色のズボンが目に入る。視線が下から上へと向かう。
「えっ。だ、だれ……?」
見た事のない女だった。
病的なまでに、妙に細い。ゆっくりと近づいてくる。顔が見えないのは、灯りが無いせいだろうか。上の服は着古したような薄汚れたクリーム色のトレーナーで、古いキャラクターもののワンポイントがついている。首周りはだらんとしていて、ずいぶんと長い間着ていたように思える。力が抜けたように重心が片側にずれていて、トレーナーの肩が見えそうだった。
たったひとつわかるのは、確実にブラッドガルドではないことだ。
「あ、あの、どちらさま……」
突然、女の口ががぱりと開いた。
みしみしと顔の中央が額に向かって裂けていき、縦に亀裂ができる。それが左右に開いた。歯並びは左右にあり、まるで縦にまっすぐ口があるようだった。
「ヴァーーーー!!!?!?」
まだ叫ぶだけの余裕はあったが、瑠璃は反射的に逃げ出した。
背後からは追いかけてくる音が聞こえる。
――なに!? なに!?
――っていうか……、なにここ!?
振り返って走り出すと、そこは長い廊下になっていた。
いくらこの家が広いといっても、ここまでじゃなかった。玄関が遠いどころか、見えない。まるでどこまでも永遠に続いているみたいだった。
途中で左に曲がっても、左右にはずっと和室が続いている。
「ブラッド君! ブラッド君!?」
我知らず助けを求める。
適当に開けた和室の中に逃げ込む。後ろからはだかだかと廊下を走る音が聞こえてくる。たぶん見られたはずだ。反対側の障子を開けると、またそこは廊下が繋がっていた。右、左とあたりを見回してから、左へと走る。後ろで障子を張り倒したような音がした。
廊下を走る、走る、走る。
また左に曲がってから、すぐさまそこにあった障子を開け、中に飛び込んだ。すぐに閉めると、反対側の角で縮こまる。自分の口を塞ぐ。心臓が大きく跳ねる音だけが聞こえ続けている。ばたばたいう音が大きくなり、障子の向こうの影が通り過ぎていくのが見えた。
――なに、なに、なに!? ほんと何!?
とにかくあれから逃げ続けないといけない。
そもそもなんでこんなことになっているのだろう。
ブラッドガルドはどこへ行ったのか。
――そうだ、ブラッド君!
もしかしてこれはブラッドガルドの仕業なのだろうか。
自分がいない間に何か仕掛けをしたのか。
でも、もしそうじゃなかったら。
とにかくこの家から逃げないと。
瑠璃は、そうっとすぐそばの障子を開けた。ちょうど反対側に
――二階……、でも二階になんか行ってる暇は……。
むしろ二階になんか行ったら追い詰められてしまう。だから出口を探さないといけない。
瑠璃が玄関のある方角に目線を向けたとき、二階から声がした。
「うるさい。喚くな」
「ブラッド君!?」
反射的に階段を見る。
瑠璃の足は階段の下へと向かう。
「ブラッド君、そこに居るの!?」
「なんだいったい」
「なんで二階にいるの!? 降りてきてよ!!」
「なぜ我がそっちに行かねばならんのだ」
「うおおおそうだった! ブラッド君はそういう奴だったよ!!」
いい加減ここから逃げたかった。
だが、出口に向かうよりもブラッドガルドに助けを求めたほうが正しい。どれほど後で馬鹿にされることになっても、ブラッドガルドのほうがなんとかしてくれる。そう瑠璃は信じていた。
それでもほんの少し躊躇したそのとき。
向こうから、ばたばたと走る音が聞こえてきた。
振り返ると、顔がまっすぐに裂けて口になった女が、両手を前に出して走ってくる。
「ワーーー!!?」
考えている暇はなかった。一気に二階へと駆け上がる。
踊り場でもんどりうつように曲がり、二階へと上がる。窓に面した廊下がまっすぐ進み、右側に扉が二つ、そして奥に一つあった。まるで吸い込まれるように、一番奥の扉へと飛び込んだ。
開け放った扉の向こうに、ブラッドガルドは居た。
暗い闇に腰掛け、長い足を組んでじっと自分を見ている。
「ブラッド君っ!」
ブラッドガルドは黙ったまま、じっと瑠璃を見据えている。
「な、なんなのあれ!? っていうか何! なんとかして!?」
「人に、ものを頼む態度ではないなぁ……?」
「そんなこと言ってる場合じゃないんだよ!」
後ろからバタバタと音が聞こえてくる。
二階へと上がってきたのだ。
「早くっ!!」
うっすらと睨むような、笑うような目は、じっと瑠璃を見据えた。
緩慢に手を伸ばす。指先が瑠璃に触れるか触れないかで、一気にその手を伸ばした。手は瑠璃の首を貫通し、反対側へと突き出した。
その途端、瑠璃は気を失ったように倒れ込んだ。瑠璃をもう片方の手で抱きとめておく。伸ばしたままの片手は普段通りの異形の手と化して、瑠璃から分離したものの首を掴んでいた。
「……我は貴様に言っているのだ」
あが、と小さな声がした。
首を掴まれているのは、この家でまだ見た事の無い女だった。
ずっと瑠璃の中に入り込んでいた最初の一人であり、最後の一人だ。
「もう一度だけ言うぞ。人に、いや……、神にものを頼む態度ではないなぁ?」
蛇眼が愉悦を含んで歪むと、中年の女は、ヒッと小さく声を出した。
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