1-3話 訳あり物件
それからというもの、深夜の二時三十七分になると必ず瑠璃は目を覚ました。
そのたびに共用廊下から足音が響く音がした。最初こそ、別の部屋の誰かが帰ってきたのかと思った。だが建物や部屋の位置の構造上、寝室まで音が聞こえてくるなんて、よほどの大きな音を立てないと無理だ。それでも、どういうわけか共用廊下から音がしていると思った。それが日に日に、この部屋に近づいてきているように聞こえるのだ。
毎日のようにそれが続くものだから、一週間も過ぎた頃にはすっかり疲れ切っていた。
そろそろ動画でゲームの実況もしたいのに、まるでそんな気分にならない。
それと同時に、首に巻き付く髪の毛が多くなっている気がした。
ただそっちは朝起きると消えているから、たぶんそれは自分の髪が伸びたせいだろうとも思い始めてきた。ただ切りに行こうにも気力が無い。最初の日に落ちていたような髪の毛はもうほとんどない。ということは、清掃業者の不備か、ブラッドガルドの長い髪がたまたま落ちていたのかもしれない。果たしてブラッドガルドの髪が落ちていることがいままであったかというと、無いけども。
「……ねえ、ブラッド君。最近ブラッド君さ、よくこっちの部屋にいるよね」
「そうだな」
ブラッドガルドは視線を向けずに言った。
最近のブラッドガルドは人間の姿のまま、ゲームに熱中していた。いまもテレビに大写しになったゲーム画面で、対戦ゲームに勤しんでいる。
「夜中なんだけど……、なんか、変な音とかしない? 共用廊下って言えばいいのかな……。なんかすごいバタバタ歩き回ってるような……」
「……」
ブラッドガルドは何も言わなかった。代わりに手に持ったコントローラーを操作し、一人で突っ込んできた敵めがけてボタンを押した。激しい銃撃音が鳴る。だが敵には当たらず、むしろ狙われているのに気付いた敵が逃げていく。
「さあな。それこそ幽霊でもいるのではないか」
振り返った時のブラッドガルドは、明らかに小馬鹿にするような顔をしていた。
「バカにしてる!?」
「それ以外のなんだというんだ」
「この野郎ー!?」
「……。いずれにせよ妙なものがいるのなら我がとっくに気付いておるわ」
「……まあ、そうだよね?」
瑠璃は首をかしげる。
「っていうかそういうのわかるの?」
「貴様は我をなんだと思っているんだ」
「なにって、ブラッド君と思ってるけど」
「……。そうだったな、貴様の哀れな脳味噌に期待したのがバカだったわ」
「喧嘩売ってる?」
「それより、早く朝飯にしろ」
「はいはい。先に顔洗ってくるから、ちょっと待ってて」
そう言って部屋を出る。やっぱりあのときのような長い髪は落ちていなかった。
用を済ませてキッチンに戻ってくると、アオダイショウほどの大きさの影蛇たちが収納を開けたり、中にあったフライパンをくわえて待ち構えていた。
「ありがと」
食パンを二枚、オーブンレンジにつっこみ、その間に卵とベーコンを焼いた。少し豪華で時間のかかる朝食は、夏休みだけの特権だった。
けれど結局、その日も気怠い一日になった。
そしてその日の夜も、相変わらず同じ時間に目覚めた。次第に近づいてくる足音は、着実に
瑠璃が再び眠りに落ちて朝が近づく頃、不意に、ずずず、とゴミ箱がひとりでに動いた。
ゴミ箱が浮かび上がる。というより、ゴミ箱を頭に乗せながら地面の影からアオダイショウほどの大きさの影蛇が出てきた。他の影蛇が中に入ったゴミ袋をつかんで、中のゴミごと外に出して置いておく。ゴミ箱頭の影蛇がそのまま部屋の中央に陣取ると、他の影蛇が一斉に部屋の捜索を始めた。キッチンや風呂、トイレの中に至るまで、異様に長い髪の毛を拾ってはゴミ箱の中に入れていく。それは一本や二本というものではなく、塊で落ちているものも少なくない。もはやゴミ箱がいっぱいになるほどだった。
影蛇たちはじっとそのゴミ箱の中を見つめてから、互いに視線をあわせた。
今日は大量だった。
これでとりあえず、瑠璃の精神面は安泰だ。半分くらいは。
一気に処理できないのは少々面倒だが、そういう手段をとったのだから仕方が無い。
テレビの中では、勝負が決した。リザルト画面では「Lose」の文字が表示されている。ブラッドガルドはおもむろにゲーム用ヘッドホンを外した。対戦を続けるかどうかの選択ボタンを、「やめる」にした。
「……ここまで近づいてきたか。そろそろ潮時だな……」
寝室のドアが開けられ、ヨナルが口に髪の束をくわえて出てきた。
他の個体が一斉に振り向く。ヨナルは地面を這い回りながら、ゴミ箱の中に頭ごと髪の毛を突っ込んだ。
明日でここに引っ越してきてちょうど二週間。そろそろ部屋の中に乗り込んできてもおかしくなかった。
「……おい」
ブラッドガルドが、ヨナルへと視線だけ向ける。
「小娘は邪魔だ。どうにかしておけ」
それが合図になった。
*
「……ん」
その日の夜も、瑠璃は眼を覚ました。
いつもの二時三十七分だろうか。
手を伸ばすと、不意に隣に冷たいものを感じた。冷たくて、ぷにぷにとした、長い胴体がずるずると動いていた。瑠璃は寝返りをうちながら、その胴体に腕を回す。ヨナルの頭が瑠璃のほうを向いて、ちろちろと舌を出した。周囲に他の影蛇たちもいるらしく、瑠璃を気遣うように見下ろしている。指に巻き付いた小さな影蛇が、ちろりと舌を出して頬を舐めた。瑠璃の肩に頭を何度も乗せて、ぽんぽんと叩くようにしてくれる影蛇もいる。ぼんやりとしたまま、その個体を撫でた。
冷たくて気持ちが良かった。
今日は音はしないんだな、と思いながら、瑠璃の眼がすぐに閉じた。だから、周囲が暗闇に包まれていることにも気がつかなかった。
同時刻、ブラッドガルドはリビングでそのときを待っていた。
クッションに深く腰掛け、長い足を組む。膝の上に乗せた雑誌をめくりながら、その耳は微かに聞こえてくる音を追っていた。
共用廊下からと思われる足音は、確実にここに近づいてきていた。その足音は苛烈で、近づくにつれて素早くなっていく。扉の前で、執拗にうろつく音が聞こえる。
やがて、音が止まった。
ブラッドガルドの目線が玄関のある方向に向けられる。
がんがんがんがんがんがんがんがん!
その途端、玄関の扉がものすごい勢いで叩かれた。ブラッドガルドはじっと玄関に続く扉を見つめたまま、微動だにしなかった。その間も扉は異常なほど鳴り続けていて、部屋に満ちた。まるで扉を巨大な金槌で何度も叩き続けているような、そんな音だった。
「……ごふっ」
やがて音がやんだそのとき、ブラッドガルドは小さくむせた。
自分の首を掴み、目を見開く。ばねのように上半身を屈ませ、顔を下に向ける。
息ができない。
ブラッドガルドの首にはだらしなく髪の毛が絡みついている。
だがそれじゃない。
もっと奥。
喉の奥だ。
何かが詰まったようだった。
そしてなんとか、目線だけを上にあげた。
目の前に、黒い人影が立っていた。地までつきそうなほどの髪の毛に覆われた何者かだった。女のようだった。膝をついたブラッドガルドの目がそいつを見上げる。反対にブラッドガルドを見下ろす口元が、次第に笑うように開かれていく。その向こうにはただ、闇があった。目のあるはずの部分には虚ろな穴がぽっかりと二つ開いているだけだった。
かくんと傾いだ首に向けて、ブラッドガルドは震えるように手を伸ばした。助けを請うように。
しかしその手は、すぐさま自分の喉の奥に突っ込まれた。
「――かはっ、がっ、こふっ!」
何度か咳き込み、やがて口の中から何かを引きずり出す。唾液と血でべとべとになった塊だった。それは、肉塊にこびりついた髪の毛の束だった。まるで頭皮をそのまま切り取ったように、びっしりと丸まっている。並の人間であれば、詰まって死んでいたはずだ。並の人間であれば。
「……これだけか」
ブラッドガルドの目が、面白そうに薄く笑った。
「こんなもので、我の腹が満たされると思ったか」
ゆらりと立ち上がる。確かに人間のものだった瞳が、突然蛇のように細くなる。髪の毛の束が床に落ちると同時に、そのまま影の中へと消えていく。邪眼が、この部屋に、あるいはこの部屋に満ちているものを捉えた。頭をぐらんと揺らしたあと、開かれた口が蛇のように大きく開くと、既にその姿は人間のものではなくなっていた。巨大で棘のような堅い鱗を持ち、角のある蛇が、女の目の前に迫った。部屋の何ひとつ揺らすことなく、邪なる神があぎとを開く。今度はこちらの番だとばかりに、蛇のあぎとが長い髪の女の頭からかぶりついた。
あっという間だった。
女の姿は蛇の口の中に消え、ごくんとその巨大な喉を通る。
どっ、とその口元が床についた後、すべてが闇に包まれた。
黒いものをすべて飲み込んだあと、わずかに揺れたカーテンの向こう側から、月明かりが差し込んできた。照らされたのは、普段通りのブラッドガルドだった。相変わらずボロボロのローブを羽織り、髪はぐしゃぐしゃだが、シャツのタイになっていた赤いリボンが髪を一房だけ三つ編みにしている。
舌で唇を舐める。
親指で舐め損ねたものを拭い取る。
微妙な顔をしていた。
「……魔力としては悪くない、が……味の方は微妙だな」
怪異などブラッドガルドにとっては魔力の塊のようなものだ。気分は良かったが、味はすこぶる微妙だった。視線を巡らせ、キッチンに視線を向けた。
「小娘は戻しておけよ」
影蛇たちにそう言っておくと、ブラッドガルドは冷蔵庫にあったアーモンドチョコレートを取り出した。
*
翌朝、瑠璃は清々しい気持ちで目を覚ました。
ぼんやりと上半身を起こす。カーテンの向こうから、鳥の声がした。なんだか久々に鳥の声を聞いた気がした。寝室の中も違って見える。
「……あっ」
起きないと、と思って、ベッドから足を下ろす。枕元でとぐろを巻いたまま熟睡しているヨナルに気がつくと、ぷにぷにと触るように撫でておいた。気分が良い。パジャマのまま寝室の扉を開けると、久々に人間態ではなく普段通りのブラッドガルドがクッションに座っているのが見えた。その手が携帯ゲーム機を握っているのに気付く。画面には「Win」の文字が表示されていた。
「おはよう、ブラッド君」
「ああ」
こっちを見ずに返事だけしたブラッドガルドを気にせず、カーテンを勢いよく開ける。明るい日差しが差し込んできて、ブラッドガルドは一瞬だけ不機嫌な顔をした。
瑠璃はようやく部屋の空気も清々しく感じられた。昨日までの不調はなんだったのか。
「なんか久々によく寝た気がする~!」
「そうか」
「良かったよ~。今日から三日間、夏休みの短期講習あるんだよ」
「出かけるのか」
「うん。このまま体調不良が続いたらどうしようかと思った」
言いながらキッチンへと歩こうとして、テーブルの上に出しっぱなしの箱を見つける。箱を手にとると、軽かった。左右に振ると、かさかさと中袋の音だけがする。
「ちょっとー。チョコレート食べたならゴミは捨ててって言ってんじゃん!」
「口直しが欲しかったのでな」
「口直し? 何か食べた?」
「冷蔵庫の中身はチョコレート以外は減っていない」
「……それ、口直しじゃなくて小腹が減ったの間違いじゃない……?」
「そう思うのならさっさと朝飯を出せ」
「なんだよ~。ほんとにお腹空いてんの? とりあえず顔洗うから、待っててよ」
瑠璃はいそいそと洗面所に向かうと、キッチンに戻ってきた。
気分が良いまま、食パンを二枚、オーブンレンジに突っ込む。影蛇たちが開けてくれた冷蔵庫の中から卵とベーコンを取り出し、他の影蛇が差し出したフライパンを受け取って焼く準備をはじめた。
二人分の紅茶から湯気が立つ。
授業が無い時のゆったりした朝の時間が迎えられようとしていた。
「は~~……。いい朝……」
「……出かけるのではなかったのか」
「うおおおそうだった!!」
瑠璃はばねのように飛び上がった。
そのまま皿をがちゃがちゃとシンクにつっこみ、ばたばたと右往左往したあげく寝室に引っ込んだ。すぐさま準備を済ませて飛び出してくる。
「ブラッド君、鍵お願い!!」
「は?」
迷宮の主をこき使おうという不敬な輩に、不機嫌な言葉を投げる。放置しようかと一瞬思ったが、不意に気配を感じて振り返った。ばたばたと玄関に向かって走る瑠璃を追い、ブラッドガルドはのったりと玄関までやってきた。
「えっ、ほんとに来た!?」
「殺すぞ」
怒りは隠していなかった。
そうして瑠璃が玄関を勢いよく開けると、目の前にいた女とぶつかりそうになった。
「うわっ!」
「ひっ!?」
「す、すみませ……あれ?」
瑠璃は驚いたように目を瞬かせた。
見覚えがある。
「あれっ、確か「さんさんハウス」の……!? こんにちは!」
個人名が咄嗟に出てこなかったが、さすがに忘れてはいない。
「さんさんハウス」の西崎という女性だった。瑠璃を見ながら、信じられないものを見たような顔をしていた。さすがに驚きすぎたのだろうか。
「あ、えっと、すいません。いまからちょっと出かける所で!」
「え、ええ。大丈夫……」
「もし用事があったら、えーっと……今日の七時以降にお願いします! これから授業なんでー!」
瑠璃は言い残すように飛び出していった。
西崎はそれをただ見送ることしかできなかった。
*
西崎は呆然としながら、その背中を眺めていた。
これまでこの部屋に、二週間を過ぎて住んでいるものはいなかった。途中で引っ越したり、飛び出したり、はたまた飛び出していった先で……と様々だったが、とにかく二週間を過ぎてもこの部屋に居る者は誰ひとりとしていなかった。
それなのに。
「……いったい、どうして……」
西崎の後ろで、きぃ、と静かに扉が開いた。
「さあ。どうしてだと思う」
西崎はびっくりしたように振り返った。扉を開けたのは、茶髪に鋭い目をした美丈夫だった。この暑い時期だというのに黒いズボンに黒いシャツという格好で、赤のリボンタイをしている。普通であれば見惚れただろうが、いまはそれどころではない。口元を少しだけぱくぱくとさせた後、ようやく声を出した。
「……あ、あの。なにか、知っているんですか。もしかして、彼女には、そういう力があるんですか」
西崎は早口で訴えた。
ブラッドガルドは文句の一つでも言ってやろうと思っていたが、止めた。
何しろその目には、単なる問いではないものが見えたからだ。
「何かその、なんというか、非現実的かもしれませんが、悪いものを祓えるような……」
「あったとして、どうするんだ」
「……」
西崎は黙り込んだ。だが、まだ引き下がるような気配は無かった。それどころか、まるで何か期待しているような、そんな気配が見える。
ブラッドガルドはそんな迷える魚を逃がしはしなかった。
「……一つだけ教えてやる」
ブラッドガルドがその言葉で釣り針を垂らすと、西崎はぱっと顔をあげた。掛かった。
「あれ自体は何も知らん。あれに憑いているものがやたらと気に入っているだけだ。何かやらせようというのなら、何も知らぬほうが都合がいい」
事実である。
瑠璃にはヨナルがついているし、忌々しいことにヨナルは瑠璃に甘い。ヨナルもそうだが、影蛇もカメラアイも全般、甘い。自分の使い魔ながら、いったい誰に似たのかと常々思っている。
ブラッドガルドは何も嘘をついていない。瑠璃に対してもそうだ。
「やり方は自分で考えることだ。奴に本来の目的を悟られぬように。必要なのは適切で不自然ではないビジネスだ。そうだろう?」
テレビ番組で覚えた言葉をすらすらと口から出す。
西崎はといえば、考え込むように黙り込んだ。どうやら図星で、そして確実に自分の言葉が餌となったようだった。
「適切な仕事と報酬。それから菓子の一つでも持ってくれば――あれは喜んで、細かい事など気にしないだろうさ。……そうだな」
そう言って、少し考え込んでからブラッドガルドは言った。
「高級チョコレートを」
そうして扉が閉められた。
西崎はしばらく、放心したように扉を見ていた。
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