1-2話 訳あり物件

「えっ、瑠璃引っ越すの!?」

「うん」


 夏休みの大学で、ちょうど出会った友人に瑠璃は頷いた。

 部活の為にやってきたという友人は、驚いたような羨ましがるような顔をした。


 夏休みといっても、大学に来ている人たちもいる。

 普段より確かにぐっと少ないとはいえ、部活をしている人達は当然のようにいるし、学年によっては夏休みなど関係無く来ている人たちもいる。レポートの期限が夏休みに食い込んでいたりするのもザラだ。家にパソコンが無いから使いたいとか、家で課題をやるより集中できるという理由で来ている人もいる。夏休み期間中の講座や、資格取得の為の短期集中講座をしていると、その期間だけ来る外部の人もいる。


「早くない? いつ?」

「明日」

「あした!?」

「引っ越し決めたのは三日くらい前だけどね。先にレポートだけ出しに来たんだよ」

「それでも早くない!? ……あっ、前に言ってたよね。マンションに不審者入ったんだっけ」

「うん、まあそんなとこ」


 そういうことにしておいた。

 ブラッドガルドからつつかれたのもあったにせよ、あの部屋に入りたくなったのは事実だ。


「そういえばうちの部活の先輩もさ、帰り道で鞄ひったくられて大変だったらしいよ」

「えっ、そうなの!? どうなったの」

「ちょうど目撃してた男の子が二人、追いかけて捕まえてくれたんだって。だから荷物は無事だったけど、突然の事だったから呆然としちゃったって言ってた」

「そうかあ。この辺って治安悪い?」

「悪いってほどでもないと思うけど、まあ悪い奴はどこにでもいるしさ」


 友人は肩を竦める真似をしてみせる。


「それじゃ。私、部活行くから。瑠璃も気をつけてね」

「引き留めちゃったね。部活、がんばって!」

「ありがと! 今度泊まりに行かせてよ」

「いいよ~!」


 互いに別れると、瑠璃は家にとってかえした。

 あれから契約はトントン拍子に進んだ。

 藤井が丁寧にいろいろと手配してくれたので、ひょっとするといまの住居に入る時よりもスムーズだったかもしれない。「さんさんハウス」には懇意にしている単身者用の引っ越し業者がおり、その手配までやってくれたのだ。ここを出る時も、使っていいとの事だった。

 瑠璃はまるで熱に浮かされたように引っ越し準備を進め、結局、契約から三日ほどで引っ越した。

 引っ越し業者が荷物を入れている間、瑠璃の髪の毛の影から小さな蛇が顔を出しているのに誰も気付かなかった。小さな蛇は鋭い目できょろきょろと部屋の中を見回し、どことなく警戒心を出すようにしていた。だが、あまりに小さすぎた。

 あらかた部屋の中へと入れてもらうと、業者が帰るのを確認してから瑠璃は古ぼけた扉の前に立った。一メートルほどの扉は、中が鏡になっている。だが瑠璃が扉を開けた先にあった鏡は、黒曜石のような色合いをしていた。映しているものも瑠璃の新しい部屋ではなく、陰鬱な石造りの部屋だ。


「ブラッド君、もう出てきていいよ~」

「……」


 ぬっ、と出てきた手を視て、瑠璃は少しだけ目を瞬かせた。

 続いて、茶色い髪と、赤いリボンタイをした黒いシャツが現れる。人間で言えば見目麗しいとかイケメンとか評されるであろう相貌が、一メートルほどの小さな扉を通ってこちらの世界へとやってくる。

 そうして新たな部屋を見回すと、なるほど、と一言だけ言った。


「なんで人間態?」

「貴様が近くに食べ放題の店があると言ったからだろうが」

「あっ、それで!? 完全にもう奢ってもらうつもりでいるな!?」


 ブラッドガルドは瑠璃の言葉を無視して、ベランダを見回したり、隣の部屋を見たりとあちこち見回った。


「部屋に比べて家具が少ないな」

「そりゃそうだよ。家具は前の家に合うように厳選してたからね。それをそのままこっちに持ってきたらこうなるよ」


 前の部屋は1Kだったし、家具も一部屋にまとまるようにしていた。それが、突然1LDKに変わったのだから当たり前だ。寝室は多少狭くなった気がするが、それでも十分だ。クローゼットもついているし、洋服タンスにしているチェストを置いてもまだ多少の余裕がある。むしろ問題はリビングとダイニングのほうで、真ん中にこぢんまりとテーブルが置かれている以外は、テレビくらいしか無い。下にひいてあるマットも、部屋の大きさにぜんぜん合っていなかった。


「しかし、引っ越しとはこんなものか」

「いや、多分めちゃくちゃ早いよ。前のとこだって半年しか住んでないし。それほど荷物も無かったからね」


 大きく増えたものといえば、授業で買った教科書や用具くらいだろうか。


「だが貴様が実家とやらから引っ越す時はもっと時間がかかっただろう」

「あれは時間がかかったっていうか、時間があったっていうか……」


 ブラッドガルドが振り返る。


「それにしても、なぜここを選んだ」

「……なんか、ここに来たくて」

「……」


 ブラッドガルドは、どこか放心したように言う瑠璃を見つめた。

 だがすぐに瑠璃の目には光が戻る。


「どうかした?」

「何も。それより我の椅子はどうした。買え」

「すぐには無理だよ!! 引っ越したばっかでお金もきついし!」


 ブラッドガルドは見るからに不機嫌な顔をした。


「それと、明日は他の住人の人に挨拶回りに行って、それから近所の開拓もしたいよね。大学とは距離的には一緒なんだけど、区域がちょっと違うし」

「……ふむ」

「まあでも今日は、食べ放題のお店に行ってみよっか!」

「……。いいだろう」


 そういうことになった。

 後のことは後日に任せて、瑠璃とブラッドガルドは連れだって出かけた。二時間で一人二千円の焼き肉やデザートの食べ放題。とりあえず――主にブラッドガルドが――出禁にはならなかったので、まだあと一度くらいは確実に行けそうだった。







「……ん」


 その夜、瑠璃はふと目を覚ました。

 まだカーテンの向こうは暗い。時間を確認すると、二時三十七分を指していた。


 ――まだ、二時……。


 こんな時間に起きてしまったのは、まだ少し興奮しているからだろうか。

 引っ越しの疲れもあるし、店まで出かけたせいもあって疲れが出たのかもしれない。妙に静かだ。ブラッドガルドも自分の部屋に帰ったんだろうか。どうしたのだっけ。実家に居たときの静けさとも、前のマンションの静けさとも違う気がした。

 時計の音に混じって、どこからか足音が聞こえた気がした。


 ――……誰か、こんな時間に帰ってきたのかな……。


 寝返りをうつと、きゅっと首元に何か絡みつくような、こそばゆいものを感じた。どうやら髪の毛が首に巻き付いたらしい。首に手をやって、少しだけ乱暴に取る。髪の毛は痛みもなくするりと抜けていった。おそらく抜け毛だ。朝起きたら捨てようと、手だけ布団の外に出す。そこで、瑠璃の意識は途切れた。

 朝起きて昨夜の事を思い出すと、捨てるべき髪の毛を探した。

 それは、瑠璃の髪と比べて異様に長かった。


 顔を洗いに脱衣所の鏡の前に立つと、洗面所の中に似たような長さの髪が落ちていた。瑠璃はティッシュでまとめてこそげとると、隣に置いたゴミ箱の中に捨てた。

 首元に細い髪が絡みついたような感触がして、思わず手を当てた。でも、何も無かった。鏡の中の首元にも何も映っていない。何も無いのに、何かが絡みついているような気がした。







 瑠璃は午前中に買ってきた焼き菓子をビニール袋に入れると、それを持って部屋を出た。まずは隣の部屋からと思ったが、いないようだった。仕方なく、下の階へと向かう。

 このマンションは三階建てで、一つの階につき二つずつ部屋が入っている。そのうちの一つのチャイムを鳴らす。すぐには返事が無かった。もう一度チャイムを鳴らすと、ようやく小さくブツッという音がした。


『……はい?』

「すみませーん。上の階に引っ越してきた者なんですけど!」

『ああ。ちょっと待って』


 そう言うとガチャリと音がして切れた。

 少し待つと、今度はガチャガチャと鍵を開ける音がした。中からそうっと男性が顔を出した。扉にはチェーンがかかったまま、きょろきょろとあたりを見回す。慎重というか、何かうさんくさいものでも見るような目で瑠璃を見る。


「なんですか?」

「昨日、上の階に引っ越してきた萩野です。これ、少ないですけど挨拶のお菓子です」

「……ああ、どうも」


 マフィンの入った袋を受け取ると、男はそれ以上何も言わなかった。


「……えーと。それじゃあ、失礼しました」


 そのまま帰ろうと、瑠璃は踵を返す。


「……あの!」

「はい?」

「……あの。上の階って、302号室のほうですか」

「そ、そうですけど」

「変な事聞くようですけど、変な事って無いですか。あの、なにか、音がしたりとか、変な人が来たりとか」

「んー。特に無い、かな。無いですけど……?」


 もしかして、友達が来て騒いでたとか、大きな音を立ててしまうとかかな、と瑠璃は思った。その沈黙を、どうやら相手は不審に思われたと勘ぐったらしい。慌てたように、それならいいんです、と続けた。


「そ、そう。ならいいんです。あの、こっちも夜中に騒いだりとか、あるんで。あの、……まあ、気をつけて。ほら、不審者とか、あるかもしれないし。何かあったら手伝うから。それじゃ」

「はあ。ありがとうございます?」


 早口になって勢いよく扉を閉めた相手に、瑠璃は目を大きく見開いたまま瞬きした。

 もしかしてあんまり人付き合いをしない人かもしれない、と考え直す。人は見かけにはよらない。それに、疲れ切った顔ならもっと悪い奴を知っている。目の下にクマができていて幽鬼のような顔をした男だ。最近は魔力も回復傾向にあるからか、それとも眠っていることも増えたせいか、普段の姿もそれほど酷いとは言えなくなってきた。それでも出会った時よりはずいぶんとマシだ。あの頃は生きているのか死んでいるのかすらわからない時があったから。

 瑠璃は同じような調子で、他の住人にも挨拶をした。最初こそにこやかに出迎えてくれた人も、瑠璃が一番上の階の住人だと知ると、少しだけ妙な反応を見せた。

 やはり住人がころころ変わっているのは間違いないらしい。部屋としても一番大きいらしいが、やはり隣のビルにいた議員の事が影響しているのだろうか。


「ふあーっ、終わった!」


 瑠璃は部屋に戻ってくると、開口一番に言った。

 ブラッドガルドは相変わらず人型のまま、ちらりと部屋の主を見ただけで済ませた。すぐに目は雑誌に向かう。


「今日はさすがに疲れた~」


 挨拶回りをしただけなのに、ぐったりとしていた。夢見が悪かったせいか。

 それともここは学生専用ではないから、少しだけ気を遣ったのかもしれない。仕事で出ていた住人もいたため、夜までかかってしまったのだ。そのせいで余計な時間を食ったりして、やきもきしながら過ごすことになった。それがストレスになったのかもしれない。

 おかげで部屋全体も重苦しいように感じる。


「何か軽く食べたいんだけどなあ……」


 キッチンも広い。

 前の1Kでは電気コンロが一つとシンクがあるだけだったが、シンクだけでも前回より広い。ちゃんと調理スペースもあるし、ビルトイン型のクッキングヒーターが三口もついている。活用しない手はない。さすがにオーブンまではついていないが、オーブンレンジを持ってきたから事足りる。それより、オーブンレンジをちゃんとキッチンに置けるようになったほうが重要だ。いままでは部屋の中の本棚の上に陣取っていたからだ。

 前の住人が置いていったという大きな冷蔵庫も、じゅうぶんに使えるものだった。家電としてもまだ使用期限内だ。これを置いていってしまうなど、一体どれほど隣の事件やマスコミに悩まされていたのだろう。

 ここに来た時はこのキッチンを目の前に、せっかくだから使うしかない、という気持ちになっていた。

 それなのにいまはどうだ。何か作る気力すら湧かない。

 くあ、とあくびさえ出る始末だ。


「じゃあ寝ろ」

「えっ」

「寝ろ」


 ほぼ同じ台詞を放つ。


「あー、うん?」


 さすがにブラッドガルドにまで気遣われるとは思っていなかったのか、それとも考えるだけの思考能力が失われていたのか、瑠璃は頷いた。


「お風呂入って寝るよ」


 返事は無かった。いつものことだ。

 部屋から出てってよ、と言おうとして、その必要が無い事に気付いた。お風呂はリビングキッチンを出て廊下の向こうにあるし、ちゃんと脱衣所もある。もっと心地良い気持ちで入りたかったが、それどころではなかった。

 風呂からあがると、早々に寝室に向かった。ばたんと倒れるようにしてベッドに横になった。マンションに挨拶回りをしていただけなのに、これほどまでに疲れるものだろうか。前のマンションでも同じ事をしたが、こんなに疲労しなかった気がする。だがその理由を考える前に、瑠璃は眠りに落ちた。

 そもそもブラッドガルドが夕食を抜いた事に文句を言わなかった理由さえ、いまの瑠璃には考えることができなかった。


 夜中の二時三十七分。

 ブラッドガルドは暗いリビングで、手元の灯りだけをつけて雑誌をめくっていた。

 瑠璃のクッションに深く腰掛け、長い足を組んだまま雑誌をめくる。

 外から、こつん、こつん、と誰かが歩き回るような音がした。それは、少しずつ上の階に上がってきているようだった。静かな室内に、寝室から何度も寝返りをうつような布団のこすれる音が微かに届く。僅かに呻くような、寝苦しいような声も。ブラッドガルドはそれでも目線を雑誌に落としたままだった。

 その足下の影から、アオダイショウくらいの大きさの影蛇たちが、ぬっと立ち上がった。どの個体も、抑えきれないかのように扉に向かって威嚇している。全員が爛々と目を輝かせ、いまにも爆発しそうなほどに剥き出しになった敵意を向けている。

 それから少しして、足音は遠ざかっていく。まだここには到達していないようだ。探しているのか。


「……まあ、そういきり立つな。殺気が届いても困る」


 使い魔たちの堪えようの無さに、ブラッドガルドは口の端だけをあげた。


「なんの為に、我が人型になっていると思う」


 指先をシャツの首元にひっかけ、ぐっ、と軽く引っ張る。

 ブラッドガルドの首には、長い髪が巻き付いていた。その長い髪に、指を近づける。人差し指の爪が突然長く伸び、黒く染まると、ブラッドガルドは髪をぷつんと爪で裂いた。巻き付けられたそれを指先でつまみあげると、自分の影の中に落とす。


「出方くらいは見たい。……少しは楽しめそうではないか。なあ?」

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