番外編1

1-1話 訳あり物件

「狭い」


 ブラッドガルドは開口一番言った。


「ブラッド君がその姿だからじゃない?」


 瑠璃はノートパソコンのキーボードを叩きながら言った。

 部屋の中をぐるりと囲むように、黒い蛇が占領していた。座椅子の後ろにあるベッドの上にどっかりと胴体を乗せ、カーテンの引かれた窓の前を通り、テレビの上に覆い被さった後は、入り口の下側を塞ぐようにして体は二周目に入る。いま、頭はテレビの上から瑠璃を睨んでいた。


「それに狭いって言っても、ここ私のもとの部屋とあんま変わらないよ」

「リビングも無ければ我のソファも無い」

「あれはうちのソファだよ……」


 瑠璃が両親と住んでいたマンションは、対面式キッチンのあるダイニングと繋がったリビングがあり、そこにソファとテレビを置いていた。そのソファをブラッドガルドは我が物顔で占拠していたのだ。

 だがここは、一人用マンションだ。

 1Kの、大学生の一人暮らしには不自由しない広さ。

 女子学生用ということもあり、キッチンは小さいものの、風呂とトイレは別だ。

 友人達が遊びに来ても、雑魚寝にはなるがなんとか泊まっていける。

 しかしブラッドガルドの機嫌はすこぶる悪かった。何かにつけて狭いから引っ越せ、と追い立ててくる。そのくせわざわざ本体の姿になるものだから余計に狭い。文句を言う割に、こっちの部屋に来ては映画とゲームに興じているから始末に負えない。


「だいたい、大学近くで二部屋もあるマンションとか、普通に高いよ」

「見てみなければわからんだろう」

「それはそうだけど。……それにほら、ここ女子学生用だし。ブラッド君いたほうが何かとこう、防犯的な……」

「貴様、死にたいのか」


 だが実際、以前には上の階に侵入しようとした下着泥棒を撃退した事もある。

 最初に不躾な気配に気付いたのはブラッドガルドだった。ちょうど隣のベランダを通過しようとしていた下着泥棒は、ベランダからのぞき込んだ巨大な蛇と目を合わせることになった。マンションで飼うには異常な大きさの蛇だと悟った結果、パニックを起こして真っ逆さまに落ちたのだ。

 結果的に、騒ぎに気付いた住人たちが次々に顔を出し、下で動けなくなっている下着泥棒を発見した。

 下着泥棒は巨大な蛇について訴えたが、結局、うやむやになって終わったのだ。

 そんなことを思い出していると、ぐうっと蛇の頭がテレビの上から伸びてきた。瑠璃の鼻先まで近づく。


「目の前のそれで調べられるんだろう。やれ」

「温泉すら知らなかったくせに、それ以上にいろいろ覚えてくるの何なの……」


 瑠璃は「目の前のそれ」といわれたノートパソコンに視線を落とす。蛇の頭がぐるりとまわり、瑠璃の後ろから画面をのぞき込んだ。

 こうなったらひとまずレポートは後回しだ。

 手頃な部屋探しの物件サイトにアクセスし、このあたりの住所を入力する。


「そりゃさあ、オンラインの授業もあるからもう一部屋あると便利だなーとは思うけど」

「そうだろう。何を躊躇する必要がある」

「そんなこと言ったってさあ……」

「貴様の言うように、せめてもう一部屋だ。りびんぐ、だかだいにんぐ、だかいう」

「でも、そもそも部屋が無いとお話にならないよ。引っ越すにしたって、学校に自転車で行けるとこじゃないと」


 条件検索にチェックを付ける。その間に影から次々と飛び出してきたカメラアイが、瑠璃の頭の上に乗って一緒にのぞき込む。テーブルの下からはヨナルをはじめとした影蛇たちが、首を伸ばしてのぞき込んできた。


「せめてオートロックで、ってお母さんにも言われてるし。家賃五万で同じようなとこなんて……、……あ」


 マウスをクリックした瑠璃の手が止まる。

 何か言い返そうとしたブラッドガルドの目も、画面に向いた。その場にいた全員の目が画面に吸い込まれる。


「……あった」







 夏休みに入った、日曜日の午後。

 瑠璃は暑い日差しの照りつける中、待ち合わせ場所に急いでいた。場所は内見予約をした建物の前だ。自転車で行ける距離だったので、直接待ち合わせにしたのだ。だが、せめて日傘を持って歩きにすれば良かったと既に後悔しはじめていた。自転車で走っているだけで暑い。

 そろそろ目的地に着くというところで、瑠璃の視界に初老の男と若い女性が立っているのが見えた。女性のほうがきょろきょろとあたりを見たり、時間を確認しているようだった。手にはバインダーを持っている。

 そういえば事前のやりとりで、二人で赴くと書かれていた気がする。瑠璃は自転車から降りて、二人に近づいた。


「あの、ネットで予約した……」


 瑠璃が言いかけると、すぐさまぱっと振り返った。


「ああ! どうもどうも、ご予約の萩野瑠璃様で宜しいですね?」


 紺色のスーツを着こなしたごま塩頭の男は、人好きの良さそうな顔で言った。慣れた様子で、にっこりと笑う。


「はい、そうです。ええと……」

「わたくし、ご予約いただいたお部屋探しの「さんさんハウス」日羽店で店長をしております、藤井と申します」

「……西崎です」


 女性の方は男に比べて若かった。見た目は二十代後半か、いっても三十代くらいだろう。若干緊張しているのか少しそわそわしたように言った。それぞれから名刺をもらい、瑠璃は恐縮しきってどぎまぎと受け取った。すぐに藤井が続ける。


「本日は内見のご予約ということで」

「はいっ」

「ありがとうございます。本日はわたくし藤井と、西崎の二人でお部屋のご案内をさせていただきます。よろしくお願いします」

「こ、こちらこそよろしくお願いします!」

「それじゃあさっそくお部屋のほうご案内いたしますので。西崎君」

「……はい」


 西崎は頷くと、やはりどこかぎこちなく歩き出した。

 まだ築七年ほどだという建物の白い外観は、新しさを忘れていなかった。玄関先も綺麗に清掃されている。入り口の黒い扉の鍵を開けて中に入ると、細い共用廊下を進んだ。階段を登り、内見の部屋についた。西崎は扉の前に立つと、ゆっくりと鍵を取り出して扉を開けた。


「さ、どうぞどうぞ」


 藤井の声に、瑠璃は中へと入った。

 玄関を入ってすぐの廊下は薄暗く感じたが、通された部屋は明るい日差しが差し込んでいた。


「わっ、すごい明るい!」


 瑠璃は目を瞬かせた。

 広めの1LDK。ちょうど角部屋にあたることもそうだが、白い壁は日当たりを反射している。部屋に入ってすぐのキッチンはオープンキッチンになっていて、ベランダに通じるリビングを見渡せた。すぐ隣にある部屋は引き戸になっていて、開け放しておくことも閉めることもできるらしい。壁は一カ所だけベビーブルーのアクセントクロスが貼られている。

 明るいのに少しだけ薄暗いような気がしたのは、今日が曇りだからだろうか。


「今日はちょっと曇りなんでねえ、少し薄暗く感じるかもしれませんが」


 その若干の機微を読み取ったのか、藤井はにこにこと笑いながら言った。

 後ろに控えた西崎は、バインダーを抱えた手を少しだけさすっていた。


「それでですね、この右手側の窓が細長くて小さいでしょう。これねぇ、もうサイトのほうでね、ごらんになったかもしれませんがね。ちょっと秘密があってね。ちょっとベランダに出てもらうと……」


 藤井はそう続けると、ベランダの窓を開けた。


「こっち側に階段がついてましてね」


 右手側へと案内されると、階段が現れた。そこを登っていくと、三方向を白い手すり壁に囲まれたルーフバルコニーが現れた。一カ所だけ木目調の手すりになっていて、ちゃんと日差しも入ってくる。


「えーっ!? 凄い!」


 瑠璃が目を丸くした。

 夏の暑い日差しが一気に照りつけてきたが、瑠璃は気にしなかった。


「写真にも載ってたけど、こんな風になってたんだ。もうちょっと狭いかと思って」

「実際見ると結構広いでしょう」


 片隅にエアコンの室外機も置いてあるが、それすら気にならない広さだ。

 瑠璃は白い手すり壁を見ながら、自分の身長と比較する。


「外からも意外に見えないんですね」

「そうそう。風通しも結構いいから、物干し場でもいいし、テーブルとか椅子とか置いたりする方もいらっしゃるしね。出ていく時に取り払ってくれさえすれば、ウッドデッキにしたりとかね」

「へええ……」

「掃除とかはね、お客さん負担になっちゃいますけど、その分お安くなってるのでね。水とか撒いたり、めんどくさかったら業者さんとか入れてもらっても全然大丈夫なんでね」


 それから中に戻ると、一旦廊下に戻ってトイレや風呂も案内された。どちらも綺麗に清掃されていて、一人で住むには十分すぎると言ってもいい。果たしてただの学生が一人で住んでいいのかと思うくらいだ。


「家賃なんですけどね、サイトにあった通り、公共費込みで五万円二千円。学生さんだしちょっとこの二千円安くなるか交渉してみてもいいですよ」


 破格すぎた。


「……ここ、なんかあるんですか」


 瑠璃は思わず聞いた。

 冗談のつもりだったが、がたんと後ろで音がした。振り向くと、呆然としたように立ち尽くす西崎がいた。バインダーを落としたのだ。


「あ、……すいません」

「……ちょっと西崎君~。こんなタイミングで落としたら、何かあると思われるよ。ねえ? すみません、びっくりさせてしまいましたね」


 よどんだ空気を払うように、藤井は笑った。

 同意を求めるような声に、瑠璃はやや引きながらも頷くしかない。


「まあでも実はね、通常価格でも七、八万円くらいなんだよ、ここ」

「えっ」

「……実はですね」

「じ、実は……?」


 ごくりと喉を鳴らす。


「さっき、上のルーフベランダからも見えたんじゃないかと思いますけど、隣に小さいビルがありましてね。覚えてます?」

「えっと……ちょっと覚えてないかな……」

「何年か前まで、そのビルをまるっと借りて議員さんが事務所にしてたんですよ。これが選挙前になるとわあわあうるさくて。それでちょっと敬遠されちゃって。それだけならまだ良かったんだけど、ちょっと問題起こして」

「問題?」

「若い女の子に言うのもどうかと思うけど、……不倫だよ」


 藤井は声を潜めて言った。


「……あー」

「当時はテレビでも結構騒がれましてね。特にこっち側の部屋は隣のフロアがよく見えて、何か見ませんでしたか、って連日マスコミが来てましてね。いや、オーナーさんにもクレームは行くし、人が変わっても来るもんだから、困っちゃいましてね。酷いと二週間くらいで出て行っちゃう人とかもいて」


 頭を掻いて、複雑な顔をする。


「いまは議員さんも越しちゃったんだけど、人の入れ替わりが早いから、何かあるんじゃないかって思われてね。余計に敬遠されちゃいましてね」


 いや困った、と藤井は続けた。

 つまりこの部屋は訳あり物件なのだ。事故物件というと、たいていその部屋で事故や事件が起きて死者が出ている場合をいう。しかしそうした心理的瑕疵も、訳あり物件の一つに過ぎない。他にも雨漏りやシロアリ被害といった物理的瑕疵や、あるいは騒音などの環境的な要因も訳あり物件のひとつだ。

 そしてこの部屋は、環境的な要因が――それが取り除かれた後も、尾を引いているのだ。


「……」


 衝撃的だった。

 つまり、いま何も問題が無いのに家賃が下がってしまっているのだ。

 住みたい。

 ここを逃したら、これほどの優良物件も無いかもしれない。

 いま瑠璃の頭の中にはそれしかなかった。なぜか、いま手放したらいけない気がした。


「それで、どうされます?」

「す……、住みます!」


 即決だった。

 肩から少しだけ顔を出していたヨナルが、何か言いたげに瑠璃を見た。







 にこやかに客と別れた二人は、無言のまま帰路についていた。


「それじゃあ、いつものように。処理は頼んだよ、西崎君」

「……」


 西崎はすぐには返事をしなかった。重苦しい空気が二人の間に落ちている。

 西崎は大学卒業からこの会社につとめて、今年で七年目になる。ちょうどいましがた出てきた物件も、出来た当時から担当していた。内見案内も、店長についてきてもらうほど新人でもない。だがそれがこの店のルールだ。担当している物件のいくつかについては、二人で行くこと、と決められていた。互いにフォローできるようにだ。そしていま案内した物件もそのルールに則っていた。


「……良かったんですか」


 西崎はぽつりと言った。


「何がだい?」

「あんなこと言って。……だって女の子ですよ。大学生の、普通の女の子でした。これから将来だってあります。それを……」

「西崎君。訳あり物件だっていうのは納得してもらったじゃないか」

「違います、環境的に問題があったことじゃないんです」


 藤井は立ち止まり、後ろを振り返る。


「本当の事なんだよ」


 ぽつりと言った声は、少しだけ震えていた。


「本当のことなんだ。議員さんがいたのも、不倫したのも、出てってからもそのせいで人が出ていきやすいのも。……あの部屋で人が亡くなったわけじゃない」

「店長」

「いまは夏休みだ。彼女には帰る家もある。きっと彼女も二週間以内に出ていくさ。そうでなければ……」


 藤井はその先を言わなかった。

 夕暮れが迫ってもなお、外は相変わらず蒸し暑かった。だがそんな暑さも、あの部屋に比べればずっとマシだった。

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