最終話 きみとおやつを食べよう

「……これは……」


 ブラッドガルドの赤黒い目に、わずかに苦い色が帯びた。

 原初の泥はいまやほとんどが姿を変えていた。渦巻いた泥は赤い色を帯び、どろどろとした赤い水が爆発でもするようにはじけ飛んでいる。


「ぶ、ブラッド君、どうすればいいのこれ!?」

「うるさい黙れ貴様のせいだぞ殺す」

「だからなんで!!?」


 それには答えなかった。


「ふん。こうなればもはや止められん。どちらにせよ泥は地上を目指している。我は結果を見に行くだけだ」


 ブラッドガルドの下にできた影が広がり、その中に足先から溶けるように入り込んでいく。

 瑠璃は慌ててその服を引っ張る。


「ちょっ、ずるい自分だけ!」

「離せ小娘、貴様なぞここで朽ち果てろ!」

「嘘でしょほんとに置いてく奴がいるかバカ!! このおたんこなす!!!」


 ブラッドガルドの手が瑠璃の顔を向こうへ押しやり、瑠璃は逆に押しやられまいと服を引っ張った。その間にも赤いものが水のように弾ける。

 ブラッドガルドの髪までもが影の中に入り込んでいった時、逆に何かが穴から飛び出してきた。何匹もの影蛇たちが一斉に瑠璃目掛けて殺到し、その体を回収して影の中に引きずり込んでいった。その直後、二人のいた場所をもマグマが襲った。







「つまり――いままであった世界が、こう」


 アズラーンは手の上に、簡易的なモデルを出してみせる。

 平面に広がる大地と海。その上、つまり地上には空がある。

 その反対側である地下には、シバルバーがあった。

 地上からシバルバーに降りていくと、途中で重力がひっくり返り、大地の裏側に立つことができる。


「それがいまはこうだ」


 モデルが動き出した。

 平面に広がっていた大地と海が、手を握るように下に広がるシバルバーを包み込む。

 世界は球体になっていた。

 現状を知る者たちの間では、広がった海とか、新しい大地とか言われているが、おおまかには「新世界」か「世界の裏側」の二つで定着しはじめていた。裏といっても悪意は何も無く、大陸側のある世界が昼間の時、裏側は夜になるからだ。

 アズラーンによる講座を受けていたのはアンジェリカとリク、そして通信パネルを利用してカインが覗いていた。カメラアイがいた時ほど自由に見られるわけではないが、互いの魔力を通せば動いたのだ。


「……ちょっと、いまだに信じられないわね」


 アンジェリカは眉間に皺を寄せた。


「リカ達からすればそうか。平面な世界っていう明らかに違う要素が無くなっちまったのはちょっと残念だけどな」


 地球は丸い。わざわざ名前に球がつくくらいだ。


『海もだいぶ広がりましたね。大地よりかなり広くなったのでは?』


 おかげでマドラスの海賊たちが一番張り切っていた。彼らは船に長けている。いの一番に裏側を横断し、かつては東の端だった場所へ最初に到達できるのは誰か――という賭けが既に始まっている。とはいえ途中で補給も何もない現状では、果たしてたどり着けるのかどうかさえ怪しい。


「ともかく、シバルバーに行けないことはないんだな」

「……そうね」


 リクはアンジェリカの横顔を見た。

 アンジェリカの視線はまっすぐにアズラーンの手の上にあるモデルを見ていたが、実際にどこを見ているのかはわからなかった。それでも、まるで祈るように真剣な顔つきをしていた。瑠璃を送り出したことを悔いてはいないようだった。戻ってこられるかはわからないのに。

 神々もなんともいえないような顔をしていたが、シバルバーに入るために動き出した。原初の泥に飲み込まれて戻ってこられる保証が無いのは、彼らが一番よくわかっている。迷宮も塞がってしまったから、どこからかシバルバーに入る道を探さなければならない。裏側からも道が無いかを探すために、視察を兼ねて、一番早く飛べるセラフと、海が広がっていることでチェルシィリアが向かっている。


 リクはそっと視線を外した。


「それで――」


 言いかけたアズラーンが止まった。

 立ち上がり、厳しい目で周囲を見回す。落ち着かないように、一瞥する。


『どうされたのですか』


 アズラーンは質問に答えず、鋭い目で周囲を見回していた。


「何か巨大な魔力が、大地を貫こうとしている。……これは……。原初の泥か?」

「原初の泥って。シバルバーに封印したんじゃないの?」


 アンジェリカが尋ねる。


「そうだ。そのはずだ。だけど、誰かが……。いや、なんなんだこれは?」

「まさか、こっちに?」

「いや。世界の裏側のほうだ」


 それでも、全員の表情がこわばった。

 アズラーンの声色には困惑が混じる。

 そのとき、パネルに別の魔力が通った。誰かが通信してきたのだ。画面に映ったのはチェルシィリアだった。眉間に険しい皺をつくり、困惑と苛つきが見てとれる。


『ちょっと……。なんなの、これは』

「チェルシィリア! 何が起きてるんだ?」

『何かが、噴き上がってこようとしてる。大地はあなたの領域でしょう、アズラーン』


 言外に、なんとかしろと言っている。大地を突破されたら次は海の番だ。


『な、なんなんですかこれは。本当に……』


 セラフの声だけが聞こえる。

 その声色にも困惑が混じっていた。神々が全員、同じような反応を示している。ただ原初の泥が出ようとしているだけじゃない、とリクは悟った。そもそも、泥が噴き上がってくるのなら泥と明言するはずだ。それなのに、何か、と言っている。

 つまり、得体の知れない何か。

 リクは立ち上がり、警戒しようとした。だが何に警戒していいのかわからない。とにかくいつ何が起きてもいいように、戦闘態勢はとっておいた。

 緊張状態にあるのはここだけで、遠くからは人々が一時的な避難のために動いている声が聞こえる。しんと静まりかえっている。

 パネルの中で、チェルシィリアが何もない海を映している。


『きゃああっ!』


 巨大な音とともに、映像が左右に揺れた。

 魔力が影響を受けて映像が揺らぐ。


 それは巨大な爆発だった。

 海の下で大地を作っている土が吹き上げられ、衝撃波が円形に広がった。噴き上がった土砂が海を汚す。赤くどろどろとしたものが盛り上がった山から流れてきた。更に爆発が起こり、赤いマグマが噴き上がる。爆発は次々に起こり、時に火山灰と岩とがこすれあったのか、黒雲から火山雷が発生して紫色の光を放った。

 映像の向こうでは、女神の悲鳴と焦ったような声が聞こえてきている。

 海で急激に冷やされたそれは、煙をあげながら広がっていく。加えて、あろうことか強烈な魔力が渦巻いていた。

 アズラーンは呆然として呟く。


「こ、こんなの……。これじゃ、これじゃまるで……」

「すげぇ、噴火だ!?」


 隣で叫んだのはリクだった。


「火山雷とかはじめて見たぞ!」


 やや興奮するリクをよそに、アンジェリカやカインはあっけにとられていた。


「リク……」

「なんだ!?」

「あなた、これがなんなのか知っているの!?」

「えっ」


 あまりに予想外の言葉に、リクは一瞬固まった。

 変な笑いがこみあげてくる。いくらなんでもその言葉は予想していなかった。

 まさか、自然現象を知らないなんてことがあるわけないと――。







 それから、数ヶ月――。

 日本では、桜の花びらが満開になった頃。

 瑠璃は新しい自転車を引きながら、母親を駅まで送っている最中だった。


「良かったわね、ちょうど気に入るのがあって」

「うん」


 新しい自転車は、この春から通う大学に行くために必要なものだ。

 あれから瑠璃はなんとかギリギリで合格した。春が来たのだ。

 結局、瑠璃はこれから何を学びたいかわからなかった。ただ、他の人たちとの文化の違いを感じるのは楽しい、と言ったら、文化学部を薦められたのだ。そのなかで、食文化もカバーしているとある大学の人間文化学部にすべりこみで入ることができた。奇跡のようなものだ。

 受かったのは地元から離れた場所だったから、今年から一人暮らしが始まる。


「まさかこんな、ギリギリになって自転車屋さんに駆け込むことになるとは思わなかったよ」

「そうねえ。もう少しゆっくり選べれば良かったかも。あの店の店長さん、若くてイケメンだったじゃない? 目の保養だわ~~……」

「そ、それは確かにそうだったけど……」


 もしかして、なんだかんだ言って写真を撮っていたりしたのは、お父さんへの報告じゃなくて店長さんを狙っていたのか。盗撮でないだけマシだ。


「あそこ、いろいろ売ってたでしょ。もし今度店長さんに会うことがあったらよろしくね?」

「お、おう……」


 瑠璃は自転車屋に行くことになっても、とりあえず黙っておくことにした。

 そんなたわいも無い話をしていると、二人はあっという間に駅についた。駅名には大学の名前を冠していて、利用者が多いことがうかがえる。授業が始まれば、ここは電車通学する先輩や同級生たちであふれかえるのだろう。

 建物の中に入ると、改札の前で立ち止まる。


「あ、そろそろ来るみたい」

「本当だ。お母さん、もう行くの?」

「そうするわ。明日も仕事だし。それじゃあ、火の元だけには気をつけてね」

「うん、いろいろありがとう」


 もうすぐホームに列車がやってくるのを知らせる放送が入る。

 切符を出して改札に入ろうとして、急に振り返った。


「――あ、そうだ瑠璃、忘れるところだった。はいこれ」


 荷物の中から、小さな紙の手提げ袋を渡される。


「何これ?」

「御神酒。瑠璃は二十歳になるまで飲んじゃ駄目よ」

「じゃあなんで渡したの!!?」

「わからないけど、あんたのホームセキュリティにはこれが必要かもって思ったのよ。ほら、神頼みっていうから」

「え……」


 瑠璃は目を丸くして、自分の母親を見た。


「じゃあね、瑠璃。帰ったら連絡するわ。また入学式には来るから!」

「う、うん。気をつけて帰ってね」


 瑠璃は母親の真意がわからないまま、その姿を見送った。大きく手を振る姿に、自分もふり返す。やってきた列車の中にその姿が乗り込み、動き出す車内からこっちに向かって手を振っているのも見た。列車が行ってしまうと、踏切のけたたましい音が急にやんだ。

 待っていた人々と車が動き出す。

 瑠璃はそれにあわせて、自転車の籠に手提げ袋を入れてこぎ出した。調整してもらったばかりの自転車は、これまで乗っていたものよりも乗りやすかった。


 春の心地よい風が、吹き抜けていく。

 そのうちこのあたりを自転車で探索するのもいいかもしれない。近くにファーストフードの店はいくつか見つけたけれど、洋菓子や和菓子の店もあるといい。見せたいものがきっとたくさん見つかるはずだ。

 マンションにたどり着くと、瑠璃は慣れない手つきで自分の部屋番号を入力し、カードキーで玄関の扉を開けた。耳に響く足音を聞きながら階段をのぼる。


「ただいまー」


 部屋の中はしんと静まりかえっている。鍵をかける音も妙に響いて聞こえた。

 小さな玄関の先には左手側に廊下があり、その片側にこぢんまりとしたキッチン、そして反対側にはトイレと風呂の扉がそれぞれついている。それだけだ。廊下の先には部屋が一つきりの、学生用マンションの一室だ。

 テレビと三段ボックスが二つ。ベッドと机。真ん中にはテーブルと座椅子。これでだいたいいっぱいになってしまうくらいのスペースだ。自分の好みの空間にはしたものの、まだ自分の部屋という感覚は薄い。

 どこか違う部屋に上がり込んだみたいだ。


「……さて、と」


 手洗いとうがいをしてから、再び玄関に戻る。

 それから靴を手に持って戻ってきた。服装も鞄もそのままで、部屋の片隅に置かれたドアの前に立った。

 少し汚れた、クラシック風の古い塗装をされたドアだ。ドアを開けると中身は鏡になっているタイプのものである。

 瑠璃はひとつ咳払いをしてから、ドアのノブに手をかける。


 扉は開かれた。

 鏡の中は水面のように揺らめき、波紋が広がった。

 その向こうに暗く冷たい牢獄のような石造りの部屋を映し出す。

 躊躇することなく、鏡の中へと足を突っ込む。鏡もまたその体を迎え入れた。

 当然の、自然の摂理であるように。


「おまたせ!」


 靴を履きながら、その向こうにいる人影へと声をかける。


「遅い」


 イライラとした声が飛んだ。

 不遜にも猫足テーブルの上に腰掛け、足を組んで不機嫌極まりない顔の男がいた。


「遅くないじゃん、いつもより早いよ~」

「心当たりが無いとでもほざくつもりか、小娘……。まずあれをどうにかしろ。貴様のせいだろうが」


 シバルバーの天井にきらきらと星のようなものが見える。それが明かりの代わりのようになって、この空間を照らしている。シバルバーに僅かに残った原初の泥が、星となって天井に残ったのだ。焼けただれた大地には、その小さな光に照らされた場所に、小さな星のような花がこじんまりと揺れていた。これも残った泥の結果らしい。


「いいじゃん」

「良くない。ここは我の領域に変なものを作るな。貴様、自分の立場というものを――」

「あ、そうだ。お母さんが変なもの渡してきてさあ。飲む? ブラッド君、一応神様でしょ」

「あ?」


 ブラッドガルドの機嫌が更に下がったが、渡された御神酒を見るとなんとも言えない表情になった。怒りと酒への興味が天秤にかけられる。ブラッドガルドがフリーズしている間に、瑠璃の髪をかき分けて、影の中からするりと黒い蛇が顔を出した。少し汚れたお菓子のリボンを付けたその蛇の頭を、瑠璃はちょいちょいと撫でる。


「それより、世界の裏側だっけ? 見に行くんでしょ、温泉!」


 あの後、二人は地上へと無事に脱出した。

 瑠璃は大勢の影蛇たちに絡みつかれて大変な事になっていたが、とにかく地上へと出た。地上は――というより、世界の裏側と呼ばれた新天地では大変な事になっていた。

 瑠璃の「温泉に入りたい」という願いを、迷宮をとりこんだ原初の泥は叶えたのである。

 それも、火山の噴火による新たな島々の構築と、それらすべての迷宮化という、最悪だか最高だかわからない形で叶えた。温泉を中心にした保養地としての側面を持ちながら、その周囲にはブラッドガルドの迷宮以上の、とんでもなく広大でバラエティに富んだ迷宮が出来てしまった。最悪寄りかもしれない。


 そもそもこの世界には、火山が無かった。

 地下に潜む火の龍がその傲慢さに溺れなければ。その権能を剥ぎ取られなければ。その可能性は大いにありえた。本来ならそうして世界は流動し、神々が溶けた地は僅かながらに移り変わり、変化を繰り返していくはずだった。だが実際には、シバルバーは燃えた後の荒れ地だけが残り、大地の中には僅かにマグマの名残があるだけで、それもたいていは迷宮化していたために、火山は無かった。山はあるが、それは大地が出来た時に隆起しただけのものだ。

 だからこの世界の人々は、地熱によって温められた「温泉」を知らなかった。

 リクがその現象の解説と、特になぜ温泉と迷宮が一緒に出来たか、国王たちへの説明にだいぶ苦慮したのは言うまでもない。


「温泉ではない。温泉で作った菓子がある、と小僧が言うから――」

「はいはい。温泉プリンでしょ。チョコレートもあるとかいう。私は温泉ならだんぜんコーヒー牛乳だけど、向こうに無いかなあ」


 そんなものは無いと言いかけたが、かつての宵闇迷宮を思い出す。

 あるかもしれない。


「じゃあ、今日のおやつを食べに行こう!」


 瑠璃の手が黒い爪のような手を握り、外への道を歩き出す。

 ブラッドガルドはため息をひとつつき、歩いて行くつもりか間抜け、と呆れたように言った。

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