83-12話 闇の底で這いずるもの

 それは、巨大な蛇だった。

 最初に見えてきたのは、真っ黒で、棘のように逆立った鱗だった。その両側からは、髪の毛だと思ったごわごわした塊をつきやぶって、二本の角が生えている。片側は折れていた。傲慢さによって自分自身でもある炎を奪い取られ、翼と手足を失ったかつての龍。虚無だけを残し、いまや闇の底ですべてを呪いながら、浅ましく這いずる大蛇。闇の邪神。

 それがブラッドガルドの正体だ。


 瑠璃はといえば、困惑した表情を浮かべながら、おもむろにがっつりと角を両手で握った。


「えっ、これ引っ張って大丈夫なやつ?」


 ぜんぜん大丈夫ではないが、そこしか引っ張れそうなところがなかったのである。瑠璃の困惑は、どこを持っていいのかさっぱりわからないからだ。

 答えは無い。ツッコミ役もいない。かといって正解を言ってくれる者もいない。

 ぐっ、と少しだけ角を引っ張ってみる。折れそうで怖い。もし反対側まで折ったら絶対に怒るだろうからこれ以上無理もできない。

 さすがにこれ以上折れたら駄目だと思って止めた。

 仕方なく、泥を拭って、ばかみたいにでかい蛇の頭を抱きかかえることにした。両手で上からなんとか抱えようとする。大きめの人を駄目にするソファを抱えようとした時もこんな感じだったと思いだしていた。しかしそもそも全部泥に浸かっているせいで、顎の下がどこにあるのかもわからない。しかも逆立った鱗は尖っていて痛い。


「ふんぬっ!」


 力をこめる。

 ばかみたいにでかいせいでぜんぜん動かない。そもそもでかい大蛇を、訓練も受けていない人間が動かそうとする時点でだいぶ無理な話だ。


「いや……なんか……、ごめん無理……」


 ぜーぜーと肩で息をする。

 ただ、さっきに比べて若干顔が泥の海の上に出てきた気はした。気がしただけだった。

 ちょっとだけ泥を払いのける。蛇の目にまぶたはなく、開いたままだった。だが反応がない。


「あーもう! なんでこんなでかくなってんの!? バカじゃないの!!?」


 ぐぬぬ、と力をこめる。


「ねー! ブラッド君! ブラッド君てば!! ブラッド君!!」


 瑠璃は力任せに何度も呼びかける。

 やがて、ぴくり、と蛇のあぎとが少しだけ動いても、瑠璃は岸めがけて巨大な体を運ぼうという無謀な作業に夢中になっていた。

 僅かに尻尾が泥をかいた。体がわずかによじる。


「……お!?」

「…………や、かま、しい……ころすぞ……」

「あああああブラッド君だぁあああ!!!」


 瑠璃は巨大な蛇の頭に抱きついた。余計にうるさくなった。


 ――なんだ、何をしてる。どこだここは。


 ブラッドガルドはいま自分がどこにいて、どんな状況なのかもわからなかった。長い眠りから急激に目覚めたように、脳がついてこない。そしてうるさい。理解ができない。きっと目の前のバカが何度も名前を呼ぶから、うるさくて起きたのだと思った。なにしろ暗い夢の中でずっと遠くから呼ばれていて、いい加減静かにしろと叫びたかったのだ。

 だがいざ起きてみればどうだ。覚醒に対して脳の動きがついてこられず、ブラッドガルドは静かなパニックの中にいた。

 体の半分が、まだ泥の奥底にあることに気付いた。試しに動かしてみると、動いた。ずるずると泥の中から尾のほうまでが這い出る。なんだ。どうなっている。尾も溶けかけている。いや違う。逆だ。どろどろの状態から再生しかけているのだ。

 とにかくこの不快な泥の中から抜け出したかった。少しずつ体を動かす。おかげで、瑠璃もその巨体をなんとか運ぶことができた。


 二人でなんとか岸にたどり着くと、瑠璃はブラッドガルドの頭を抱えたまま尻餅をついた。頭が膝の上に乗ると、ようやく息を吐いた。ぜーぜーと肩で息をする。


「うええー。つかれた!」


 ブラッドガルドはそこでようやく、自分が正体をさらけだしていることに気付いた。ずるずるとまだ泥の中にある尾を動かした。緩慢に、自分の体を人の形へ戻していく。戻そうとしているのに気付いた瑠璃は、頭から手を退けた。その巨大な姿が次第に縮こまっていき、最後にぼろぼろの衣服の下にすべておさまった。

 なんとか瑠璃の膝の上から体を起こそうとする。起こせなかった。横へごろりと転がった。目が上を向いた時にはなんとか人型になっていた。相変わらず片足は麻痺していて、角は片方折れている。

 ゆらりと目を動かす。


 ――ここは、シバルバーか……?


 ブラッドガルドの領域。

 焼かれ、乾ききった朽ちた大地。

 だがいま眼前に広がるのは、原初の泥に満ちている景色だ。まるで泥の海のようだ。直前に何が起きたのかを思い出してくる。

 そうだ。

 確かにあの泥に呑まれた。

 抗えずに死んだ。

 とうとう死んだのだ。

 人間たちが心から望んだ結末は訪れた。抗えないほどの状況で。


 それなのにどうして浮かび上がってきたのか。

 物語の結末をひっくり返すほどの信仰があったとは思えない。人間にとってブラッドガルドは恐怖の対象でしかない。そんなものを呼び戻すほど殊勝な生き物だとは思えない。

 瑠璃がここにいるのか理解ができない。


「…………きさま……、なぜ、ここにいる……」

「助けに来たんだよ」


 ブラッドガルドの目が、瑠璃を見た。

 泣きそうな顔をしていた。

 助けに来た理由も、助けようと思った理由もわからない。

 まだ微妙に働かない頭で考える。もしかして扉のことか。


「わからん……。扉なら、鳥女が……いるだろう」

「と、扉ってなに?」


 そのうえ瑠璃は完全に扉のことを忘れていた。

 急にわけのわからないことを言い始めた人を見る目をしている。


「よくわかんないけど、友達なんだから来るに決まってるだろ」


 ブラッドガルドには理解不能だった。

 例えそれが真実だったとして、一人でやりきれるとは思えない。

 確かにあのとき、人類の意思が――もはや世界の意思とでもいうべきレベルの意思が、ブラッドガルドの死を望んだ。だからブラッドガルドは泥に還ったのだ。


 ――……扉。

 ――……ああ、そうか。

 ――こいつには魔力が無い。その代わり……。


 血と言葉が、なによりも強く作用したのか。

 その血は、契約の証に。そして言葉とは、原初の魔法だ。

 名前は姿形を縛るもの。うるさいほどに名を呼んだ行為が、形を無くしたブラッドガルドを沼の底から浮かび上がらせたのだ。そりゃあうるさいはずだ。

 それとも――と、いまだ自分の髪を結びつけているふざけた赤いリボンの存在を思い出す。結び目に強い願いでもかけたか。呪いのように。

 だがどれもこれも、瑠璃がここに来なければ話にならないものばかりだ。

 こんな泥の底に。

 深い闇の底に。

 こんな。


「……ふ」


 思わず笑いがこぼれた。


「……く、く……くくくく……」

「んあ?」

「ふ、は、はははははっ」


 瑠璃はきょとんとしながら、ブラッドガルドが笑い出すのを見ていた。


「え? な、なに? なんなの? 気持ち悪いんだけど……」


 ブラッドガルドは体を起こしたが、まだ笑っていた。


「どうもこうもあるか。ははははっ。こんなに笑える事はない。ふ、くくくっ」


 瑠璃の両肩を掴む。

 馬鹿みたいな顔を見る。悪い気がしない。この感情の名前がわからない。きっと碌なものじゃない。何かを振り払うようにまくしたてる。


「今度こそその考え無しの頭を後悔するがいい。否、否、後悔すら生温いと識れ。自分が何を引き起こしたのか、何を呼び覚ましたのかその身に刻み込むがいい。貴様は他でもない我を呼び覚ましたのだ」


 一度目は、偶然で。

 二度目は、小細工を施して。

 三度目は、無かったはずだった。


「せっかく消滅していた我をだ。あれほど貴様らが焦がれて望んだ死を、滅びを、永遠に葬り去った瞬間を、それを、それを貴様が台無しにしたのだ。ははははっ」


 何かがこみあげてくる。底なしの虚無よりももっと深い、忘れ去られたところから。自ら無用の長物として踏み潰し、ぼろきれのようになったところから。


「ブラッド君」


 瑠璃は表情を変えずにその顔を見る。


「貴様が台無しにしたのだ、貴様が。貴様が……」

「うん」


 笑い声が嗚咽に変わる。

 こみあげてきたものは、何かを壊した。目頭が熱い。見ていられない。ざんばらの髪の隙間から、とっくに枯れ果てたものが流れ落ちていく。壊れてしまった。止められない。両手が細い肩に縋りつく。指先に力がこもる。

 瑠璃は少し困ったように、ゆっくりと両手を伸ばした。ブラッドガルドを抱き留めると、慰めるように背中を軽く撫でた。堅い異形の指先が、今度こそ瑠璃を抱き返した。


「…………るり。貴様だけが……」


 生きてほしいと、願った。

 瑠璃だけが、闇底の蛇をすくいあげ、あいした。


「……うん」


 瑠璃はぽすぽすと背中を軽く叩く。力が籠もり、ぼろぞうきんのようなローブが丸く縮こまった気がした。瑠璃はみじろぎすることもなく、大きくて小さな背中を受け止めていた。しばらく、あやすようにそうしていた。

 とてつもなく長い時間のように思えたが、ほんの短い出来事だった。

 ブラッドガルドは闇が引いていくように、ゆっくりと瑠璃を離した。

 ひとつ咳払いをする。


「それで――」


 ひどい声だった。もう一度咳払いをした。


「……それでだ、小娘」


 もう声は元に戻っていた。


「うん」

「まだ、終わってはいない……。これを、……これを、どうにかせねばならん」

「これって?」

「……この泥だ」


 ブラッドガルドはシバルバーの地面を満たす忌々しい泥を見た。


「これは我の迷宮をも取り込んだのだ……。あまつさえ我の領地に主のごとく陣取るとは、不届きにもほどがある。おまけに見ろ。上の奴らなどここに封印まで施したのだ。万死に値する」

「お、おう……」


 何に憤っているのかよくわからないが、とにかく怒っているのはわかった。


「でもこのままだと扉も行方不明だし、正直邪魔だよね」

「そうだろう。人間どもの喉笛を掻き切り、報いを受けさせるまでは終わらぬ」

「いやそこまでは言ってない」


 至極冷静にツッコミを入れる瑠璃。


「ブラッド君の力でブアーッてできない?」

「わけのわからん擬音を使うな殺すぞ。……ふん、まあいいだろう。小娘、我を呼び戻した褒美だ。貴様に選ばせてやる。光栄に思え。我を崇めよ」

「って言われてもなあ」


 いまいち何を言っているのかぴんとこない。

 ブラッドガルドはどう問いかけたものかを考えるように、しばらく黙り込んでから瑠璃を見下ろした。


「ふむ。……貴様、いま行きたい所や、やりたいものはあるか」

「えっ、お風呂入りたい」

「そういう意味ではない」


 真顔で言った瑠璃に、真顔で返す。


「もっと何か……何かあるだろうが。最悪難易度の死にゲーとか思い浮かべろ」

「それこそなんでだよ!?」

「人間性を捧げたり王になったりしろ。知らぬとは言わせんぞ」

「聞き覚えはあるけどどこで覚えたのそれ!?」


 そもそも何故この状況で最悪難易度の死にゲーを思い浮かべねばならないのか。

 受験が終わったら瑠璃が死にゲーをしたいとでも思っているのか。


「でも、正直ほんとにいまはお風呂入りたいんだよ、泥まみれだし汗も凄いし!」

「やめろここをすべて風呂場にする気か殺すぞ」

「何の話!?」

「とにかく風呂の話は忘れろ、二度とするな」

「じゃあ温泉」

「あ?」

「えっ、駄目? 日本じゃなくてバリ島とかハワイとかにある感じのやつでもいいけど」

「わけのわからん事を言うな。せめて戦慄迷宮くらい思い浮かべろ」

「それこそなんで……いやほんとどこで覚えたのそれ!!?」


 正直、ブラッドガルドの知識の振れ幅がわからない。

 それ以上に、最悪難易度の死にゲーとお化け屋敷の関連性がまったくわからない。極悪な遊園地にでも行きたいのだろうかと思う。そんなものはない。たぶん。バリ島やハワイにも無いと思う。

 いったい何を考えているのかわからず、もう一度ブラッドガルドを見上げる。なにしろ途中からブラッドガルドは黙り込んでいて、まったく喋らなくなっていたからだ。

 瞬きをして、その顔をのぞき込む。目線は鋭く、泥を見ていた。


「ブラッド君?」


 ブラッドガルドはそれでも反応しなかった。

 ごぼん、と泥から大きな音が響いたからだ。瑠璃にも異変がわかった。


「え? な、なに?」


 穏やかな海のようだった泥が、渦を巻き始める。どこかへ向かって動き出し、蠢いている。


「ねえ、なんか……暑いというか、熱くない?」


 泥が動くたびに、熱気というよりは熱波に近いそれが、周囲に漂いはじめていた。向こうのほうからしゅうしゅうと音があがる。下のほうから何かがやってきているような、そんな異様な気配がする。それどころではない。大地そのもの――空間そのものが揺れていた。泥が姿を変えながら、上へ押し出ようとしている。巨大な爆発のように。


「うわっ!」


 突然、熱波の向こうから、強烈な光と熱が、ひび割れたような泥の隙間からあたりを照らしだした。熱は更に高くなり、眼を焼きそうだ。林間学校のキャンプで大きな炎に近づいた時の感覚に似ている。


「ブラッド君、ほんとになにこれ!?」


 相変わらずボロい服をつかみ、その後ろに隠れる。だがここは泥に囲まれた場所だ。結局後ろも熱い。

 そのうえ、ブラッドガルドからかえってきた言葉は予想外だった。


「……それは、こっちの台詞だ小娘……! 貴様……、貴様いったい!?」

「えっ」


 ブラッドガルドにも完全に予想外だったのか、瑠璃を見た目には怒りが混じっていた。

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