83-11話 きみの名前を呼ぼう
泥めがけて瑠璃が落ちていった。
音すらなく、その姿は小さくなって泥に巻き込まれていった。
その途端、溢れんばかりの泥が、時に爆発して燃え上がるように立ち上がった。
泥は海を浸食し、大地を食い荒らす。まるで同化していくようだった。
海が揺れ、大地が割れるほど揺れる。
「ひいいいいっ、もうだめだあっ」
世界の終わりを感じて恐怖に駆られる者。
「魔力を補強しろ! 結界を立て直すぞ!」
まだなんとか抗おうとする者。
「セラフ様。セラフ様! どうか、どうか、私たちをお助けください」
神に祈る者。
大地は立っていられないほど揺れていた。建物が崩れてきても何とかなったのは、あたりに散らばった白い羽根の魔力によって、瓦礫が空中に浮いていたからだろう。その光景を不思議だと思う間もなかった。それどころではなかった。
泥は山を覆い、川を泥水に変えていく。永遠にも思える時間、大地は動き続けていた。
だがその悪夢のような時間にも、終わりの訪れる時がきた。次第に地鳴りがおさまり、濁流のような泥が、次第に引いていくのがわかった。
「なんだ! 泥が……」
思わず目を向けると、泥がどこかに吸い込まれるように消えていくのが見えた。迷宮だった。ずるずると、かつて自分が追い求めた場所へと還るように迷宮に入っていく。地面には溶け残った瓦礫と木々が、それこそ濁流の後のように残っている。残っているのが奇跡のようなものだった。土ごと持っていかれてもおかしくなかったのだ。
地震がおさまっても、人々はしばらく起き上がることができなかった。
小さな光が三つ、空に浮かんでいた。
「あ……、かみさま……」
誰かが言った。
黒い何かに覆われていた空が、次第に晴れていく。とっくに夜の帳を降ろした空、きらきらときらめく星がまたたいた。
誰もが空を見上げていた。
「……どうなったんだ?」
周囲は何も変わっていないように見えた。
もう終わったのか。小さな光はまだわかるくらいに瞬いている。白と黄色と青。ひとつなくなった色。
陸地にいる誰もわからなかった。
だが、海にいる者たちにはよくわかった。
「……世界の果てが……」
世界で最初に呟いたのは海賊王だった。
「はははっ。こりゃあいい! なんてこった……」
「こ、これはいったい……世界はどうなっちまったんですか」
「わからん。ただ、世界の果てが……。世界の壁が無くなってやがる」
気付かないほどに、世界は緩やかに円を描いている。
まっすぐ立っているのと変わらないほど、とてつもなく果てしない、巨大な円の上にいるのだと理解した。
大地と海と空はその手を離し、その代わりにぐるりと囲んで、ミルフィーユのように重なった。
チョコレートボンボンのように内側に泥を封じ込め、シバルバーを永遠に包み込んだ。
平面だった世界はなだらかな球体へと変貌した。
世界の裏側はどこまでも海に包まれ、静かに波を立てていた。
おそらく世界の裏側にはじめて到達するものがいたのなら、海に住む者たちだっただろう。なにしろ陸地はすべて海の底にあって、海しか無かったのだから。
月が現れ、ようやく静かで穏やかな夜の迫る大陸とは違い、裏側の海の世界では反対に朝が訪れようとしていた。朝焼けが海を照らし出す。
古き女神の出現は、世界のありかたそのものをそっくり変えてしまったのだ。
*
そんな丸い大地の内側、チョコレートのフィリングめいた泥の中は、甘くもないし苦くもなかった。
ただひたすら内側の奥に向かって突き進む泥の中は、子供の頃に触ったようなものとは違った。かといって水の中とも違う。どちらが上でどちらが下なのかわからない。そもそもただの泥ではなかった。感覚で言えば、ブラッドガルドの影の中に押し込められた時に近かった。だが冷たい影の中と違って、熱さも寒さもない。だがどれもあるように感じる。
泥は一心に下へ下へと突き進んでいた。その流れに逆らえない。落ちているようだ。
途中で逆さまになったのか、それとも重力が反対になったのか、頭から落ちている気がした。そうかと思えば、今度は足から落ちているような気になる。その脇を、巨大な木や土の塊や水や花や風や瓦礫や生き物や音や光が渦巻いていた。不思議の穴に落ちていくアリスのようだ。でもアリスと違うのは、それらが次第に周囲に溶けるように消えていくことだ。巨大な木も土の塊も水も花も風も瓦礫も生き物も音も光も、過去のものであるかのように消えてしまった。みんなまぼろしだったのか。
すべて混ざり合って、銀河のように色の混ざり合ったものが見えた。星々のような光がきらめいていた。渦のような、あるいは煙のような、言い様のない色が見える。小さな星のようなものが生まれては消えていく。いくつかの星が、形を変える。光を描いて、顕微鏡でしか見えないような小さな微生物になったかと思えば、完全な形になるまえに崩れて消えていく。クラゲのように傘を持ったものもいた。かと思えば、小さな星のまま消えてしまうものまであった。けれどもそれはぜんぶ、まぼろしだ。ここにはなにも無い。なにもかもがある代わりに、なにも無いのだから。
どこまでも静かに揺蕩う原初の海。暗澹たる混沌。
その中に瑠璃はいた。
誰もいない。
何もいない。
どこでもない。
自分の感覚が引き延ばされて、泥と一緒になっていく気がした。
――わたしも、ああなるのかな。
ひどい眠気に苛まれるように目が閉じる。生温いが心地の良い場所にも思えた。
そもそもどうしてこんなところにいるんだろう。
腕を動かそうとしても、もう自分の手がどこにあるのかわからない。自分の体があるのかどうかもわからなかった。体とは何だったのか、わからなくなってくる。
もう眠気に逆らうこともできなかった。生温かな泥が覆い被さるように、ゆっくりと沈んでいく。泥に同化していく。
そのとき、わずかに指先が動いた。
何かに触れる。
――……なにか、もってる……。
――これ、なんだっけ。
――えーと。えーと。なんかおもいださないといけないきがする……。
にぎにぎと手らしきものを動かすと、少しだけ感触が戻ってきたような気がした。
何か持っている。滑らかで、平べったくて、長くて、何か記憶に引っかかる。なんでこんなものを持っているんだろう。
――いやほんとなにこれ……?
思い出そうとすると、だんだんと頭の中がはっきりしてきた。
くしゅくしゅと平べったいものをいじる。
――これ、おかしのリボンだ……。
――なんでおかしのリボンがここに……。
――……。
――おかしのリボン?
――ヨナル君のリボン!!?!?!?!
飛び起きるように、瑠璃は目を開けた。
そうだ、こんなことをしている場合じゃない。
――そうだブラッド君!!!!!
寝起きのごとく、突然いろいろなことを思い出した。
そもそもブラッドガルドはどこにいるんだ。瑠璃は萩野瑠璃というただの女子高生で、そのただの女子高生がこんなわけのわからない泥の中でぼやーっとする羽目になったのは、ブラッドガルドのせいだ。それなのに相変わらず助けに来てくれないし、そのくせ何が「じゃあな」だ。そう思うと、なんだか無性に腹が立ってきた。
そうだった。危うく忘れるところだった。
迷宮の主だの神だの偉そうな態度でいるくせに、こんなわけのわからない泥に食べられて終わりなんて、そんなの納得できなかった。
そんなわけのわからない終わりがあっていいはずがない。
ブラッドガルドのくせに。迷宮の主のくせに。神様のくせに。ブラッド君のくせに。
わけのわからない泥に巻き込まれて終わりだなんて、そんなバカなことがあるか。
だからもう一度。
あの憎たらしい口の中にチョコレートを詰め込んでやるまでは許してやるものか。
ぐん、と腕を伸ばす。
さっきよりもリボンの感触がしっかりしてきた気がする。目をやると、最初は確認できなかったが、ちゃんとちゃんと腕があることが確認できた。一瞬、「あ、私、体あったんだ」みたいな思考が浮かび上がって消えた。なにを当たり前のことを思ったのかよくわからなかった。
瑠璃は手を伸ばし、流れに乗ってどこまでも下っていく。出口が見えない泥の中、せいいっぱい腕をかいて進む。そうするうちに、だんだんと泥が重くなってきた。何か息苦しい。かきわける手は、子供の頃の泥遊びを思い起こさせた。
「ぶっはあ!!?」
急に広いところに出ると、息ができるようになった。
「は!!?」
ややキレ気味にあたりを見回す。瑠璃は泥の中――というより、乾きかけた土の中から上半身だけ出ていた。有名なクマのぬいぐるみが、太りすぎてウサギ穴を通れなくなったシーンが頭をよぎる。地面はすぐそこだが、穴から出られない。
少し考えてから、手に握ったリボンを手首に巻き、穴の縁に両手をつける。
「ふんぬっ!」
一気に力を入れて、下半身を引き抜く。
「ぐぬぬぬ……!」
ずるっと腰まで出てくる。もう少しだ。
「ぐぬー!」
ずぽっと膝まで出たところで、一気に体のバランスが崩れた。どちゃっ、と音を立てて泥にまみれた地面に上半身から着地した。わりと最悪な部類だ。咄嗟に手でかばっていなければ顔面をやられるところだった。だが口の中に泥は入った。
「げほっ、ごほっ! ぺっぺっ」
時折見かける「泥の味」という描写が実際どんなものか、身をもって知ってしまった。あまり知りたくはなかった部類だ。どろんこになっても口の中に泥を入れた記憶は……いまのところ無い。
だがどうやら脱出できたらしい。
体を起こす。体中、泥だらけだった。どういうわけか指先の泥は既に乾いたところもあって、白くなっていた。指をこする。泥は小さなかすになって地面に落ちた。どうやら脱出できたらしい。
ここは、どこだろう。
目が慣れたのか、うすぼんやりとした景色が見えてきた。
あたりは泥まみれだった。一瞬、洞窟の中にいるのかと思った。だが天井を見ると、何かの建物の中にいるらしい。だが地面から壁から天井からびっしりと泥がこびりついていて、特に床らしき場所は積もった泥でまったく見えない。天井からも垂れ下がった泥がいまも床に落ちてきている。その壁や天井には見覚えがあった。
「あっ……ここ、迷宮?」
ブラッドガルドの居城だ。
積もった泥で床が高くなってはいるが、この飾り気も何もない迷宮は覚えがある。
後ろを振り向くと、そこはもう全部が泥というか土で埋まっていた。ここから出てきたのは確かだ。自分が埋まっていた穴だけがぽっかりと空いている。もう固まっていて、どうやって出てきたのかさっぱりわからない。
瑠璃はポケットの中を探り、スマホを取り出した。指先だけ泥を拭き取って、手帳型ケースを開ける。幸いなことに、壊れてはいないようだった。ポケットの中に入れていたからだろうか。懐中電灯のアプリを起動すると、目の前が明るく照らし出された。
「これでよし」
怪我も無さそうだ。そういえばアンジェリカが魔法をかけてくれたことを思い出す。直前にセラフが凄い顔をしていたような気がするが、悪いことをしたと思う。でも、ブラッドガルドを諦められなかったのだ。許してほしい。
「えっと……ここって、扉の近くかな」
改めてあたりを見回す。
どうやらシバルバーまで一気に運ばれてきたらしい。
瑠璃は立ち上がると、ひとまず歩けるところを歩き出す。泥でぬかるんでいるが、なんとか沈まずに立ち上がることはできた。雨の日に泥まみれの道を歩いた記憶が蘇ってくる。
「ブラッド君。ブラッドくーん?」
ひとまず名前を呼んだ。
瑠璃の声は反響するように消えていく。
「ブラッドくーん。いたら返事してー!?」
泥の嵩は場所によってまちまちで、部屋そのものを埋めてしまっていた。廊下としてはまだ続いていそうなのに、泥で埋まっている場所もある。仕方なく引き返したり、別の道を行かねばならないこともあった。
「ブラッド君?」
嵩が増し、天井が近くなったエリアを歩く。スマホの光で照らしだし、角を曲がる。どうやらこのあたりは泥が覆いらしい。瑠璃の背なら比較的楽に通ることができたが、それでも頭を打ちそうで前屈みになってしまう。そのまま少し進むと、ふと壁に半円形の穴のようなものが見えた。
――なにこれ。
少しひざまずいてのぞき込む。
最初はなんだかわからなかったが、奥の方を照らすと正体がわかった。
「あ、ここって……階段?」
階段の入り口部分だった。
入り口がすっかり埋まってしまっているのだ。奥の方を照らすと、天井が更に高くなった先に段差が続いているのが見えた。
だが、そこに到達するまでにはさすがに歩いてはいけない。
どうせ今更だ。瑠璃はスマホを口で噛むと、そのまま四つん這いになって階段の入り口に入った。ゆっくりと進んでいく。何か虫でもいるんじゃないかと思ったが、予想に反して何も出てこなかった。次第に天井が高くなっていき、終わりが見えてきた。
ようやく立って歩くことができ、階段に足をかけると、普通の道を歩けることがこんなに素晴らしいことかと感謝した。スマホを口から外して、上に続く階段を見上げる。
「ここ、なんだっけ?」
階段をのぼっていく。窓が無いからわからない。たぶん高い所なのは確かだが、迷宮の居城の中でさえ、把握しきれているわけではない。そもそもどこに転がったのかさえわからない。
ようやく上まで登ってくると、急にまた広い場所に出た。
今度は広すぎた。
「ここは……」
屋上だった。
建物から、外へ出たのだ。
シバルバーの全景が見えた。
かつて炎が蹂躙し、そして永遠の荒野と化したその場所は、いまや一面泥で覆われていた。
「うわ……」
この屋上だけが、岸辺のようにむなしく浮かんでいた。海のような泥が、寄せては返す波のように屋上に入り込んでは引いていく。
これをどうやって渡るべきか。
「ブラッドくーん!」
声を張り上げる。
泥まみれの荒野に拡散して消えていく。
「ブラッド君! いたら返事ーー!」
わずかに反響するように、その声は虚しく消えていく。
「ブラッドくーん!!」
瑠璃は名前を呼び続け、時に方向を変えた。聞こえない誰かに呼びかけているみたいだった。
「ブラッドく……」
それでも呼びかけていたとき、泥の海の広がる虚しい空間に、不意に違うものが見えた。思わず声をとめて目をこらす。少しだけ背伸びしてもはっきり見えず、慌ててスマホの光を向けた。
「……あれは」
光に反射して、わずかだが赤い色が見えた。それは泥にまみれていたが、滑らかで、平べったくて、長いものが。その赤いリボンに見覚えがあった。いや見覚えとかそういうことじゃない。
絶対にそう。
「ブラッド君!!」
瑠璃はそのまま何も考えず、屋上から飛び出した。ばしゃんと音がして、それこそ本当に海を渡るように走り出した。泥の色だが、浮かんだそれも海のように浮かんで揺れていた。ばしゃばしゃと海水のように泥をかきわけて、瑠璃は腰までつかりながらたどり着いた。
「ブラッド君、ブラッド君! 聞こえる!? ブラッド君!」
赤いリボンに、何かが絡まっていた。
ばらりと広がるそれは、髪の毛のようだった。
目が一気に見開き、瑠璃は赤いリボンごとその髪の毛を引っ張った。
「……ブラッド君!! あれ、いま引き上げたら髪の毛ちぎれない!!? 大丈夫!!? ちょっとぐらいぶちぎれてもいいと思ってるけど!!!」
それくらい当然の報いだ。
だがぐいっと引っ張った時、予想外の重みとでかさに手が止まった。
「えっ」
泥をかきわける。触れた感触は人のものではなかった。ぬめぬめしている。人の肌ではない。よく知る男の顔があったわけではない。
でかい。
予想外にでかい。瑠璃の胴体よりもでかいのだ。
そもそも絡まっていたのは、髪の毛というより僅かばかりのたてがみのようなものだった。その下に、どこまでも深い暗闇があった。手で泥を取ってやると、その姿がはっきりしてくる。
黒く巨大な蛇の頭がそこにあった。
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