83-10話 溶けるのはチョコレートだけでいい

 ――しくじったな。


 あれだけもがいて、結局たどり着いたのがここか。

 ブラッドガルドは自分の感覚が泥と同化していくのを感じていた。


 こんなもの、笑い話にもならない。

 世界を盗り損ねたかと思えば、何の役にも立たないどうでもいい小娘をひとり生かして、自分はもはやどうにもならない泥の中にいる。


 ――これは、だめか……。


 今度こそどうにもならなかった。

 魔力の器は粉々に砕け、魔力の核も置いてこられなかった。細工もできなかった。そんな状態で泥に飲み込まれれば、こうなるのはわかっていた。既に思考も満足にできない。あちこちにばらけていく。「神」は原初の混沌に近しい存在であるから、こうなることは予想できていたはずなのに。

 自分という存在がほどけて、なにもかもが泥に溶けていく。

 

 いつか最期が訪れることはあっても、いまそうなるとは思ってもみなかった。情けない。だがもう何も見えないし、何も聞こえない。触れるものもない。思考もほどけていく。最期に見た顔も、もう思い出せない。こんなことなら、せめて。


 ――……いちどくらいは。


 名前で呼んでやれば、良かったか。


 そこで体は全部ばらばらになった。

 支えを失った心に泥が入ってくる。溶かされ、残った未練の一筋も、泥の中へと消えていく。

 光と闇、大地と空、そして生と死さえもない交ぜになった、混沌のなかに溶けていった。







「総員、耐えろおおおっ!」


 号令とともに、魔術師達が一斉に魔力を投入した。都市を守る結界が強化されていく。

 だが、その結界をもぶち壊す勢いで、泥が噴き上がっていた。女がブラッドガルドを飲み込んだ直後、呼応するように泥が一斉に噴き上がったのだ。それは先ほどまでの比ではなかった。海が荒れ、大地がひっくり返るほどの勢いで揺れ、空は異様な色に染まり始めた。


「うぐううううっ」


 魔術師たちがうめき声をあげ、歯を食いしばり、目を充血させながら見開く。魔力を一心に注いでも、凄まじい力が向こうから押し込んでくる。これまでにないほどの力だった。結界はいまにも壊れそうなほど罅が入る。誰かの雄叫びで修正されてなお、別の場所に巨大な罅が入る。泥だけの力ではなかった。魔力が女から解き放たれ、放射線状に稲光のように瞬いていた。


 それと同時に、全世界をつないだナビの映像が次々に切れていった。一番遠くから、電源が落ちるようにブツッブツッと音を立てて消えていく。それを目撃した者たちは、ただごとではないと思った。それからすぐにただごとではない現実を受け容れざるをえなかった。セラフはさっと顔色を変え、翼を広げた。その姿を白い鳥に変え、自分自身に渇を入れるように咆哮した。視線を、空から落ちてくる瑠璃に向ける。

 ナビの体も、次第に透明になって薄くなっていく。


『うわーっ、魔力が切れるう! これやばいよクロウ君! ガチのマジでブラッドガルドが死にかかってる!』

「そのようだな」

『うっそでしょ、クロウ君てばこの期に及んで落ち着いてるじゃん』

「まあな。そこそこ楽しかったから、いいだろ」

『……そうだね!? 私も楽しかったよ!!』


 にっこりと、あるいはにやりと口の端をあげて笑うと、二人の姿はさらさらと砂のように光の粒になって消えていった。


「な……」


 オルギスは目を丸くした。他の仲間たちも同じだった。

 いままで微妙に信じられなかったが、本当にブラッドガルドは死んだのか。いや死んだというより原初の泥に飲み込まれて、無かったことにされたのか。だがこんなところで驚いている場合ではなかった。

 アンジェリカがいまにも飛び立とうとするセラフを見遣り、一気に走り出した。


「私も行く!」


 セラフに飛び乗った瞬間、彼女は飛び立った。

 目指すのは落ちてくる瑠璃のところだ。その向こうでは泥が世界に降り注いでいた。


 そのセラフを女神とする教会でも同じことが起きていた。泥から教会を守っていた結界を強化し、回復術士たちのみならず、一介の神官や信者の魔力までフル活用してもなお拮抗状態には至らない。


「教会を守れええっ!」


 誰かが叫んだ瞬間、勢いよく結界を鈍器で殴られたような衝撃が走った。誰かが思わず振り返る。殴ったからには相手がいるはずだ。でもその手の持ち主はいなかった。向こうには何も無いのに、再び衝撃が走った。今度は結界が凹み、罅が入った。神官たちのうめき声があがる。単純な魔力だけがいまの現象を引き起こしているのだ。せめてまだ相手が見えていれば。

 何も出来ない人々は、もはや神々に祈るしかなかった。

 セラフであろうと、そうでなかろうと。祈りが彼らの力になるのだと信じるしかなかった。


 その当の神々は――急激に訪れた領域の浸食で、わずかに呻いていた。


「ぐ……」


 アズラーンの体のあちこちに裂傷が浮かび上がる。人間の傷とはまた違う、根源的なものが視覚的に肉体に現れたものだ。頭から血を流しながら、再び前を向く。壊される前に、なんとか耐えねばならない。ブラッドガルドは泥の中に消えてしまった。それを嘆く時間はまだ無い。少なくとも泥はブラッドガルドを喰らったことで、幸運にも自らシバルバーに向かっている。だがその際の揺り戻しのようなものの衝撃がとんでもなかった。

 まるで泥に飛び込んだかのように、あちこちから泥が現れた。原初の泥とは原初の混沌。すべてが混ざり合ったもの。世界を作るための素材。なにものでもあり、なにものでもない。それが大地と海を侵し、その衝撃はそれぞれを司るモノの体にわかりやすい傷をつけた。

 とにかくこの泥をどうにかしなくてはならなかった。


「アズラーン。まだ動ける?」

「……ああ。なんとかね」

「あのクソみたいな泥はシバルバーに向かってる。あれを封印するわ」

「塞いでしまうのかい」

「忘れたの? セラフが言ってたでしょう、だって。いまならちょうどいいわ。シバルバーごとがっつり囲んで、あれを封印する」

「そうか……」


 もはやブラッドガルドが助からないことを、チェルシィリアも気付いていた。

 だからもう頭を切り替えているのだ。むりやりにでも切り替えないといけない。


「余計な感傷は後にして。とにかくこの泥を、私達の領域に引っ張り込むのよ」


 アズラーンは東方の遥か果てに目をやり、チェルシィリアは遥か西方の海を見た。

 それから互いに目を合わせると、それぞれ自分のできることをしに戻った。







 瑠璃は勢いよく白い羽根の中に落ちた。

 少しだけ体が跳ねたが、衝撃が吸収されたようだった。呆然と空を見る。


「ルリ、ルリ! しっかりして!」


 意識を揺り起こしてくれたのはアンジェリカだった。まだ空の上にいて、動いているような気がした。実際そうだった。ここはまだ空の上だったし、動いている。


「えっ、なにこれ?」


 まだ混乱した頭のまま、現状を確認しようとする。瑠璃は巨大な白い鳥の上にいた。セラフだった。瑠璃は勢いよくセラフの背中に激突したのだ。どうやら受け止めてくれたらしい。セラフは落ちてくる泥を避けながら飛んでいる。


「良かった、ルリ。あんただけでも無事で――」

「アンジェリカだ! え? え? ごめん、いま、どういう状況?」


 その答えを貰う前に、更に三人目がセラフの背中に着陸した。


「無事か、瑠璃!」

「リク!」

「くっそ、この巨体め……! 崩れる時までこんな……!」


 目の前で巨大な泥があたりに散らされながら落ちていく。いくつかがこっちに向かってきた。リクが先に片手をかざし、魔力を放った。一発、二発、三発。魔力が見事に泥に命中し、そのまま落ちる。更に違う方向からも飛んでくる。剣を勢いよく振り抜くと、衝撃波のような魔力が泥にぶち当たった。二度、三度と空を斬る。衝撃波は泥を弾き飛ばし、なんとか安定を取り戻す。

 ふう、とリクは息を吐いた。

 いくら勇者といえども体力に限度はある。しかも戦いっぱなしなのだ。しかし、ここでまだ膝をつくわけにはいかなかった。


「リク。私は……、この泥をなんとかします。結界の強化をお願いします」

「なんとかなるのか?」

「ええ、私の残った力をぶっこみます。いま、他の……二人も、同じ事をしているはず」

「わかった。こっちは任せろ。アンジェリカは瑠璃を頼む」


 リクが翼を広げて飛び立とうとする。


「えっ、ちょっ、ちょっと待って!」


 その腕をがしっと瑠璃が掴んだ。


「ブラッド君は?」


 瑠璃には言いたいことがたくさんあった。誰も彼もがブラッドガルドが死んだみたいに振る舞っているのを感じていた。少なくとも、ここにいる三人はそうだった。だが恐ろしいのはそれだけじゃない気がしたことだ。ここにいる三人だけなら、まだわかる。世界全体がそう振る舞っているように感じていた。明確に言われたわけではない。見たわけでもない。嫌な予感として瑠璃の背中に突き刺さってくる。

 一方のリクは、苦々しい顔をしていた。

 縋るように腕を掴む瑠璃に向き合う。


「…………ごめん。ごめんな、瑠璃」


 リクの顔には苦渋の色が浮かんでいた。翼が広がる。


「いや、ほんと、ちょっと待って」


 ここで謝られたら、本当にブラッドガルドが死んだみたいじゃないか。

 認めざるをえない現実が、すぐそこまでやってきている。地上にいるわけではないのに、足下からじわじわと追いすがってくる。

 リクは瑠璃の肩を軽く叩いた。思わず、瑠璃も手を下ろした。もう一度魔力の翼を広げるのを、今度は見ているしかできなかった。飛び立っていくのを見送る。囂々という音が耳の奥に響いている。瑠璃は下を見て、ふらふらとセラフの羽の端まで歩いた。

 もう少しというところで、がしっと腕を掴まれた。


「やめなさい。アンタまで飲み込まれるわ」

「だって、まだブラッド君が」


 振り返ったとき、ぱさっ、と瑠璃の近くで音がした。

 瞬間的に音のほうを見ると、足下に小さなリボンが結ばれたまま落ちていた。アンジェリカの目線もリボンを追った。見覚えがある。ヨナルに付けていたものだ。拾い上げた瑠璃の顔色が変わる。頭痛のように警鐘が鳴らされる。目の前の事実を受け入れろと、足下から迫ってくる。襲い来るものから逃げるように、瑠璃は再び泥の中を見ようとした。その腕をアンジェリカが引っ張る。


「やめなさいっ。ブラッドガルドがせっかく救った命を、無駄にするつもりなの」

「そんな」

「あいつはね、ルリ。聞きなさい。あいつは」


 瑠璃の背後で、泥が迷宮へと吸い込まれていく。


「アンタに死んでほしくなかったのよ」


 迷宮は泥を受け入れていた。受け入れざるをえなかった。

 かつて人々を苦しめ、戦争の引き金となり、危機と恩恵とを与えた舞台は、いまや泥が覆いかぶさり、ただの道となっていた。シバルバーへの道。これより永遠に閉ざされる場所。

 瑠璃の手がリボンを握る。


 アンジェリカは、瑠璃が事実を受け入れられないのだと思った。何が起きたのか処理しきれず、混乱の最中にあるのだと。目の前で誰かが死ぬところを見たならみんなそうだ。すぐには何が起きたのかわからないし、受け入れられない。胸が締め付けられる。そんな人間に何を言うべきなのだろうか。少しだけ顔をあげた。瞬間、少しだけ驚いた。

 瑠璃の泣きそうな目の奥に、強い決意の色を見たからだ。

 動揺したのは自分だった。

 今度こそ何を言うべきか、戸惑った。


 ――どうして、そこまで。


 反対に、瑠璃はしっかりと向き直った。

 背後で凄まじい衝撃が走った。結界の障壁が突破されたのだ。巻き込まれた建物が泥にまみれて溶けていく。アンジェリカは自分が混乱したまま、口を開いた。


「どうなるかわからないのよ。原初の泥に巻き込まれたら。……アンタだって戻ってこられるかわからない……」


 少しだけ悩んだ末に、下を見た。それから少しだけ瑠璃に近寄って、その体を抱きしめた。瑠璃はびっくりしたように目を見開いた。セラフに聞こえないように、その耳もとに囁く。


「ちゃんと戻って来なさいよ」


 体を離し、肩を掴む。

 瑠璃はまだ目を大きく見開いていたが、すぐにその瞳に光を宿した。大きく頷いた。もう覚悟は出来ていたんだろう。それでも諦めないというのなら、もう言うべきことはない。瑠璃の手をとり、その掌に指先を当てた。


「これは御守り」


 祈るように、簡易の守護魔法を瑠璃にかけた。少なくとも、一緒に巻き込まれた関係ないものとぶつかっても多少の痛みで済むだろう。


「ありがとう」

「約束だからね」


 瑠璃が頷くのを見て、アンジェリカはにやっと笑った。それから瑠璃の背に手をかけると、ばしっと勢いよく叩いた。


「痛った!?」

「行きなさい。送ってあげるわ!」

「うわっ」


 アンジェリカは投げ飛ばすように瑠璃の体を押し出した。

 そのまま瑠璃の体は泥の中に落ちていく。あまりに自然に落ちていったので、セラフはそのまま見送ってしまった。ひゅーん、と目の前で落ちていく体を目で追ってから、何が起きたのか理解した。


「ちょっとーーー!!!? 何やってんですかリカ!!?」


 慌てて旋回するのを、アンジェリカが止めた。


「何をしてるんですか!?」


 もう一度言う。


「迎えに行ったのよ」

「む、迎えにって……ブラッドガルドを!? だ、だって彼はもう……」

「わからないわよ。アタシだって、何をしてるのか」

「なんですかなんでリカまでブラッドガルドの意思を無駄にするんですか!!」


 ブラッドガルドの意思は多分ひとつだ。それは誰もがわかった。

 その瑠璃が泥の中に飛び込んだら本末転倒だ。


「アタシもブラッドガルドは死んだんだと思う。そう信じてる。心の底から、あいつはもう死んでると思う」


 信じざるをえない状況があった。

 おそらくそれは全世界がそう思っているはずだ。でなければこんなに、納得しない。原初の泥に近い、神というものは、人の心に左右される。誰もがそう信じた時、その存在を肯定も否定もされる。

 だから、ブラッドガルドは死んでいる。


「じゃあ、どうして!」

「でもアタシは……。アタシは、ルリのことは信じたいと思ったの」


 もしかしたら、この状況をひっくり返してくれるかもしれない。

 希望にも近い、期待。

 生き返って良い事があるとか無いとか、そういうことではない。もはやその次元にある話ではない。


「そう思ったら送り出してたわ」

「リカ……」


 どことなく自嘲にも近い笑いをして、アンジェリカは腰を下ろした。

 ああ、どうか。どうか彼女だけは。彼女だけは、戻ってきますように。


 祈りにも近い思いを胸に、待つしかなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る