83-9話 宵闇の魔女(物理)

 0.1秒。

「は」と瑠璃。

 0.5秒。

「え」とリク。

 0.7秒。

「あ?」とブラッドガルドが言った次の瞬間、瑠璃の姿はブラッドガルドを通り越していく。


「……ああああああああ!?」


 きっかり1秒後、めちゃくちゃに慌てた顔をした影蛇が一斉に瑠璃を追った。

 きっかり2秒後にブラッドガルドの目が完全にリクから瑠璃へ向く。

 きっかり3秒後にはリクの翼が大きく広がり、その剣が放たれた魔力球を真っ二つにした。


 きっかり4秒後。

 リクが二つに割った球体がそれぞれ違う方向へとぶっ飛んでいくのと同時に、ブラッドガルドの手が瑠璃の胸ぐらを掴んだ。


 そしてきっかり5秒後。

 ブラッドガルドがものすごい形相で瑠璃を睨み付けた。


「……何をしてる。何をしてる。何をしてる……!?」

「うわー!! ブラッド君!!」


 その直後、遙か遠くで割れた魔力球がそれぞれ暴発し、爆音を立てた。


「うおおお!? え、なん……、ええ……。なにいまの……」


 瑠璃はドン引きしていた。

 いつものように来ただけだった。いつもと違うところがあるというなら、ヨナルが妙に引き留めようとすることだけだった。それを見て、ますます時間通りに行かないとな、と悟った。そうしていつも通りに扉を開けて一歩踏み出した瞬間、空に落ちたのである。そして落ちたと思ったらこの爆発音である。意味がわからない。そりゃあ引きもする。

「我の質問に答えろ何をしている殺すぞ」

 しかしそのおかげで、一息で言うブラッドガルドをまじまじと見る冷静さくらいは取り戻した。


「ブラッド君、それイメチェン?」

「イメチェンではない」


 怒気を含んだ低い声が答える。


「あー、うん。その、まあ、好みは人それぞれだからね、うん」

「イメチェンから離れろ」


 より声が低くなった。

 その次の瞬間だった。

 ブラッドガルドの背後で、リクの剣が勢いよく振り下ろされた。


「があっ……!?」


 背中から伸びた巨大な異形の翼が切り落とされる。


「うあーー!? 今度は何!!」

「瑠璃、そいつ――!」


 から離れろ、という言葉を即座に予想したブラッドガルドは、あえてそこから離れずにいた。

 いざとなれば盾となる。


「どさくさで世界征服してたぞ!!!」


 おかげで瑠璃の拳が顔面に入った。

 綺麗な右フックだった。

 あまりに綺麗に入ったので、スローモーションのように見えた。ブラッドガルドの気が逸れ、衝撃で融合しかかっていた魔力の核が飛び出してきた。というより、融合されまいと拒絶していた核のほうがブラッドガルドを弾き飛ばした。


「ぐ……っ!? しまっ――」


 完全に虚を突かれたその背後で、リクの剣が巨大な魔力を纏った。


 リクの剣は、風の、あるいは空の、あるいは日輪の――光の女神の象徴たる白い翼を伸ばし、その刀身に魔力で女神の文様を描いた。この場にいるセラフ以外のすべての魔力を弾き飛ばした。この場所はもともと、光である。白い羽根が世界に降り注ぐ。すなわち、もはやブラッドガルドですら近づくことは容易ではなかった。剣がまっすぐに巨大な泥の塊のような、世界の核に向けられる。

 怒りに震えるブラッドガルドが、目を血走らせ、ギリギリと噛みしめた奥歯を割り、口の端から血を滴らせながら、人類の希望に向けてその顎を開いた。


「ゆ」

「ちょっと詳しい話を聞こうか」


 勇者、と叫ぼうとしたブラッドガルドの顔面を、瑠璃の両手が挟んでむりやり自分のほうを向かせた。怒っていた。その目がまっすぐにブラッドガルドを見る。完全に怒っていた。


「は……?」


 背後でリクの剣が核に届いた。ぴきりと音がする。わずかな抵抗を受けたがものともせず、リクはまっすぐに剣を突き入れた。白い翼が広がり、稲妻のような光が周囲へとはじけ飛ぶ。ぐっと力をこめると、大きく亀裂が入った。そのままガラス玉のようにはじけ飛んだ。強烈な魔力が飛び散った。さきほどの比ではない衝撃波が迸った。割れた欠片が更に小さくなり、砂粒のように粉々になりながら、世界に還っていく。それがわずか数秒の間で起きたことだった。

 二度目の爆発音が響き渡ったが、ブラッドガルドはそれどころではなかった。

 瑠璃の暴挙にあまりに呆然としすぎて、その間に魔力を失った翼はしゅるしゅると本来の大きさに戻っていき、顔を浸食していた毛羽だった堅い蛇鱗は消えていった。足先から獣の尾が次々とこぼれ落ちていき、人の足だけが残った。最後に染まっていた眼球の黒が、徐々に引いていって白くなる。

 ヨナルをはじめとした影蛇たちは全員が顔面蒼白だった。一匹残らず、この場から一刻も早く立ち去って影に戻りたいとすら思っていた。瑠璃の怒りに触れたのと、邪魔をされたブラッドガルドがどんな手段に出るのかわからなかったからだ。瑠璃を怒らせたくない、だがブラッドガルドは主君である。影蛇たちはどっちにつくこともできずに、半泣きで瑠璃を支えている。


「は~~!? なに!? 私がいない間に何やってんだこの野郎!?」

「この野郎はこっちの台詞だ、小娘! 貴様、貴様よくも……っ、我の邪魔を……!」

「なんなのこの騒ぎ! ブラッド君のせいなの!? ねえ!?」


 瑠璃は瑠璃で、ブラッドガルドの胸ぐらを掴んでがくんがくん揺らす。


「おい暴れるな、わめくな、やかましい! そもそもなぜ貴様がここにいる!」

「私がここ来るのにヨナル君が止めるわけないし、ブラッド君がなんの打算もなく『こっちのことは任せろ』とか言うわけないじゃん」

「は!!?」


 怒りと「なんだそれは」が入り交じった声が聞き返す。


「ある意味すげー信頼はされてるな」


 二人のやりとりに目をやったリクが思わず呟いた。


「だが、だとしても、貴様がこの時間に来るはずはないだろう!」

「何言ってんの? いつもと同じ時間だよ」

「あ?」


 一瞬、意味がわからなかった。


「スマホ見る? もう四時半だよ」


 そんなバカな、というように目がわずかに見開く。いまはまだ四時前のはずだ。時計もそうなっている。まさかいままでずっと、互いの時間を勘違いしていたなんてことは無い。でなければ、なんだ。ここまで

 真相に気がついた途端、怒りが内側から再び湧き上がった。

 誰かが時計を動かした。そして、この計画を知っているのは二人きり。


「裏切り者どもが……!」


 ギリッ、と歯噛みする。

 ブラッドガルドは瑠璃の手を振りほどこうとした。


「離せ、小娘風情が……!」

「やだ!」

「あ?」

「ここ怖いから絶対離さないで!!!!」

「……貴様バカなのか!?」


 空中でわーわーと言い争う二人を、下から見ていたオルギスたちが呆然とした顔で見上げる。


「……ええと、彼女が宵闇の魔女……ですよね?」

「……だいぶ、想像と違うといいますか……」

「あいつ、魔女にいちいち返答しないといけない呪いにでもかかってるのか?」


 その横で、アンジェリカは満足げに――しかし若干のあきれ顔で見上げる。


「わかるでしょ。いま、ブラッドガルドの気を引けるのはあの子しかいなかったのよ。あいつを存分に振り回せるのもね」

「いや……まあ……。わかりますけども……」


 セラフはセラフで青白い顔をしながら引きつっていた。一歩間違えれば人間を直接殺していたかもしれないからだ。


『あーっはっはっはっは!!! ブラッドガルドの不幸でお菓子がおいしい!!!!』

「いい気味だ」


 爆笑するナビの隣では、クロウはずずー、とわざわざ音を出して紅茶を飲んだ。

 そんな下の様子に文句を言うことすらできず、ようやくブラッドガルドは瑠璃の隙をついた。


「……ッ、こ、このっ……!」

「うわっ!?」


 瑠璃の首を掴んで引き剥がす。

 若干、ぜーぜーと疲れたように肩を揺らす。子供に振り回された大人のようだった。


「……さ、散々……ごほっ、暴れおって……」


 瑠璃はなおも両手を振り回していて、影蛇たちにも手が負えない状況だった。

 怒りモードの瑠璃に対して、影蛇たちはおのおの反応を示していた。様子を見るもの、機嫌を伺うもの、宥めようとするもの、機嫌を直そうとするもの。一匹などは、泣きそうな目でおずおずと現れた。瑠璃の表情はやっぱりまだムスッとしていたが、おもむろに半泣きの影蛇の頭を掴んだ。影蛇は首を竦めるように体をよじらせた。だが瑠璃の手がくしゃくしゃと頭を撫でると、甘えるようにその手に頭を擦り付けた。

 ブラッドガルドは、自身の使い魔達の様子を眺めて怒りを覚えた。


「……もう良い……。貴様など、もはや我には必要無い……」


 その手にぐっと力が入り、片手で瑠璃を上に持ち上げる。

 影蛇たちがにわかに騒ぎ始めた。


「ちょ……」


 両手を、自分の首を絞める手にかける。なんとか外そうともがくが、ギリ、とブラッドガルドの手に力がこめられた。


「ルリ!!」


 悲鳴に近い声で、アンジェリカが叫ぶ。

 その横でナビの映像がアンジェリカの横に移動する。なにか耳打ちする。耳打ちされた通りに叫んだ。


「ルリ!! そこからパンツ見えてるわ!!!」


 あまりにそぐわない台詞に、瑠璃もブラッドガルドも「えっ」という顔をした。


 先に意味を理解し、耳まで赤くなった瑠璃の足が、見事にブラッドガルドの顔面を蹴り飛ばした。

 普通にヒットした。

 また落ちかけた瑠璃を、落ちる前に影蛇たちがキャッチした。


「ほんっ、と、信っじ、らん、ない!!」


 瑠璃は羞恥でまたギャーギャーとわめいた。

 今度こそ影蛇たちが一斉に瑠璃を宥めだした。大丈夫だから、遠いから、見えてないから。あと空中だから頼むからおとなしくしてほしい。そんな苦労が伝わってくる。


 一方で顔面に強烈な一撃を二度も食らったブラッドガルドは、顔に手をやったまましばらく動かなかった。

 かつてリクと戦い、二度三度と攻撃を食らった時ですらこれほどではなかった。

 完全に無防備な状態で蹴られたせいだ。瑠璃には殺気がない。ただ子供みたいに怒っているだけだ。だから、どうくるのかまったく予想できない。そのぶん、勇者の渾身の一振りよりも一撃が重い。加護すらないくせに。普段はまったくダメージがないのに。意味がわからない。痛みと怒りでクラクラする。


 古き女神の復活は、またとないチャンスだった。それ以来、こそこそと裏で手を回した。他の二柱の力が復活するように仕向けた。古き女神の力が注ぎ込まれた怪物は願ったり叶ったりだ。二柱が力を振るえば、その存在が認識されるのと同時に、古き女神の存在も認識される。それは、古き女神にも再び「神の座」が用意されることでもある。古き女神はかつてこの世界を喰らった。つまりその「座」は、この世界をすべて掌握するにも等しい。三柱と勇者を古き女神に注力させ、そのわずかな「座」が閉じてしまうまでに、その座に滑り込む。この世界を手中にする。原初の女神の力をとりこみ、この世界という巨大な迷宮の主の座におさまる。

 もう少しだった。

 もう少しでそうなるはずだった。

 瑠璃一人が現れたせいで計画は頓挫した。放っておけば良かった。思わず手を伸ばしたことにも動揺していた。何もかも投げ出してしまいたい。呆れと情けなさと惨めさと、理解不能な感情が渦巻く。奴はただの奴隷で、いてもいなくても関係ない。なのに瑠璃が現れた瞬間、どういうわけか「まずい」と思った。何がまずいのか。死ぬことがか。馬鹿馬鹿しい。

 いやまだだ。まだなんとかなるはずだ。

 ちなみに、下着を見たかどうかについては完全なる冤罪だ。蹴られ損である。


「ええ……、大丈夫?」


 あまりにブラッドガルドが停止したままなので、瑠璃は思わず言った。

 あいかわらずスカートの下は気にしている。影蛇たちはおろおろしながら胴体で下半身を隠していた。下から見れば蛇の形か、あるいは影のようなスカートでも履いているくらいに影蛇たちがせめぎあって隠していた。


「……貴様は……、貴様は、どこまで、我を愚弄すれば……」

「愚弄はしてない」

「殴っただろうが」

「だって、悪いことしてたらちゃんと止めないとと思ったら、うっかり手が出てて。あれっ、世界征服って悪いことだよね?」

「……」


 つまり考えるよりも先に殴っていたようだ。

 とんでもない冤罪である。特に二度目の蹴りに関しては。


 その背後で、白い翼が動いた。


「諦めろよ、ブラッドガルド」


 リクが肩を竦めながら言った。いま一番言われたくない相手だ。


「命は見逃してやるから、ありがたいと思えよ」


 なんという上から目線だ。神に向かって。


「……小娘。勇者も貴様の下着を見たから殴れ」

「えっ。嘘でしょ」

「俺は上にいたから!!!」


 とんでもない冤罪を吹っ掛けられる前に、リクは否定した。


「ブラッドガルド! とにかくルリを下に降ろして! まだ終わったわけじゃないのよ!」


 アンジェリカが下から叫んだ。


「あれっ、みんないる? なんで!?」

「そういえば瑠璃には説明してなかったな……。でも説明は後だ。いまは安全なところに――」


 ずるっ、と地上にあった泥が急激に吹き上がった。

 空中に三人の所まで一気に到達する。


「ばああああああ!!? 何!!?」


 状況が理解できない瑠璃がまたパニックに陥る。


「こいつ、まだ動くつもりか!」


 リクは慌てて視線を動かした。

 だが次に何か言う前に、リクは泥まみれの女神に押しのけられた。緩慢な動きに見えたが、その勢いは常人とも神々とも違っていた。勢いよく吹っ飛ばされる。

 女は既にその形を泥に変えていた。もはや女の形をした泥だった。目には眼球というものが無く、暗いくぼみだけがあった。口元はかろうじて人の形を保ってはいたものの、だらしなくかっぴらいたままで、下顎はそもそも作られていないように見えた。だがどちらにせよどろどろと泥をこぼすだけの陰鬱な穴があるだけだ。体も泥に覆われていて、どろどろと溶けているのに、質量は変わらないようんに見えた。それが見た目とは裏腹に素早い動きで迫ってくるのだ。


「お前が魔女かああああああああっ」

「なに! ほんとなに!!?」


 古き女神は『金の鈴』の意識をとっくに取り込んでいたのだ。根源的な本能しか存在しない場所に、金の鈴の恨みを獲得してしまったのである。


「まずいぞ! 標的は瑠璃だっ!」


 なんとか体勢を立て直したリクへ、今度は泥から次々に触手が迫った。

 頭から流れ落ちてくる泥は、次第に増えているようにすら見える。まずい、と呟いたのはアズラーンだった。許容量を超えていく。怒りが、世界を無に還そうとしている。


「お前が、お前がああああああああ」


 瑠璃を支えていた影蛇たちが、ヨナルを残して一斉に泥に向かって牙を剥いた。飛び出していった影蛇が、泥とぶつかって消え、あるいは泥に噛みつき、あるいは泥に捕まって瑠璃が捕まるのを防いだ。

 その隙にブラッドガルドが瑠璃をキャッチした。

 魔力の翼を広げ、すぐさま飛び去る。


「うわー! わー! ブラッド君ー!!」

「黙ってろ! 舌を噛みたいのか」


 目を回す瑠璃に叫んだが、実際のところ、ブラッドガルドに余裕は無かった。

 そもそもが四体がかりで削りながら挑まなければ勝てないような代物だ。魔力の核を失ったとはいえこれほどの力を振るえるとは。

 その指先から泥が何本も発射されていく。泥の弾幕を避けて飛翔していく。飛んでいたかと思えばわずかに下に移動し、斜めからの泥を更に上昇して避ける。すべての攻撃が確実にブラッドガルドを射止めるべく発射されるものだ。そのうちの一つが翼を裂き、ブラッドガルドは舌打ちをした。

 巨大な女の口の中が光り輝き、空ごと大気の魔力を吸い尽くしていく。


「ああああっ」


 その暴虐さは、空を司るセラフが痛みで体を縮こませ、顔をしかめるほどだった。つうっと頬を赤いものが伝っていく。頭から出血したのだ。


「セラフ!」

「セラフ様!」

「だ、大丈夫……」


 セラフはなんとか立ち上がろうとした。


「い、行かないと。ブラッドガルドだけでは……無理……!」


 だが、急激に大気の魔力を吸い取られたセラフは、頭から更に血を流しながら膝をつく。

 女はなおも魔力を吸収したあと、不意に静かになった。そして、ごく自然な行為のように、吸ったものを吐いた。純然な魔力が、ブラッドガルドめがけて一気に吐き出される。避けるような隙は無かった。

 ブラッドガルドは抱えた瑠璃の頭をむりやり引っ込めさせ、魔力の翼を簡易の結界に変えるくらいしかできなかった。魔力の奔流がその姿を捉え、一気に駆け抜けていった。


「があああっ」


 簡易とはいえブラッドガルドの作る結界に罅が入り、魔力の翼が裂け、その背を抉っていく。わずかに振り向き、片手だけを伸ばす。ただそれだけで指が折れそうだった。油断すれば目ごと脳が破裂しそうだ。だが耐えねばならなかった。掴むように手を握り、魔力の結界を作ろうとする。それは形になる前に崩れた。悪態をつく暇さえ無かった。それでも神の名にかけて、いまここで負けるわけにはいかなかった。魔力を集め、なんとか形にしていく。

 魔力の奔流の中を逆流し、黒い影が一気に遡っていった。

 そのうちのいくつかが弾け、残ったものが女神の口にたどり着いた。だがそれだけでは足りず、ブラッドガルドは更に目を見開いた。ぐぐ、となんとか押し返そうとする。


「おおおおっ」


 次第に吐き出され続ける魔力がブラッドガルドの手を避けるように二つに裂けた。黒い魔力が白い光のようなそれを徐々に押し戻そうとする。だがその手は安定しない。ビキビキと肌に傷が入り、裂けていく。片手では無理だ。そう思ったが、手を離しはしなかった。代わりにあらん限りの魔力を集めて吼えた。自分がバラバラになるような感覚がした。とんでもなく長い時間そうしていたような気がした。突然、互いの魔力が一気に弾けた。轟音と衝撃が響き渡り、中心から衝撃波が世界に轟いた。

 耳はとっくに機能しなくなり、キーンという音が頭の中に響いた。いまにも力が抜けそうだった。


「ブラッド君!」


 悲痛な声がした。だがブラッドガルドには、いま自分がどうなっているのかを確認する術はなかった。少なくとも腕はくっついていたはずだし、頭もあったはずだ。なんとか瑠璃が生きていると確認できていたから。何か言っているが、よくわからない。

 ぱきん、とブラッドガルドの中で音がした。

 ただでさえ罅が入り、無理に無理を重ねた魔力の器がとうとう壊れた音だった。

 器を失った魔力が流れ出していくのを感じた。血ではないが、血のように溢れてくる。もはやこれ以上空を飛ぶこともできなかったし、魔法を放つことも叶わなかった。

 その後ろで、女がおもむろに口を開けた。暴虐の顎だった。ワニのように一気に伸びた口が、ブラッドガルドめがけて迫った。選択の時間はそのわずかな間しかない。

 赤黒い瞳が、瑠璃を見た。


「……じゃあな、小娘」

「え」


 瑠璃が何か言う前に、その体は勢いよく下にぶん投げられた。


「え?」


 瑠璃はまだよくわかっていなかった。

 スローモーションのように、ブラッドガルドから離れていく。投げられた下のほうで、誰かが何か叫んでいる。

 伸ばした手は短すぎて、届かなかった。瑠璃の耳には音が一切入ってこなかった。ただ、目の前で泥の顎が閉じていくのが妙にゆっくりと見えた。脳が処理しきれていなかったからだ。だから、巨大な顎がブラッドガルドを覆い隠すのがはっきりと見えていた。


 ただその瞬間、誰もが終わった、と思った。

 世界が、ではない。ブラッドガルドがだ。誰もがもう助からないと信じた。

 それは安堵だったのか。諦めだったのか。緊張だったのか。


 音が一気に戻ってきた。瑠璃の体は一気に下降していて、轟音が体を貫く。

 下のほうで声が再び響きだした。下の方から白い羽根が浮かんできたのが見えた。その中へと瑠璃は堕ちていく。行き場を無くした泥が渦を巻き、あらゆるものを飲み込み、金の鈴があれほど求めた迷宮の底へ引っ込んでいく。その衝撃はまさに暴風であり、何もかも喰い尽くす暴虐の顎だった。


 少なくともこの世界のものたちは思った。やっとくたばる、と。

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