83-8話 対抗できなきゃできる奴を呼べばいい
魔力の核を失った巨大な女から、空を切り裂くような悲鳴が轟いた。どろどろとその頭から泥のようなものが流れはじめ、次第に全身が泥に覆われはじめた。何度も空に向かって腕を伸ばしては、地面にたたき付ける。再生と崩壊が繰り返される。人の形を崩し、ありとあらゆる生物の形質が浮かび上がりながら。全身から滝のように吹き出た泥が、世界を覆わんとする。
それだけではなかった。大地と空の繋がる世界の端からも泥が噴き上がり、この地上を浸食しはじめた。魔人を取り込んだ古い女神が世界に居座り、そして魔力の核が取り込まれつつあるこの惨状が呼び水となったのだ。
「まずいぞ……。あちこちから原初の泥が呼び出されてる」
アズラーンは真っ青になって叫んだ。
「このままじゃすべてが泥に還ってしまう……!」
空が泥色に染まり、海が侵され、この大地からもあちこちから泥が噴出していた。それは周辺にあるものを巻き込み、同化させていた。世界が泥に還ろうとしている。
それと同時に、ずずず、と空を覆う魔力が渦を巻き始めた。次第に、地上を覆い尽くさんがごとく広まっていく。その中心にいるのはブラッドガルドだった。
世界が、作り替えられようとしている。
「くそったれ!」
リクが叫び、飛翔した。ひとすじの光となって飛んでいく。
ブラッドガルドは、いまや世界の核とも言える、巨大な魔力の塊と融合しつつある。
「があああっ!」
魔力を取り込み、雄叫びをあげたその背から伸びた翼は、一気に増幅した。巨大な翼は黒い爪のようなもので構成されていて、広がった姿は蜘蛛のようでもあった。
「ふ、は。はははははっ! なんという力だ!」
ブラッドガルドの魔力が一気に増幅した。
神としての魔力の器から零れ落ちてもなおどこからか沸き起こってくる魔力。凄まじい力は、嵐の渦の中心のようでもある。ビキビキと黒い蛇の鱗が、ブラッドガルドの胸から顔にまで現れた。そのどれもが毛羽だって尖り、まるで龍の鱗だ。眼球の白い部分はすべて真っ黒に染まり、赤黒い瞳だけが闇に浮かぶ。指先の爪は以前にも増して長く長く伸び、鋭い刃と化した。その足先は既に人のものではなくなっていて、蛇や魚やありとあらゆる生物の形質が伸びていた。もはや足先なのかどうかさえわからぬそこから、形質の混じり合った魔物が生まれ落ちては泥になって消えていく。長く伸びた魚の尾だけが落ちていったかと思えば、子供の描いた絵のような、獣の形かどうかさえ怪しいものが地上の泥に向かって落ちていった。
リクの剣が、勢いよく振られてブラッドガルドを捉える。振り下ろされる剣に向かって、ブラッドガルドはただ片手をかざした。
二つが重なり合った瞬間、空を衝撃波が覆った。ぶん、という音とともに、円系にわずかな衝撃が広がったあと、凄まじい音と光が続いた。
「わ、私の空が……!」
キャパオーバーに陥ったセラフが、悲痛な声をあげた。
大地と海だけでなく、空でさえ泥に浸食され、溶けたミルクチョコレートのような色に変わっていっているのだ。アズラーンがその隣で引きつった顔をした。
「とにかくあの泥をなんとかしないと――」
いくら古き女神と戦ったことがあるとはいえ、以前と違うことが多すぎる。そこにあるのは守るべき大地と生物だ。守りたいものが多すぎる。だが何もかもぶち壊される前に、対処しなければならない。
黙っていたチェルシィリアが、アズラーンを見た。
「……とりあえず、ブラッドガルドのクソ野郎に責任を取らせる」
まるで海の底から響いてくるような声で続ける。
「あのクソみたいな泥の女神は、迷宮からシバルバーにぶち込むわ。誘導路を作って。後のことなんか知ったこっちゃないわ。で、端っこから出てる泥は……、泥は……」
「一緒にシバルバーにぶっ込むかい?」
「そんなことできるわけないでしょ」
せめて迷宮の入り口に近いところから噴出すればいいものを、遠すぎる。かといってこの地上世界をすべてシバルバーに繋げてしまったら、シバルバーからの魔力が一気にせり上がってくるだろう。そうなればブラッドガルドの思う壺だ。
頭を抱えていたセラフが、うんうんと唸ったあとに急にハッとした。
「……そうだ。球体――」
「球体?」
「はい! お二人とも。外から湧いてきた泥は、土と海に変えてください」
「……なるほど、詳しく聞こうか」
リクだけに任せることに心苦しさを感じながら、やれることをやるしかなかった。
*
地上では、そんな上空の様子を見守るしかできなかった。
『いや~、あと二十五分くらいで世界がブラッドガルドのものになると思うと感慨深いね~』
「まったくだ」
画面の中で笑うナビに、クロウが素っ気なく答える。
それだけ見れば、誰も手を出せない状況にあるのかと思っても仕方ない。だが、アンジェリカはじっとりとした目線で二人を見ていた。
「アンタらはなに悠長にお茶飲んでるのよ!?」
画面の中のナビだけではなく、クロウまでもが悠長にお茶を飲んでいるとなれば、ひとこと言ってやりたくなるというものだろう。しかも、クロウはいつの間にかアンジェリカから離れたかと思えば、ナビの隣で茶をしばきはじめたのだ。
さっきまでアンジェリカを拘束して剣まで突きつけていたのと同じとは思えない。
いったい何をしているのか。
「アンタは私の拘束はどうしたのよ!?」
「いやもうこうなれば俺の出番は無いな、と」
「なんなの!!?」
そのくせ、仲間たちに至ってはまだ首に糸が巻き付いたままだ。だが先ほどまでのような苦しげな表情でもなく、どちらかいうと困惑の表情を浮かべている。何故かきちんとした正座をさせられた格好で、ご丁寧に靴まで脱がされていた。理解に苦しむ。
アンジェリカがなんとも言えない表情を向ける。
オルギスが困惑と疲労の入り交じった顔で見返した。
「アンタたちはそっから動けないわけ?」
「何故かこの状態で固定されていて……」
「なんでよ!?」
心の底から叫んだ。
あまりにツッコミの追いつかないアンジェリカを、のったりした視線でクロウが見つめる。
「なにが不満なんだ。尻が痛くないようにちゃんと靴も脱がせただろうが」
「なんの意味があるのよその気配りに!」
『正座は慣れててもすぐ足がしびれるからね~~』
「そういう意味じゃないのよ!」
頭痛がしそうだった。というより、既に頭痛がしていた。
あれほど殺気を迸らせていたというのに、これだ。その理由が「出番が無いから」とは。
それはもう、希望が無いということなのか。
ブラッドガルドがこうなってしまえば、他に対抗手段は無いということなのか。
「嘘でしょ……。もうどうにもならないっていうの」
「は? 何を言ってるんだお前は。なんとかなるだろう。勇者だし」
『なるだろうね。勇者君だし?』
「なんでアンタたちが即答するのよ……」
違うのかよ、というツッコミは出なかったが、一瞬絶望しかけた時間を返して欲しかった。
「ブラッドガルドが融合しようがしまいが、勇者にはそれだけの力はあるだろう。実際、一度……いや二度か? 倒してるんだからな。ここまでやらかしたらもはや全世界の生物がブラッドガルドのクソおたんこなす野郎一回死なねぇかなと思っていても無理はない」
「心がこもりすぎてない?」
あからさまな敵意に近いような物言いだ。これでブラッドガルド側の陣営だというのだからため息のひとつもつきたくなる。
しかし、いまの話が事実だとするなら、結論はひとつだ。
「……つまり、リクに有利ってこと?」
その割にこの二人はどうしてここを手放しにしているのだろう。よくわからない。
なにか大事なことを忘れている気がする。
『それより時間を気にしなよ、じ・か・ん!!』
ナビが画面にどーんと出した板をぺしぺしと叩く。
「時間っていっても……、ここから私たちが何かできることあるの?」
『……どうして、時間がずれているんですか?』
画面の中のカインが少しだけ身を乗り出した。両手を組み、じっと前を見ている。実際には画面の中のナビを見ているのだろう。
「時間……?」
『えー? 知らないよお。そんな数分ずれてるくらいどうってことなくない?』
ナビが見せるパネルの前に、突然カメラアイが躍り出てきた。ナビはちらっとカメラアイを見ると、腕ですうーっとカメラアイたちをまとめて押しやった。何か抗議するように飛び跳ねる彼らに、ナビはいつもの調子で笑いかけた。
「そこにいると見えないよお~。ほら~、クッキーだよお」
ぱらぱらと落とされるクッキーの欠片に、カメラアイたちが目を輝かせて画面前から消えた。
アンジェリカがじっとパネルを見ていると、だんだんと数字の経るパネルの隅に、時計のような表示がされていることに気がついた。いまの時間だろうか。
アンジェリカはハッとして、慌てて視線を巡らせた。遠くに見える教会の大時計が目につく。ずれているのは数分ではなかった。許容範囲を多く見積もっても一時間近くずれている。
いまの本当の時間は、四時二十分。
アンジェリカはクロウに目線を送ってみたが、彼は目をそらした。肩を竦めることさえしなかった。
『……ナビさん、もしかして……。ブラッド公は、結果を出してしまいたかったのじゃあ、ないですか。邪魔をされる前に」
「カイン?」
『アンジェリカさん。いま、ここに居ない人がいますよね』
「……え、そりゃ、いないけど。……え? 嘘でしょ?」
『多分、それだけじゃないと思いますけどね。あの『金の鈴』という魔人――僕はおそらく見た事があります。オルギスさんもそうじゃないでしょうか?』
「ああ。そのとおりだ」
画面がひとつ追加され、オルギスが映し出された。
オルギスは少しだけ驚いたように目を見開いたが、すぐに我に返る。
「ブラッドガルドがいない間に、迷宮の主の座に滑り込もうとした魔人だ。覚えている。あの時、ちょうど私たち教会の探査団と鉢合わせした。ブラッドガルドの復活の瞬間にもだ」
『『金の鈴』がブラッドガルドを憎む理由が、せっかく死んだのに復活して邪魔をしたとか、あの場にいた使い魔たちを殺した、とかであるのなら――その恨みは当然、復活の手助けをした魔女にも行くでしょう』
けれども、実際の魔女に力は無い。
それなら向こうの世界へ閉め出しておけばいい。それが魔女を守りたかったからなのかはどうかはさておき。
だが魔女の使い魔という餌をぶら下げ、近づいてきた隙に魔力の核を狙い、融合する――。もしいつも通りにやってきたとしても、もはや手遅れにするために、時間まで気にして。
けれどもその時間は、何者かの手により、一時間ずらされていた。
カインは魔女の使い魔たちを見つめる。
『まだ手遅れにはならない――そうですよね?』
『ん~。七十点ってとこかな?』
「まあ、及第点ではあるな。いいだろう」
どういうこと、とアンジェリカが尋ねようとしたところで、上に影が落ちた。咄嗟に影から距離を取る。
「うわっ!」
影が一瞬にして大きくなったかと思えば、セラフが受け身をとりながら地面に勢いよく着地した。その翼からは魔力が電撃のように放出され、白いワンピースはところどころボロボロになっている。
「くううっ……!」
セラフは小さなうめき声をあげながら、顔をあげた。
「セラフ様!」
オルギスが叫んだ。
どうやら見ていない間に、上空で蜘蛛の巣状に広がった触手の攻撃を受けたらしい。逃げ切ることができずに墜落したのだ。いくら殺せないといっても限度はある。痛いものは痛いし、これほど苦戦するのはいったいどれほどぶりだったか。やはり古き女神と戦った時以来か。
「セラフ! 大丈夫?」
「だ、大丈夫――」
セラフはそれだけ言うと、なんとか立ち上がった。その目はしっかりと上空を向き、ぶつかりあう二人に向けられる。白い翼を広げると、先はぼろぼろになっていた。なんとか両翼を水平に保ち、翼が破られた箇所の羽を一気に引っこ抜いた。抜けたところを魔力で修復し、もう一度翼を広げる。
「まだやることがあるんです。この世界を壊されるわけにはいかない――!」
「その前にちょっと待ってくれない!?」
「はい!?」
すぐに飛び立とうとしたセラフが、つんのめったように止められた。
「な、なんですかいったい!?」
『僕からもお願いします!』
画面の中からカインが叫ぶ。
「カインさん! いったいどうしろっていうんですか」
セラフの疑問に答える前に、アンジェリカはナビを見た。
「……ねえ。アンタいま、どこにいるの。どこにいるかくらいは、言えるでしょ」
『最奥だよお? ブラッドガルドの迷宮の!』
アンジェリカはナビの後ろに映る景色をまじまじと見た。
ぐるんぐるんと椅子を回すナビの背後。よくは見えないが、かつてリクやアンジェリカが訪れた「最奥」とは場所が違う。
――『最奥』とは、迷宮の主となった生物の巣。
――けれども、一度は魔女に譲渡され、その後もブラッドガルドが『その部屋』にいたのなら……。
『……僕は確かに見たことがあります。彼女が……いまナビさんがいる場所はあの部屋です』
「そう……ありがとう」
「アンジェリカ、そろそろ――」
困惑して尋ねるセラフに、アンジェリカが向き直った。
「セラフ、五分だけ待って。私たちに時間をちょうだい。賭けてみたいことがあるの」
*
「ぐっ……」
力に押し負けたリクに、体勢を立て直す暇も与えなかった。蜘蛛の巣状に広がった触手がリクを押しやり、切りつけ、魔力を侵食してくる。ブラッドガルドの猛攻はいままで戦ったうちのどんなものとも違っていた。早くなんとかしなければ、完全に融合してしまう。だがこうして無駄な思考で時間をくっている間にも、ブラッドガルドと核の融合は進んでいく。
――そろそろ、まずいな……。
焦っては駄目だ。だがそう思うたびに、焦りが心の底から沸きあがる。
「勇者ぁああ……。貴様の力もその程度だったようだなあ……!」
「くっそ、負けフラグみてぇな台詞ばっかり吐きやがって!」
そのくせ、ブラッドガルドの方がいまや格上なのは認めざるをえなかった。せめてなんとか魔力の核を引き剥がさないと、この世界は確実に滅ぶだろう。地面が鳴動し、シバルバーの魔力が出てこようとしているのを感じる。
ブラッドガルドの片手に魔力が集まった。
深淵から取り出したかのような、あるいは光さえ届かぬ黒の中の黒。見た事もないような重苦しい魔力だった。片手の中で巨大化していくそれを、ブラッドガルドはいとも簡単に作り上げた。こんなものを喰らえばひとたまりもないだろう。放り投げるように、リクへと落ちてくる。
リクは我知らず剣を握る手に力をこめた。頬に汗が伝う。
そのとき、ブラッドガルドの上空に、突如として穴が開いた。召喚陣にしては、簡素なものだった。セラフの魔力がしていたが、離れた地と空間をつながれたそこからは、ブラッドガルドにとっては使い慣れた魔力が噴き出した。その目が思わず上を向く。
瞬間、人間が――人間の少女が――瑠璃が、穴からスライドするように落ちてきた。
0.1秒。
「は」と瑠璃。
0.5秒。
「え」とリク。
0.7秒。
「あ?」とブラッドガルドが言った次の瞬間、瑠璃の姿はブラッドガルドを通り越す。
「……ああああああああ!?」
叫び声が尾を引きながら、その体が落ちていった。
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